第21話 目覚めの嵐
隠居所に、静は小さな書斎を作らせた。
それはこじんまりとして、簡素なものだったが時環国の禅寺で椚山公に通された書斎を真似たつもりで作らせた。
おしげが生けた花が床の間に飾られている。
文机に両肘をついて舐めるように山背御前の手紙を呼んでいる主は、傍らで墨を磨る小者に長い時間かけてそれをやらせていた。
…お才殿が…祥に愛想を尽かしているとでも言うのか。…わしの知る限りでは夫婦仲は良きものだったが…
文の内容は簡潔なものだった。
相談したいことがあるので登城して欲しい旨を簡単に記してある。
「何故だ…」
まだ隠居して五ヶ月にもならない。この期間、静は極力城内のものとの面会を避けてきた。だから母とさえ会っていないのである。
その自分に相談があると言うのだ。身内にさえ会おうとしない静が、弟の嫁に会うとでも思っているのだろうか。
「史郎、墨をこちらへ…」
お才がこちらと会いたい理由は分からないが、こちらには会う理由もなかった。丁寧な断りの返書をしたためて、すぐに小者へ手渡す。
「織部に頼み、届けてもらおう。中身を確かめて行くように伝えよ。」
隠居に仕えているとはいえ、老臣として城内でも誰もが一目おく織部が使者に立てば無礼には当たるまい。
史郎がすぐにそれを受け取って立ち上がると、静はそのことを忘れた。
翌日もすばらしく良い天気で、朝餉を済ますなり静は史郎の尻を叩き馬を出すように命じる。
「お一人で行かれるのですか?」
まだ仕事の終わらない小者がうらめしげに尋ねる。
「そなたの仕事が終われば来い。わしは水を浴びて…」
一旦息をついて、主は声をひそめた。
「そなたの家にて待っておるゆえ…」
史郎の顔が一瞬にして赤くなった。
「は、はい。」
どもりがちに返答を返すと、主君も照れたように笑って楓に跨った。
「では、あとでな!ははは…」
軽やかな声で笑いながら静は風になり隠居所を駆け抜けていった。その素早い後ろ姿を、隠居所にいる誰もがまぶしそうに見送っている。
「なんだか殿は…比良山においでになってからの方が幼くなられたように思える。さよう思わぬか。」
白髪の老臣・織部が、のんびりと声をかけてくれた。
「本来はああいったお方なのですな。今まではお家とお国のことで頭がいっぱいで…」
史郎がにこやかに答える。
織部はその笑顔も眩しいといいたげに目を細め、言葉を続けた。
「さよう。幼少の頃より大人びておられた。今はそれを取り戻しておられるのかもしれぬ。この頃は溌剌となさって。」
「殿はまだ、十代でしたなあ。お城においでの頃は二十七、八に見えるような貫禄がおありだった。お国のためにはさて
置き、殿御自身にとっては今が一番良い時間なのかも知れませぬ。」
「そのことよ。そのことよ。…しかしそれも長くは続くまい。昨日お城に参ってわしはそう思うた。お舘様の再戦のご意志は皆の不満を一層煽っておるようじゃ。岩井殿と竹脇殿に会ったが、ひどく憔悴しておったよ。静様の下におった頃には見
たこともないような顔での。」
「…織部様」
史郎の笑顔が不安に歪む。
「うむ。じゃが心配は要らぬよ。静様はそれら全てを放っておかれはすまい。そうしたお方ゆえ…」
老臣はひたむきに主へ奉公する史郎が、よもや昨日からその愛人になりかけているとは思わないので、白い髭を震わせて笑った。史郎の不安を吹き飛ばすつもりで。
だが史郎の不安は、国の行く末などではなく、今のように静を一人占めできる時間が残り少なくなりつつあることであった。
…お城に戻られることとなれば今のようにはとても…。
それは例えようもなくさびしかった。
自分と一緒に無邪気に遊ぶ静が、再びあの老成した武将に戻ってしまうのだ。そしてあの笑顔は、見られなくなるかもしれないのだ。
史郎は老臣に会釈して、台所へ戻った。早く仕事を終えて束の間の恋人に会いたい。一瞬でも長く自分のものにしておきたかった。
「さすがにこれは、無理かのう。」
その頃静は、渓谷の下にまわって『竜神の休む場所』をはるかに眺む滝の上を見上げていた。出来ることなら注連縄で守られたその場所の近くまで行ってみたかったのだが、到底登ることなど出来ない険しさである。他の音が遠くなるほどの激しい滝の音が傍で聞こえ、静は仕方なくそれは諦めた。
「楓。しばしそこで待っておれよ。」
着物を脱ぎ捨て、下帯とさらしを巻いただけの隠居は馬を木の枝に繋げて滝の中へ歩み寄った。
痛いほどの水の勢いを肩に受けて足元がふらつく。
だが清い水は暑さを忘れさせるほどに冷たく、快かった。
僅かな間、滝にうたれた後に滝壷から川へと泳ぎ回る。じっとしているときは岩に縋り付いて身を寄せていないと流されてしまうほどの急流である。静は水練も巧みであった。
