第19話 龍の臥所
隠居所へ仕えるものは全て静が決めていた。邸宅が出来る前から、その旨を現領主の祥へ伝え、部屋数もそのように整えられている。
比良山へ帰れると知った時、史郎は、領主の座から引き摺り下ろされたとされる主君には申し訳ないけれども、非常に嬉しかった。
「嬉しいか、史郎?」
勿論皮肉ではなく尋ねてきた主君に、ためらいがちに頷く。
「そうか。なればわしも嬉しいぞ。」
にっこりと微笑んでそう告げた主君に、申し訳ないと思いながら史郎も顔をほころばせた。 夕食を済ませた静に茶を持ってきた小者は、事の次第を聞かされてさすがに心配をしていたが、
「案ずることはない。隠居する夢がこんなに早う叶ったのじゃ。わしを気遣ってくれる者たちには悪いが、わしも本当はそなたと同じくらい喜んでおる。」
静が屈託もなくそう告げる。
「野山へもご一緒できまするのか?」
史郎は、童顔が一層強調されるような楽しげな顔で言う。
「ゆけるとも。一緒に河原へもゆこう。神社へも詣でよう。これからは史郎といくらでも共にすごせるぞ。今までのような厳しい警備の者もおらぬ。自由に遊べるゆえな。」
この事を知った夜、史郎は嬉しくてなかなか寝付けなかった。
…比良山へ行ったなら、まずは神社へお参りをして、それから竹林へご案内をして…それから野兎の巣を見せて差し上げねば。ああ、数え切れぬ。たくさんたくさん、静様にお見せしたいものがある。早く、その日がくるとよいのに…。
その夜は、静も眠れなかった。
遅くまで池田と日向と打ち合わせをしていたからである。
加羅衆はそのほとんどが美里城へ戻ったが、密偵の役目を担った何名かがその中にもいた。
京・時環・山背をはじめとする各地へ散っていった者がほとんどであるが、数名相馬に残る。護衛と統率を兼ねて池田・日向が静の元に残った。隠居所を警備する忍びを他に三名配置する。 隠居所へ仕えるものは史郎・おしげの他に下女が一名と下男が一名。池田と日向がこれに入り、老臣の織部と、養子にする予定の椎野佳近が本人たっての希望からここに入る。そして加羅衆が警備として二名。
岩井の件にひどく心を痛めていた静であったが、いずれにせよ家臣のほとんどが祥につかねばならなくなったことを考えて、気にとめないこととした。
三浦や、竹脇も静のもとに残ることを望んだが、静はあえてそれを禁じた。生え抜きの家臣たちには、自分の下について気をぬくなどと言った休暇を一秒たりとも許すつもりはないのだ。
東の空が白む頃に、静はようやく臥所へ入った。
目を開いていられないほどに疲れ切っているのに、静の感覚はやけに冴えていて眠れない。
…わしも、楽しみなのじゃな。隠居生活が。
浮かぶのは目に痛いほどに鮮やかな緑と、白い飛沫を上げる水と、色とりどりに咲き誇る花達。その中を歩く、自分と史郎の姿であった。
…そんな生活がやってくると思うと心はずむ。史郎もそうであろうか。
いつしかその空想は、父との思い出と入り交じり、徐々に静を眠りに引き込んでいった。
二日後に、隠居所着工の知らせが届き、同時に祥が静に会いたいと言ってきていた。
美里城からの使者を目の前に、静はしばらく沈黙を守っていたが、
「お舘様のお気持ちは嬉しゅうございまするが…我らは兄弟ゆえに面と向かえばどうしても情が生まれ、今まで決めてきたこと全てを覆すことになるやもしれませぬ。わしも実の兄弟ゆえ会いたいが…ここは我慢いたしましょうと、お伝えくだされ。」
と、返答した。
労しそうに城主の兄を見つめるこの使者は、ついこの間までは静に仕えていた城内の侍臣境宗清(さかいむねきよ)である。現在は祥の上意である彼よりも、隠居の身となった静が下座となっていた。
「お言葉しかと承りました。…しかし、静様、お労わしゅうございます。いったい何故にこのような…」
後半は、明らかに境の本音であった。
「境、心配してくれる気持ちはまことに嬉しい。この静、心に刻み置く。しかしなあ、今これ以上事を荒立てたくはないのだよ。ここでわしと祥が争ったらどうなると思う?」
かつての主君の声は、優しさに満ちた暖かな声であった。
「しかし、しかし…亡き大殿とてこのようなことになるとは…」
侍臣の声は口惜しそうに畳みへ落ちる。
「…案外、祥もよき当主となるやもしれぬよ。」
「多くのものがそれがしと同じ思いにてやり切れずに…」
「それでは祥が困ろう。きちんと勤めてくれよ。」
