第18話 龍の眠り
池田が使者よりも先に戻ってきて、事の次第を告げた。
「それでよい。すまなんだな。」
夜通し走ってきたためにまだ布団から出ない静は、枕越しに跪く密偵にそういうと、再び潜ろうとする。
「静様」
無礼なのもかまわず顔を覗き込むように声をかけた。
「なんじゃ」
仕方なく、とでも言うように、静は面倒そうに瞳だけを布団から覗かせる。
「本当に家督を弟君にお譲りなさるつもりですか。」
「他にどうせよというのじゃ」
「皆、静様が起つならばと、士気を上げております。何故城を奪い返さないのです。」
「池田」
「はい。」
「内乱なぞ起こせば一番泣くのは誰じゃ。」
「…」
「国を治めるものはわしでなくてもよい。そやつに、領主の資格があるかどうかじゃ。それはわしが決めるのではないし、まして戦で決めるものでもないわい。」
「祥様が治める相馬国が生き延びられるとお思いか?」
「わしが治めて滅びぬとも言い切れまい。」
静の言い逃れに近いようなへ理屈に、池田は呆れたかに見えた。だがその次の瞬間、
「ご無礼!」
突然池田はその太い腕を伸ばし、静の布団をはいだ。片手で主の口をふさぎ、乱暴に寝間着の袷を押し開く。
「……!」
驚いた静は、声も出せず、自分の体に伸びてきた池田の手をつかんで引き剥がそうとするが、忍びの腕はびくともしなかった。足で蹴り上げようとするが、池田の右足がのっているだけで微動だにしない。
白いさらしに巻かれた胴体がすぐに現れ、乳房を覆い隠した白い布さえ簡単に解かれる。
「……!…!」
何事かを叫ぼうとしているのだろうが、どこをどうされているのか声が出なかった。静は、日頃から自分に付き従う密偵の恐ろしさを初めて知った。
椚山公に迫られたときさえ、これほどは恐ろしくなかった。あの時は相手も酔っていたし、刀も傍にあった。
容赦なく池田の手が下半身に伸びる。たやすく下帯を脱がせ、すべてが光のもとにさらけ出されて、静は涙を目に浮かべた。
「やはり。静様は男ではなかった。…これが理由でございましたか。」
事を確かめた池田はすぐに手足を解放したが、抑えられていたその感触が消えないかのように、若い主はしばらく動けなかった。
「申し訳ございませぬ。大変ご無礼をいたしました。」
口だけは抑えたまま、静の下着や寝間着を元どおりに直していく。片手なのに手際よく、あっという間にもとのように布団の下へ主を覆い隠した。
「我が無礼、お許し下されましょうか?」
恐らく、許さぬと言ったら手を放してくれないのだろう、静はすぐに首肯した。
「…いつから気が付いておったのじゃ。」
わずかに涙ぐんだ声ではき捨てるように主が言う。
「そうですな、史郎殿が来られてからですかな。…普通忍びなれば、一目で分かるものですが、よくぞ我らの目を騙しおおせましたと申し上げておきましょう。」
「やはり年は隠せぬ。幼き頃はいかようにもなったが、もはやこれ以上は難しい。…なればいっそ出家でもしてしまったらよいかと思うた。」
「此度弟君へすべてを譲りなさるのは、このためですか。」
「いろいろ考えた。時環から帰る時、もはや弟を生かしてはおけぬとさえ思ったが自分の国を戦場にするなどばかげた事じゃ。本来ならば彼奴が跡取りなのだしのう。そこで、二度とこのような事が起こらぬよう、見せしめといたさねばなる
まい。弟には悪いが、わしがここで彼奴にすべてを譲ってもどうせ長続きせぬ。祥の他にも反乱分子はおらぬでもない。ここらでじっくりと時間をかけて燻り出してもよかろう。」
「…そのようなお考えが」
若い主君に乱暴を働いた密偵は、頭を低く下げて平伏した。
「まあ、これはわしの胸三寸のことよ。隠居をしておれば病気になったり、出家したりして人前に出ずともよい理由が様々でてこようしの。わしがここで祥に折れる理由は三つ。」
静は布団から指だけを出した。
「反乱分子の撲滅」
「人前に出ぬための工作」
「…休暇と情報収集じゃ。わしは元服してから父と共に働きぬいてきた。このような生まれつきで休まらぬ。…わしを女と見抜いた以上、史郎がことも気が付いておるのだろう?」
密偵は軽く頷く。
「わしのただ一つのわがままを、許してくれい」
「静様のお体の事を知っておられるのは…?」