だが水練は隠居生活を営むようになってから覚えたものである。
…このような真似は、城に帰ったら出来まい。いっそこのまま病気にでもなってしまえば…
「有り得ぬことよ」
自分の甘えを言葉で遮って、静はその考えを振り捨てる。
体がすっかり冷えた頃、静は手拭いで体を拭いて着物を隙なく身に着けた。強い日差しですぐに髪も乾き、冷えた体も幾らも経たぬ内に汗ばんでくる。
後は史郎の家で彼がくるまで昼寝でもしていれば良いのだ。
再び楓を駆って史郎の家に着くと、中から史郎が走り出てきた。
「おや、そなたの方が早かったのか。」
厩とは言えないが小さな小屋が設けられおり、そこに史郎の愛馬・翡翠(かわせみ)がつながれて飼い葉を食んでいた。
「はい。私も先程に着きまいた。」
轡をとって楓を翡翠のとなりへつないだ。
「お昼寝も出来ますよう、枕を用意しました。」
「気が利くのう。そなたを待つ間一眠りしようかと思うていた。」
「私も隣りで休んでよろしゅうございますか。」
「よいよい。遠慮いたすな。そなたの家じゃ。」
縁側から上がると、団扇と枕と、薄い敷布団が用意されていた。
「暑いから布団はいらぬよ。枕だけで良い。」
静は枕だけをとって、頭の下にそれを突っ込んだ。
「では私がつかいまする。」
にこやかに史郎が団扇を振って、主の顔へ風を送り始めた。
「ああ…心地良いのう」
そのまま寝入ってしまった主君の安らかな顔を見ながら、飽きもせず史郎の団扇は風を送り続けた。
いとけない、安心し切った寝顔は自分以外の誰が見ても驚くだろう。これがあの殿なのかと。
いつしか史郎も眠気を覚え、布団に横たわり寝入ってしまった。
日が高くなり蝉時雨が浴びせるように聞こえると、史郎も静も汗ばんだ体を起こす。
「暑くなりましたな。」
「うむ…そなたも眠ったようじゃの。」
「申し訳ございませぬ。」
「謝ることはない。自分の家で眠るのが何故悪いとわしに言える?」
主君が畳の上に置かれた団扇を取り上げて扇ぎ始めると、空気が動いて史郎の首筋のあたりまで風が来た。
「若殿」
「なんじゃ」
「いつまでもこうしていられたら…よろしゅうございますなあ」
ため息と共に言葉を吐いた史郎は、軽く静の腕を引いて自分の方へ引き寄せた。その動作があまりに自然だったので、静は驚くことさえ忘れてしまった。史郎の腕に抱かれながら、
「…そうじゃのう。」
うっとりとした声で答える静の唇に、史郎は昨日のごとく唇を重ねていった。
実の兄である上三川城主佐々木昌幸からの文を受け取り、お才は困惑し切っていた。
山背国と現在交戦中の伯規国に、祥が敗れたために痺れを切らしたらしい手紙である。そうでなくても時環国との同盟を決めた相馬国に対して、対処の仕方を考えていた佐々木家だ。
椎野家と椚山公の同盟が悪いというのではない。時環国は、佐々木家も同盟を結びたかったが機会に恵まれずここまできてしまった大国である。考え様によっては「同盟国の同盟国なのだから」間接的には椚山家・椎野家・佐々木家は全て同盟国となるわけだ。
だが、策略家としても有名な佐々木昌幸は、豊かな三国の当主としてまとまった椎野家を、丸ごと頂こうという腹積もりであった。
末妹のお才は利発で美しい。女好きで有名な椎野涼の息子ならばいかようにも手玉に取れようと思っていた。
「女嫌いじゃと…?あの、涼の息子が?」
いきなり挫折した。
静は、父・涼の暗殺の黒幕は佐々木公と見ている。そのくらいのことはやりかねない男だからだ。
ほんの数年前まで椎野家に対し絶対的な優越を見ていた佐々木家は、あっという間に大名に成り上がった相馬国の城主をそろそろ片づけてしまいたいと思うようになっていた。
…そしてそのためには手段を選ばぬ…
それがわかっていたからこそ、静は時環国への働きかけを急いだのだ。
「若造のくせに、なかなかやるわえ」
佐々木昌幸は涼亡き後の椎野家をなめてかかっていただけに、その跡継ぎの行動に瞠目した。だからしばらく様子を見ていたのだ。
だが家督を継いで一年もたたずに弟にそれを奪われるにいたり、再び佐々木家は暗躍を開始した。
お才を通じて祥をたきつけ戦をさせる。勝っても負けても佐々木家には良いことばかりである。伯規国の国力を弱め、相馬国も弱体化させられる。そして戦に勝てない祥は他国からもっと侮られるようになる。
案の定、椚山公からむやみに戦するなと警告を食らった。
祥が敗戦したならば、その仇を討つために佐々木昌幸自ら援軍を送り、再戦をせよとお才に文で伝えてくる。
城主自身はやる気満々なのだが、家臣達はそれに付いてきていない。
伯規を攻めること事態にそもそも賛同しかねていたのだ。