「は…しかし」
静は小さく嘆息し、かつての己が家臣を見つめた。
「わしものう、元服以来休む間もなく勤めつづけてきた。ここらで一息いれたいものじゃ。何、困ったときには出来る限り力にもなろうよ。だからそんなに案じることはない。変わらず励んでくれ。」
「はい…はげみまする。」
境はようやく顔を上げて、そう言った。
「うん、それでよいのじゃ。」
端正な顔に優しい笑みを浮かべて、若い隠居がそう言った。
境が帰った後には、今度は実母・お陽の方からの使者がやってきた。
苦笑を浮かべてため息を吐く主は、一度崩した足を再び組まねばならなかった。
富樫城は今やひっきりなしに使者の出入りがあり非常にせわしくなっている。勿論それは静が滞在するためであるが、病弱な城主を抱えて日頃静かな場内がひどくやかましくなっているために、
「なにやら騒がしゅうなりましたな」
と、内記の母がこぼしていたそうだ。
申し訳ないと思いながらも、静にはどうすることも出来ない。
最近機嫌の悪い内記の母が、今日機嫌を直したのは、お陽の使者である老女・常磐が彼女と入魂の間柄であったためである。
「お久しゅうございましたな。」
老女・常盤を迎えた対面の間である。
先程、奥向きから茶菓子が届いた。これも常盤が先に内記の母のところへ寄ったためらしい。
「母上はいかがにござるか?此度のことでさぞお心を痛めておいでではあるまいか。」
「お方様も同じ事を仰せでした。静様が此度のことで傷ついておられるだろうと…親子にございますなあ。」
奥勤めも長い年配の常盤は、母より八つ年上と聞いている。さすがに年齢は隠せないが、言葉の端々や小さな所作一つ一つにも気品があり、生涯独身で通すには惜しい優しい顔立ちをしていた。
「わしのことは案じられずともよろしゅうござる。わしよりも祥が良き領主となるよう助言してやってくだされ。」
「何故に祥様を放っておかれまするか?」
「今はいたずらに戦をしたくないのでござるよ。」
「私のごとき者が申し上げることではありませぬが、祥様がいたずらな戦をやらぬと誰が申せましょう?」
生母の侍女にしては辛辣な批評をする。
静は眉毛を吊上げて使者を睨み付けた。
「…常盤、そなた何をしにここまで参ったのじゃ。母の使いで参ったのではないのか。わしは父と同じく、女子が戦や政に口を挟むことは断じて許さぬぞ。」
声音は穏やかだが、氷のように冷たい口調でそれだけを言い放つと静は立ち上がった。
常盤がはっと目を見開いた。優しげで物静かな主の長男の印象につい油断し、余計なことを口にしてしまった粗忽に気づき、あわててひれ伏す。
どれほど優しく見えても、目の前の元領主はあの鷹の息子なのだ。
「帰るが良い。わしはこれだから女は好かぬ。そう母上に伝えよ。」
言い捨てるなり、静は部屋を出ていってしまった。
顔は母親似でも、考え方は父親と同じである。特に女に対しては父親以上に厳しく容赦がない。
主との面会を頼もうとやってきた相手を怒らせてしまい、常盤は途方に暮れてしまった。
すっかり落ち込み、常盤はしばらくその場を動けない。
「失礼いたします。」
障子越しに掠れた少年らしい声が聞こえた。
一瞬躊躇したが、常盤は硬い声で答える。
「おはいり」
童のように童顔の青年が、もうしわけなさそうな顔を見せた。
「常盤様ですね。若殿を怒らせましたな。」
言葉は咎めているが、声は慰めている。
髪と瞳の色が、日光に透けて茶色がかって見える。色白の顔は主ほどではないが、なかなかに整っていた。
「そなたは…?」
「若殿の身の回りのお世話を致しております小者にございます。」
「そうであったか。」
「静様は皆が皆、自力で立とうとしているしておられる祥様を非難なさるのでお怒りなのですよ。何故、自分にばかり事を頼み、これから何かをなさろうと言う祥様の手助けをなさろうとしないのかと。」
「…」
「恐らくは、何故、祥様を頼りになる方にお育て申し上げて下さらなかったのかと…。」
「静様が…」
「皆様が祥様を必死で盛り立てて、それでもどうにもならぬときには静様も動きましょう。何もなさらぬうちからそのように皆様に言われては、静様とてお怒りになりまする」。
「…」
「どなたが領主であろうとも、良き方であればよろしゅうござる。良き方でなくても、良き方向に向かうならばそれでよろしゅうござる。そうさせるのは、周りの皆様方でしょう。」
