第15話 兄弟の試練
「過分なお褒めのお言葉。お礼の申しようもございませぬ。しかしそれがしは貞安様の仰せのようなご立派なものではありませぬ。国を存続させるために日夜悲鳴を上げているただの若造にござる。」
穏やかな微笑を口元に浮かべて静は恐縮した。
「いずれの領主とて同じよ。わしも例外ではないわ。一族・家・領国・民…これらを背負い続けることは楽でない。これが大きければ大きいほどにな。」
「貞安様はさらに大きなものを背負われるおつもりでしょう。休まりませぬな。」
「まったくじゃ。だがそれも、望むならば、望まれるならばやり遂げなければ行かぬ。それが、領主のつとめよ。」
「ふふふ…」
「ははは…」
互いに笑い合うと、先程貞操を狙われたことなど嘘のように思えた。少年としてではなく、一国の主としての静を見てくれたのか、親子ほどに年が違っていても何故か心が通うような気がした。
「静殿には夢があるのか」
白い陶器の茶碗を置きながら中年の男が尋ねる。
「ござりまする」
「ほほう。いかような?」
「世の人々と同じでござる。早う戦が無うなってくれる事でござりまする。」
それは静の本音である。
世の中がおさまり、戦が絶えれば民が救われる。
父と自分の夢がそこにある。
そうなればいつか、史郎と二人で隠居暮らしすることもできるだろう。自分に男性として生きる道を強制した母を、今となっては責める気にもならないが一度問うてみたい。何故、国の行く末より子供の幸福を尊重しなかったのか、と。
自分が不幸だと思ったことは無いが、不便だと思うことがたくさんある。特に、思春期を過ぎて成長の著しい肉体をどこまでごまかしていけるのか自信がない。
そしてもう一つ、何故弟の祥をもっと厳しく育ててくれなかったのか、と。
祥がもう少ししっかりしているのならば、静は家督を弟に譲っても良かったのだ。
「我らの夢を叶えて下さりますか。貞安様。」
「できるならば」
椚山公は困ったように答えた。
「失礼をいたしまする!御免!」
のんびりと語り合っていた両主人が、慌てて襖を開く池田の姿を見て瞠目する。
「何事じゃ、御前であるぞ。無礼な!」
静が慌てて後ろに下がり、池田を強く叱りつける。勿論、欅城主の手前ゆえのことだが。
「ご無礼は承知でござる。お館様、大変でござりまする。」
「何じゃ、椚山公の前では申せぬ事か。構わぬ。申せ。」
血相を変えて入ってきた池田は二人の城主を見比べてからしばらくためらった後、口を開いた。
「祥様、謀反にございます!」
「何じゃと?祥が?」
「はい。ただ今、手前どもの密偵が本国から帰り至急静様のお目通りを願い出ております。」
目を見張ったまま池田から視線をはずさない椚山公は、ようやく片手で眉間を押さえている静に視線を戻した。
「とうとうやったか…」
低く呟く美里城主の声は、狼狽と言うより予測していたことが早まったことを悔いているかのようであった。
やがて顔を上げた静は、速やかにひれ伏した。
「お聞きの通りにございます。大変お恥ずかしく存じますが、これから国へ戻り対処しなければなりませぬ。大変不調法ながらこれより相馬へ引き上げまする。」
「そうか。また会おう。」
何一つ聞かず、椚山公は頷いて退出を許した。
普通ならば根ほり葉ほり聞かれる所だが、黙って退出を促す中年の武将の思いやりは静の印象に深く残った。
静かなる龍と名付けた少年が出ていった後、すぐに蝶丸と榊原がやってくる。
「何事でございます?」
重臣の榊原が怪訝な顔をする。
「なんぞ国で大事が起きたそうじゃ。榊原、門を開いてすぐに彼らを帰してやれ。…さてさて龍は目覚めると血を流さずにはおかぬと言うが、静殿はいかがするのだろうの、蝶丸」