「母と吉野と史郎…そしておぬしじゃ。あと、下女のおしげが気が付いておるかも知れん。」
「せめて我らにだけはお漏らし頂きたい。」
「そちら知ってどうするというのじゃ?」
「影武者を…」
「いらぬよ。」
「いいえ、静様が表に出ねばならぬときのみ、必要でございましょう。ご案じ召されますな。」
「池田。」
「は」
「そのようにわしを管理するな。心配してくれる気持ちは嬉しいが、生まれ落ちた時より人の言いなり…せめておぬしくらいわしを管理するのはやめよ。」
「静様、我らはけしてそのような…」
「全てが不自然なわしじゃ。どうしても必要なればその時になってからでよい。」
「わかりました。」
「ひどい目にあわされた。もはや眠れぬわ。酒を持て。」
「史郎を呼びまするか」
気を利かせたつもりで池田はそういったが、静は今史郎に会いたくないらしく、
「無礼を働いた罰じゃ、おぬし持ってこい。」
と命じた。
盛んに息巻いて憤慨したふりをする主が、やけにおかしくて苦笑を誘う。池田はすぐに腰を浮かせて命令に従った。
密偵が寝室を去るとすぐに静は起き上がり身支度を整えた。脇差しだけでもと、腰に帯びる。
…なにやらこのごろは油断がならぬ。
深く息を吸い込んで吐く。
池田に押さえつけられたときは、心臓が止まるかと思った。現在冷静でいられる自分が不思議なくらいであった。
密偵の行為がいかにも真実を追求するために、事務的だったからかもしれない。
だが、さすがに隠し切れなくなってきた自分の素性を、しばし保留にできる機会が巡ってきたのだ。
弟の反乱を、静はよくよく考えて、よい機会と解釈した。
今いたずらに小競り合いを起こして国を乱すよりも、より未来のことを考えてここは折れるべきだと考え直したのだった。
時環との同盟も成ったばかり。事を構えたくない。
これで弟がよき君主となってくれれば申し分は無いが、そこまでは静にもどうにもならぬ。
…こんなに早く隠居する機会が巡ってこようとはのう…
この事を告げたら、史郎は喜ぶであろうか。当初望んだ本当の隠居生活とはなるまいがそれでも今までに比べればずっと自由のきく生活となるし、史郎と二人で過ごす時間も持てるようになろう。
「申し上げます。」
池田が今度は障子越しに廊下から声をかけた。
「早いの。入るがよい」
「いえ、安川様お戻りにございます。」
静は立ち上がった。
「そうか。内記にはすぐに床をとってやれ。わしも今行く。」
そのまま障子を開いて、城主の寝室へ足を向ける。すでに池田はいない。
廊下は中庭へぬけており、内記お気に入りの庭師が端正込めて世話をしているたくさんの植木が見えた。
夏に向かいほとんどの花びらを落としてしまった菖蒲が、一輪咲き残っている。青々とした葉の中でそこだけが白く浮き上がって見えた。
「母上!お花でございます。こちらに」
庭の茂みから、いかにも腕白そうな少年が走り出てきた。内記の息・藤次郎だろう。
静は空を見上げ、
「…田植えの季節よな。」
ぽつりと呟いた。幼い頃、父の馬に乗せられて近在の村へ出かけては田植唄を聴いた。
一緒に行きたいと駄々をこねる弟に、もう少し大きゅうなったらなと優しく宥める母が、眩しげに馬上の自分と父を見上げていた。
あの頃はこんな事になるなんて、誰一人思っても見なかった。
祥の謀反の知らせを聞いたであろう、母の心痛を思うと、さすがに静も胸が痛む。お陽の方は政治向きの事に関して決して口を出さぬゆえ、今も沈黙を守っているが、本当はすぐにも祥の所へ乗り込みたいことだろう。
侍女の手を引いて庭を歩きまわる少年を尻目に、静はその父親のもとへ急いだ。
内記は思いのほか元気で、床は取ってあったが、きちんと座して静を待っていた。
「病中と言うにすまなかったのう。具合はどうじゃ?」
「久しぶりに外の空気を吸いまして気分爽快にて…」
いいながら、返書を差し出した。
静は頷いて直接受け取り、その場で開いた。
祥の筆跡を眺めつつ、
「祥の様子はどのようなものであったか?」
内記に声を投げかけてくる。
「お舘様の書状をご覧になってから、大層驚いておられました。しかし、その後ご機嫌もよく…出来るならば隠居所が出来た折にでもお会いしたいと仰せでした。」