「そなた…」
「皆様の手助けを受けて祥様が治めても良き方向に向かわないならば、その時に、我が君は立ち上がりましょう。」
史郎は弁舌さわやかに言い切って軽く頭を下げた。
「そのようにお伝えせよと、言い付かってまいりました。」
静かに袂で目頭を押さえていた常盤が、やがてそれを放して顔を上げた。得心のいった表情であった。
「…よう、ようわかりました。そなたの名をお聞きしておらなんだ。」
「史郎、朝倉史郎にございます。」
「史郎か。覚えおくぞ。」
結局隠居所に移るまで、静は弟にも母にも会わなかった。会うつもりもなく、会いたくもなかったのだ。
束の間の愉楽を心行くまで味わうために、静は身内のことを忘れたかった。
決起することをそそのかす者たちも現われはしたが、耳を貸す気にもならなかった。
…せめて半年は、情報を仕入れるだけにして自分が手を下すことは一切したくない。わしの束の間の休暇なのじゃ…
移り住んでから二ヶ月目になると、密偵達が人目に触れず隠居所へ出入りする以外に、静の周囲には何の動きも見られなくなった。穏やかな明け暮れが始まり、祥の反対派も、静を説得することを皆諦めたようになりを潜めた。
文字どおり、史郎と静の望んだ夏休みが始まったのである。
「今日は何の予定も入れておらぬの」
「はあ」
夜明けとともに野駆けに出かける静は、
「史郎よ、そなたも乗馬を覚えたらどうじゃ?」
「私ごとき身分のものがそのような…」
「馬には乗せる人間の身分など知ったことか。要は巧みかどうかじゃ。わしが教えてくれよう。さすれば一緒に遠出もできるぞ。」
と熱心に乗馬を小者に薦めて、雌の栗毛を一頭求めた。
元々動物の好きな史郎はまたたたく間に覚え、静と出かけるときには馬首を並べるようになった。
二人で比良山を日暮れまで駆け回った。
「わしも連れていって下さりませ。」
やきもちを焼いたのか、養子の佳近が同行をねだることもある。
静は、義子が勉強や稽古をきちんとこなすとそれを叶えてやった。
「佳近様がご一緒なれば、明日はお結びを握りましょう。」
嬉しそうに史郎が提案すると、
「わしは味噌を付けて焼いたのがよいな。」
「わしは梅干しを混ぜたのがよい。」
大きな子供と小さな子供が口々に希望を述べる。
「はい、はい。」
竹筒の水筒とお結びの袋を持って出かけ、涼しい木陰でそれを食べる時、佳近の喜びは格別のものであった。
時には瓜を持って出かけ近くの農家で冷やしてもらう。
野山で、史郎は非常に多くのことを知っており、静はいつも感心のため息を吐く。
「史郎、あの地面が盛り上がっているのは一体どうした訳じゃ?」
「あれは土龍の穴でござるよ。小さな落とし穴、と呼んでおりまする。」
「この動物の足跡は?」
「狸でしょうな。この形は。」
「あの高い枝からぶら下がる小さな実はなんじゃ?」
「木通と申します。今少し熟せば食べられまするよ。」
「本当に史郎は物知りじゃのう…」
尊敬のまなざしで主君が自分を凝視すると、照れくさいやら恥ずかしいやら鼻が高いやらで、気持ちがぐるぐる変わって忙しく思える史郎である。
神社の奥殿をぬけた森の散策していたときに、佳近が差し示した小さな影が林の中にぽつんと立っていた。
「あちらの祠には、何が奉ってあるのじゃ?」
「ははあ、これは比良山には珍しき龍神様でございます。」
「龍神…比良山にも龍神伝説があるのか。初耳じゃ。」
その架空の動物は、椚山公の一件以来静の心に親しみを覚えさせている。
「龍神伝説は水の多いところによくあるのですよ。…ほら」
史郎が指差した先は、その祠の遥か向こうにみえる小さな滝であった。
林がわずかに途切れたところが険しい渓谷となり、切り立った断崖から激しい水飛沫を上げて落ちていく水が見える。
「お目がよろしければ、あの滝上に注連縄が見えまする。」
義理の親子がそろって手を翳し、林の向こうを見つめていた。
それを見ていると、父方の従兄弟という血のつながり以上に近いものがあり、本当の兄弟のように思えて、微笑を誘う。
「あそこで龍神様はお休みになるそうです。ここは龍の眠る滝という伝説が残っているので、きこりも狩人も余り寄り付かないそうでござる。もっとも、あの断崖では近づけませぬが。」
「…龍が休む場所か」
静が小さく呟いた。
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