第16話 風
静は、辺りを見回した。自分の部下の中でどうしていいかわからずに右往左往するものがいないか、宿泊所内を見回ってから、早々と荷造りを済ましてきた自分の小者を呼びつける。
「史郎、そなたは馬に乗れまい。わしの後ろに来い!」
「そ、そんな、恐れ多い!とんでもないことにございます。」
身内でもなければ家臣でもない自分を、同じ馬に乗せるなど言語道断であった。
自分のように軽い身分のものなど後からでいい、そう言おうとした途端に、静が呆れ声で応じた。
「ばかなことを言うな。今夜中に相馬へ帰らねばならぬ。池田と、日向と交代でのせてやるゆえに心配いたすな。楓はそんなにヤワな馬ではないわ。」
それに答えるように、愛馬・楓が高い声でいななく。
何かにつけて厩を訪れ、楓を可愛がってゆく史郎を乗せるのに、否やは無い、とでも言いたげに。
亡き父・涼と静の自慢の精鋭部隊・加羅衆が、足軽組頭ごとに静へ挨拶に声をかける。
自分の隊の人数と名を叫んで馬首を巡らして、
「富樫城にてお待ちいたしまする。」
と最後に付け足す。
「気を付けてゆけよ」
静が優しくそう応じると、彼らは駆けていった。
このようなときは細かい儀礼は一切無視である。それなのに統制は乱れない。父から受け継いだ優秀な精鋭である。彼らなくして、静の華々しい戦歴はない。
また、彼らも静のような主だからこそ、その能力を最大限に生かすことが出来るのだろう。
冷静で迅速な判断力。整えられた指示系統を存分に行かす情報収集能力をまこと有益に使う頭脳。行く末を見つめる目。父・涼のようなカリスマ性にこそ欠けるが、主とするに不足はなかった。
「どれ、わしらも参るぞ。支度はよいか?」
ためらいもなく静が史郎に馬上から手をさしのべる。
池田と日向は真っ黒な馬に乗り、その様子を面白そうに見つめていた。
彼らは小さな荷物を背負っている。大きな荷物は全て椚山公への献上品だったので身軽なのだ。
史郎は元々山育ちなので、簡単に静の馬に乗ることが出来た。
前を池田が、背後を日向が守りながらの、最小部隊が夜の野山を駆ける。
「なあ、史郎よ。」
「は…」
「こうして楓に跨り風を切って駆けるとき、わしは全てを忘れてしまうよ。」
「若殿…」
「この風の匂い…人も、獣も、河も緑も全てを含んでわしを包み、吸い込まれてしまいそうになるのじゃ。わしもこの風になれそうな気がしてのう。」
「…」
「戦で斬り合うて血を流し流させた日暮れも、謀略によって人をだました夜も…その罪悪感にさいなまれた夜明けも…わしはこの風になりたくてひた走った。わしは…」
「…」
「龍と称えられるよりも、鷹の子と呼ばれるよりも、この風になりたい。澱むことを知らず、ただ吹き抜ける風に…たれも頼まず、たれにも頼まれず。自由で誇り高い風になり吹き抜けてゆきたい。…」
武家の跡取りとして生まれ、それ以外の人生を知らぬ。それらをすべて忘れる瞬間が、この風だと若い主人は言うのである。
「なれましょう、若殿。必ずなれまする。誰も頼まず頼まれぬ自由で誇り高い生き方が、必ずありまする。」
乗馬になれていない史郎が舌を噛み噛みやっとそれだけを答える。
「なれようかのう…」
小さな呟きが戻ってきた後、楓の馬主は黙ってしまった。
主君の正直な告白は、余程会見で嫌な目にあったのだろうと思わせる切実さがこもっていた。
…相手が同盟国領主でなければ、この備前国光を、自分自身でなく相手に突きつけていただろう…。
このような目にあったのは初めてだが、これ以外にも立場上耐えなければならない場面には何度も出会っている。弱小国であった相馬、それでいて豊かだったために隣国に狙われていた。その為にいくつの怒りや悲しみや苦痛を忍んできたことだろう。
父に同行した先で、和睦を決めるために畳へ額をこすり付けて頭を下げた屈辱。そんな父親を見た時の悲しみ。
静を可愛がってくれた家臣があえなく負け戦で倒れた日。
はじめて山背国へ出向いたとき、佐々木家の非礼を追求できぬ口惜しさ。
「こらえよ、国のためぞ。」
そう言ってほろ苦く笑う父に教えられてきた多くの処世術に、それらの忍耐が詰まっている。この忍耐なくして、今の相馬国はない。
奥向で父に母に侍女侍従に甘やかされ、世の中を知らぬあの祥に、自分と同じ真似が出来ようか?
たくさんの葛藤を抱えながら生きてゆく覚悟があれにあるのか?
「若殿…」
柔らかく腕の力を強めて、史郎が静の身体を抱きしめる。
まるで静の苦悩を感じ取ったかのように、それを慰めているかのように。
真剣な面持ちで楓を操る主君の顔にはなんの感情も読みとれなかった。
しかし史郎には、なんとなく、静が
…いろいろお辛い思いをしておいでだ。
と思えてならなかった。
不思議に実の弟が裏切ったことに対しては、狼狽の色が見えなかった。まるでいつかは起こるだろうと予測していたことが速まってしまったために、動揺してしまっているみたいに思えた。
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