伯規国は、相馬国の北西に位置し、山背国と隣り合う大きな領国である。一国とはいえ、相馬三国(水汀・丘越)に相当する石高を誇る。海に面して他国との行き来もあり、非常に豊かだ。山背国の佐々木昌幸は長年、この貿易港を狙って伯規と交戦している。
だが、相馬国と交戦したことはほとんどなく親交も薄かった。どうやら伯規国本城新発田(しばた)城主柿崎遠野(かきざきとおの)は、他国への侵略の意思がなく守勢を崩さぬ男らしい。
攻めるのが困難で攻められる恐れのない伯規に対し、涼も静も一切の関心を持たなかった。平たく言えば、攻める術も理由もない相手なのだ。
勿論家臣も同意見であった。
しかし実家佐々木家は援軍を送るからやらせろという。これは同盟の証を立てるということである。椚山家はするなという。祥はやるというが、家臣が付いてこない。
ほとほとお才はたまりかね、どうしたものか静に相談したくて書状を送った。
ところが静は会ってさえくれぬ。何度も願い出ているのに、登城する意志がないと断られつづけている。
侍女の伊津子がそっと障子を閉めた。風が強くなっている。
「嵐が来るのかのう…」
湿気を含んだ風の生暖かさに、お才は身震いしてそう言った。
お才は彩の丸に居住する。元は舅の側室・彩子様のお部屋であった。祥が新妻のために新しい御殿を作ると言い張るのを押しとどめて、ここへ移ってきたのである。
「伊津子や…」
山背国から連れてきた数少ない侍女の一人は、お才の二つ年上である。
「はい、お方様」
「いかがしたら、静殿は相談に乗ってくれるのであろうな。」
もはや、この国で頼れるのは義兄だけなのである。静は隠居したとはいえ、まだまだこの国での影響力が強いだろう。
むしろ誰もが静の沈黙を不気味に思っているに違いない。
一番恐れているのは、他ならぬ祥である。
弟が謀反を起こしたとき、静は全てをすんなり彼に譲った。それだけに祥は兄に負い目を感じることだろう。静の言うことならば、耳に入れるかもしれない。
「お方様…御隠居様は決してお城へいらっしゃらないそうですが、隠居所へ見える方とは、どなたとも拒まずお会いになるそうです。思い切って、お城を抜けて比良山へ行かれては…」
「そのようなこと、出来るわけあるまい。」
「比良山には神社もありまする。椎野家の菩提寺もありまする。お方様の頼み方でございましょう。」
「今のお舘様が私の頼みなど聞いてくれようか…」
かなしげに嘆息すると、大きな瞳に見る見る涙が浮かんだ。
現在の祥は側室のお津奈に夢中である。お才の輿入れから一年も経っていないが、やはり父親譲りか、すぐに側室を作った。
戦には負けるし、お才の方は山背国からのうるさい通達を年中持ってくる上に、家臣達は言うことを聞かない。
荒れかけた祥を射止めたのは、伯規国へ攻入った時に捕らえた桐沢城主・間宮春重の側室であった。
お津奈は、十人並みの顔つきで美しさでは正室お才や、母のお陽などとは比較にならない。
「だが、匂うような色気と気立ての良さがのう…」
とにかく優しいのだ。気位の高い武家の娘とは思えない、優しく、素直で朴訥な娘であった。
「私のようなものがお舘様をお慰めできましょうか?」
恐縮しながら城に入ると、実に良い。
通ってくる祥へのもてなしが、お才とはまるで違うのだ。着替えや食膳の用意など、普通は侍女がこなすことを、お津奈は手ずから嬉しそうにしてくれる。酒の器・着物の柄、たき込める香まで常に気を配る。
気が付けば繕いものまでその場でやる。
そのくせ、微塵も媚びやわざとらしさを感じないのだ。
家督を相続してから何一つうまく行かぬ祥の心を癒したのは、この敵国の女性であった。
「私は、何の取り柄もありませぬゆえ…」
慎ましくおとなしい。
比べると、言うべき事を何でもはっきりといってしまうお才は、やや気の強い女子に映ってしまうのだ。
「殿方にはありうる事でございますゆえ、悩まれますな。」
姑に当たるお陽は、さすがにそこは貫禄でお才を慰めてくれた。
「正室のお才殿に必ずいつかは戻ってまいりますよ」
他に三人の側室と寵を争っただけのことがあり、美里丸の主人は小さく笑っただけだ。
だが、美里丸御前と違い、お才は周囲に誰一人味方がいない。後ろ盾がないのである。お陽の父は重臣・吉野高元だ。
夫とも親しい主従であり、心強い味方であった。
お才にとってただ一人頼りとする夫の心が離れれば、心細いのは当然である。
…ああ、やはり静様にお輿入れしたかった。あの方ならば私をかような目にあわせないだろうに…
本来ならば夫になっていたはずの義兄は、隠居するまで何くれと自分に気を配り、優しくしてくれた。
「今一度お頼みしてみようか…無理かも知れぬが」
一縷の望みを隠居へつないで、山背御前は涙を拭った。
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