「あえてわしと合戦致そうなどと言い出さなかったであろう?」
「はい。ただ、お付の方が大層不審げにわしを見ておりました。」
手紙を折りたたみ、静は内記にそれを戻した。静の出した条件を飲む事がしたためてある、短いものだった。
「お付き…?家臣が傍に付いておったのか。鏑木あたりか?」
鏑木基胤(かぶらぎもとたね)は、涼が祥につけた家臣の一人である。静は彼を腰巾着と呼んでいた。常に祥の傍から離れぬが、あまり役に立ちそうに見えなかったからである。
…かといって、謀反をそそのかす様にも見えなんだが…
「ええ…確か、岩井殿と申される…お顔立ちはいささか大人びておられるが、お若い方でございました。」
その名を聞いた時の静は、なんとも言い難い反応だった。
「それがしの記憶では確かあの方は静様にお付きの方だと思っておりましたが、勘違いでござりましたな。病で外に出ず、記憶力まで腐っておりま…お舘様?」
年若い主は大きく目を見開き、つかの間、瞬きも忘れたようであった。焦点のあわなくなった目が限界まで開かれ、じっとりと潤んでいる。
「岩井が…?祥の下におったと…左様か…」
やがて絞り出すような苦渋に満ちた声がそれだけを告げると、
「お舘様、それがし何か無礼を致しましたか?」
しきりに心配する内記に手を振ってみせ、それきり黙ってしまった。
岩井は、三浦と共に静自ら選び出した腹心の部下であった。
静が初陣の際、少年ながらよく立ち働く二人を見て興味を持った。戦後に城下町で二人を見つけ、一年ほどの交流の後に、
「是非、我が家臣に。」
と望んで以来の、長い付き合いである。
率直で頭の回転も早い三浦に比べ、岩井は思慮深く、慎重であった。正反対の二人を一緒に仕えさせてみたいと、静は強く思ったのである。
…これは、こたえるのう…祥の謀反なんぞよりもよほど。…岩井め、かほどに国を統一したい意志を捨てられなんだか…
あれほどの信頼を置いて頼りにしてきた家臣の一人であったがために、静にとっては実の弟の裏切りよりも大きな打撃であった。
「大儀であったな。内記、ゆっくり休んでくれ。」
と低い声で呟くまでには、ずいぶん時間がかかった。
不安げに声をかけようとする富樫城主を手で制して、静は立ち上がり、部屋を出ていった。
先程の中庭には、もう誰もいない。
咲き残る白い菖蒲の花を見つめて、静は長いこと立ち尽くしていたが、足音低く日向が廊下を歩み寄ってきた時にようやく口を開いた。
「日向…加羅衆の中におぬしらのような密偵を勤められるものはいかほどいる?」
「五十名ほどでしょうか。」
「それ程に多かったのか…わしが今までつこうてきたのはわずか二十名足らず…宝の持ち腐れよの。頭領は池田とおぬしじゃな。」
「池田様が頭領にございます。」
「わしが隠居してもわしに従うてくれるか」
「言うまでもありませぬ。亡き大殿が跡継ぎとしておきめなされたのは静様ただ一人。祥様ではありませぬ。」
静はようやくその唇に微笑を浮かべた。
「わしは此度比良山へ隠居する。だが、情報は遅滞なく得ねばならぬ。恐らく祥の治世など長くは続くまい。これからは油断もならぬゆえ、領国内もしかと探ってくれ。」
「は。かしこまってござる。」
「よし、ゆけ。」
「静様…」
「なんじゃ?」
「我らは亡き大殿がお決めになったから、静様に従うのではござらぬ。静様は、大殿が跡継ぎとされるに相応しきお方ゆえにおつかえいたしまする。我らの主は、我らが決めるのでござる。」
慰めてくれているらしい。
静は苦笑した。
「日向よ。わしが女であること、いつから気づいておった?」
「…わかりませぬ。いつのまにかそう感じておりました。忍びの感覚は、鋭いものでございますゆえ。」
「ゆくがよい。」
若い主君をその場に残し、密偵はすばやく立ち去った。
静は、絶望という谷へ落ち込みそうになりながら、それでも誰かが救ってくれることに感謝しつつ、目を閉じた。
「…束の間の眠りじゃ…恐らく今度目覚めたら死ぬまで眠れぬ。それまでの…まどろむとしようかのう…」
目を開いたときには、中庭に足を踏み入れてこちらを見つめる史郎の清しい姿が視界にあった。
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