冷茶の器を片づけている美少年に声をかけると、
「殿はあのような美しいお方がよろしいのですね。」
拗ねたように口をとがらせた。
子供じみた所作も愛らしい我が小姓を膝の上に呼び寄せ、
「妬くな。軽い冗談じゃ。全国を探してもお前ほど美しい少年はおるまいよ。静殿は、同盟を結ぶ政治家として評価したまでじゃ。」
と言い募っても蝶丸は
「存じませぬ」
するりと主人の腕を抜け出して出て行ってしまった。
後には吹き出す重臣が残っているだけである。決まりの悪さに、思わず咳払いをしてごまかす時環の殿様であった。
美里城を出てまだ三日しかたっていない。それで謀反と言うことは以前から準備をしていたということだ。
父上が亡くなられたとき叱りつけたことをいまだ根に持っておったのか…
密偵・日向理平次(ひむかいりへいじ)が待っていた。彼が第一報を知らせてきたのだ。静は正装を歩きながら解いて、
慌てて寝室へ飛び込み、
「史郎!大至急軍服と楓を出せ。それから冷たい水をもて!」
叫びつつ着物を脱いでゆく。
戦装束を用意した史郎がそのまま厩へ小走りに向かう。
着替えが済むと史郎に引かれて来た楓に飛び乗って日向と馬上で面談する。
史郎の運んできた水を与えてから、
「詳しく状況を申せ日向。」
緊張の面持ちで命じた。
「はい。昨夜遅く、織部様始め重臣の方々と政務について口論なされておりました。その際についに祥様が皆様を追放し、ご自分が城主であると知らしめるとおおせられ…」
始めて城代に任ぜられた祥は、初日から是非自分の思うとおりにやってみたいと様々な改革案を提案し、その破天荒な政策に重臣達が異を唱えると激昂した。
「皆、兄上、兄上と…なぜこの祥では駄目なのだ。兄上などただの腰抜けではないか。わしならば、天下を狙うぞ。この手で他国を奪い取ってみせる。兄上も兄上だ。わしという実の弟がありながら、養子を迎えるなどと…」
結婚する意志のない兄を見て、自分にその後がまわってくると思っていた祥は、静にそのつもりがないことを知ると火がついたように怒りだした。
おしゃべりな侍女が、静の叔父へ当てた佳近養子申し込みの手紙のことを奥向きで漏らしたらしい。
しかし、正妻のお才の方は、それについて自分の夫には何も言わなかった。どうでもいいことだと思ったようだ。
主筋に当たる嫡子・静に嫁げなかった以上・家督争いには無縁だと思っている。だから夫婦の床でどれほど祥が息巻いても、
「まあまあ。よろしいではありませんか。あなた様と静様では、お話になりませんよ。あまりにも違いすぎまする。」
といって宥めていた。すると祥は、
「なんだそれは、お方はわしが兄上と比較にならぬほど劣るというのか」
悔しそうにそう問いつめてくる。
お才は別にほめてもけなしてもいない。
「そうではありません。あまりに違いすぎるので劣るも優れるも比べられぬと申し上げておるのです。あなた様は私とお母上様とどちらをたくさんお好きですか?と尋ねるようなものですわ。」
このたとえにはさすがの祥も困って黙ってしまった。
恐らく、お才は祥が一人の家臣として静に従うのならば目覚ましい働きをしてくれるだろうということはわかっていた。
…けして悪いお方ではない。ただ、感情の起伏が激しくて少しわがままでいらせるだけ。よろしき方の下につけば必ず手柄を立てるお方…
もっと祥が静という主君に心酔していれば、この兄弟は昔話として伝えられるほど素晴らしい武勇伝を作れるに違いない。
静は自分に忠実なものには必ず報いる。この弟が、
…兄上の言うとおりにしておれば間違いない。
と思えれば、天下取りも夢ではなかったのかも知れない。
しかし現実の祥は、父亡き後、急に主君面をはじめて皆を仕切っている兄が、我慢できぬ程傲慢に見えた。
…しかも、わしを皆の前で叱りつけおった…
領主の息子として生まれてしまったのが、祥の不運だったのかも知れない。
重臣との激しい口論の末に激怒した夫を、さすがにお才の方も宥めきれなかった。
養子の話を祥へもたらしたのは、叔父椎野兼房の室・お京であった。
お京は妹のお陽に劣らぬ美貌の持ち主であったが、殿様の目にとまったのは妹であり、お陽は今や城主生母として奥向に君臨している。
お京は妹が涼の室になってまもなく、涼の腹違いの兄・兼房へ嫁いだ。つまり、兄弟姉妹が結婚したわけである。
兼房は、下女あがりの身分の低い母を持ち、その母も早く亡くなっている。その上生来非常におとなしく、戦争など
「身震いするほどに嫌いじゃ」
という、武家とは到底思えない性質だったために、早くから、当時の領主であり実の父親・椎野猛へ、
「家督は弟の涼に継がせて下さい。わしはとても無理です」
と頼んでいた。
領主長男に嫁いだお京にしてみれば、今頃奥向に君臨していたのは自分だったかも知れないのである。
権力欲のない妹が権力を手にしたのに比べ、手に入らない姉は一層それを強めてしまったようだ。
そこへ、静の手紙が舞い込んできたのだった。
兼房の次男を養子にしたいという簡単な申し出である。
これもよりによって自分の生んだ長男ではなく、側室の生んだ佳近を養子にしたいという。
彼女が祥にこれを伝えたのは、もはや腹いせ以外の何者でもない。
祥は兵を集め、堀河と井筒に使者と兵を飛ばし、主立った家臣達の自宅を囲んで城をとった。
静は黙って日向の話を聞いていたが、
「とにかく引き返さねばならぬわい。…困ったことをしてくれたのう、祥よ。この大事なときに…日向、わしの入れる城はあるのか。」
「富樫城がいちばん美里城に近うございます。安川内記(やすかわないき)様の居城で、こちらはまだ包囲されておりませぬ。」
内記は四十を越えたばかりであったが、昨年から体を壊し、休みがちになっていた。涼の葬儀以来まったく登城していない。
「そうか、内記はまだ…病気療養のために出仕をやめておったからな。よし、加羅衆すべて先行し富樫城を守ってくれ。そなたと池田だけわしに同行せよ。わしも夜通し走ろうが…そちらの方が速いからな。早馬をとばせ。」
「御意にございます。」
身軽な密偵はすぐに身を翻し、そこから見えなくなった。あちこちで馬のいななきや喧噪が聞こえて次々に門をでてゆく。
顔が真っ赤な三浦が、あやしげな歩みでこちらにやってくるのが見えた。楓の足下に跪く。
「殿、こたびのことはいったい…」
酒と宴にすっかり浸かった頭を必至に冷めさせようと、さかんに首を振りながら喋る三浦の声は、まだまだ酒臭かった。
「三浦、加羅衆は全て連れ帰るが、他のものはおいてゆく。すまぬが、後始末を頼むぞ。このまま立ち去ったのでは、あまりに礼を失するゆえな。椚山公にくれぐれもよろしゅう。」
加羅衆ではない従者の兵を他に二十名ほど残していくことになる。彼らを三浦に託して行かねばならなかった。
「は、この命に代えましても」
「うむ。ただし、もしそなたが国に帰ったとき、主が変わっていても取り乱してはならぬぞ。」
若い家臣が、今度はいっぺんで蒼白になった顔を上げる。
「せ、お舘様…よもや…」
静はそれに笑顔で答え、宴会に戻るよう手を振った。
仕方なく、三浦はとぼとぼと戻っていく。酔いはすっかり冷めたらしい。
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