第13話 同盟国の誼

 史郎の唇が離れると、静は切れ長の瞳を見開いて今の涙まで忘れたように顔を紅潮させた。

 史郎が呻くように愛おしい人の名を呼ぶ。

「静様…」

 目の前の青年がさしのべた腕の中で泣いていたことに、はじめて気づき、なんとも所在なげな表情をする。その顔はもう、父親から相馬国他三国を引き継いだ新領主の顔ではなく、静のみが抱えていた秘密を史郎に漏らしたあの日の静だった。

 …ああ、たまらない。これが静様なのだ。俺の知っている本当の静様…本来ならば年頃の姫君であったはずの…。

 言葉にならない感激と衝動が史郎の全身を駆けめぐり、それを抑え隠すことに全神経を集中させなければならなかった。

「さ、…下がれ。史郎。もう良いゆえ…」

 いじらしいほどに、何もなかった振りをして動揺を覆い隠そうとする。今や跡形もない領主の威厳を必至にかき集めて。

 その努力は全く無効であったが、史郎はもう一度抱きしめたい衝動を堪えてこの無力な主の命令に従った。

「大変ご無礼を…」

 腕の力を緩めて柔らかな領主の体をゆっくりと逃がしてやる。上座から下りて器を取り上げ、速やかに立ち上がった。

「あっ、史郎待てっ…」

 素直に命令に従って書斎を出ていこうとする小者に、静は慌てて声をかけた。

「は。」

 振り返る史郎の冷静な顔を見ると、一瞬躊躇した後にそっと付け足した。

「取り乱して済まなかった。…それから、とても気が楽になった。ありがとう。早う休んでくれ。」

 この頃美青年になったと城内でも評判な青年は、眩しいばかりの笑顔を向けた。

「お休みなさいませ。」

 史郎が行儀正しく去っていった後、動揺がおさまらぬ静ははじめて異性の唇が触れた部分を軽く指でなぞる。

 今年で十七になる娘の体は、男装に包まれながら速い動悸に悩まされた。たたずまいを直しつつ脇息の前に胡座をかく。

 五歳年上の小者は今年二十二。召し抱えた頃から童顔で少しも年齢相応に見えない。なのに先刻は、

 …大人の男に見えた。確かに。あのかわゆい史郎が実はあんなに男だったとは…

自分に迫られて困り果てた史郎とあまりに違っていた。

 近頃、城内の暮らしにも慣れて、山育ちの土臭さが抜けてきた史郎を見かけた侍女達が、お小姓ではないかと噂する。

そして、領主の衆道のお相手に相応しく美少年だと笑う。

 本人が聞いたら不本意だと渋い顔をするだろう。

「養子を、取らねばならないのだったな…」

 父の死でさわぎが始まって以来すっかり忘れていたが、史郎は静にそう望んでいた。

 これで実際に養子の話が進めば、祥が黙っていないだろう。

 それがわかっていたので今まで言葉にのぼせなかったのだ。

 …構わぬ。わしは夢を見たくなった。史郎と共に在る夢を…何より史郎がそれを望んでくれるのならば…叶えたい。

『どこぞへお連れ申し上げ逃げてしまいたい。』

あの温和な少年が言いきった言葉がうれしかった。

 いくつになっても少年のように思えるあの史郎は、いつしか大人になっていたのだ。

 静が叔父に手紙を書き出した頃、史郎は台所で器を片づけていた。主人愛用の茶碗を磨き上げて所定の位置にしまうと、戸締まりをして自室に引き上げる。

 …大それた事をしてしまったな。

 事もあろうに自分の主人に手を出してしまった。今度こそ斬られ兼ねないと思った。そこまで行かなくても怒りを買ってしまうのは間違いないと思った。

 なのにあの美しい主人は、頼りない眼差しで縋るように自分を呼び止めた。

 他の使用人達が寝静まった廊下を音もなく歩いて小さな部屋の戸を開く。着替えて寝るだけの部屋である。

 寝付かれない夜を過ごすために、史郎は床を用意した。


 椚山貞安(くぬぎやまさだやす)と会うためにはるばる時環国まで出向くことが決定した静は、献上する品々の検品を三浦に命じた。

「この会談は非常に重要じゃ。ケチるなよ三浦」

 締まり屋で有名な三浦をからかって領主がそう言うと、岩井が笑った。

 美里城主の書斎である。

 静の妹・妙姫と、椚山公の八男・信勝との婚約が整ったために、一度静に会いたいと椚山貞安から依頼が来たのだ。

 本格的な同盟を結ぶための会見といってもいい。近在で最も力のある大名・椚山家との同盟は、相馬の国が安泰でいられるためにこれ以上は望めないほどの良縁であり後ろ盾となりうる。父・涼の代から望んでいたことだった。

 婚姻だけでなく、領主に会いたいと知らせが来たと言うことは、椚山家で、椎野家を大名家として認めてくれたと言うことだろうか。

 まさに、失敗の許されない会見である。

「織部、護衛の兵は?」

「はい。いつもの精鋭部隊・加羅衆(からしゅう)を全員揃えましたが、加羅衆はわずか三百。足りましょうや?」

「数ばかり多くても意味はないし、城を留守にも出来まいよ。別に戦に行くわけではない。案ずるな。」

 加羅衆は、祖父・猛が組織した精鋭部隊で、一人一人が一騎当千の卓越した軍人であり、奇襲や攪乱を目的とした部隊である。静は彼らを手足のように使い戦争を征してきた。静にとっては一千の兵より三百の彼らの方がずっと頼りになった。

 今のところ、国内は落ち着いている。

 祥と才姫の夫婦は仲睦まじく、反乱もなく、ここ数年は気候が良かったせいか財政も安定し、家臣達の引継ぎもうまくいっているはずである。

 気になるのは、才姫の実家佐々木家が沈黙を守って椎野家と椚山家の婚姻を見守っていることだが、才姫がいる以上はやまったこともできまい。国を留守に出来るのは今しかなかった。

 祥に美里城代を任命し、留守の間彼を重臣達に補佐してしもらう。

生き字引の織部を堀河から呼び戻したのもこのためで、吉野他重臣達と共ににしっかりと守らせる。

 それでも少々心配なのだが…言い出したらきりがあるまい。

静は時環国に旅立っていった。

 椚山貞安と会うのは、時環国の古い禅寺である。

 貞安は四十五才の武将で中央進出を目指す野心家であった。広大な領地で培われた財力と兵力にものを言わせて数々の戦勝を飾っている。

 領主に成り立ての静は、親子ほども年の違う腹黒の武将と渡り合わねばならない。

 …父と同じように。父であるかのように堂々と振る舞うことだ。

この若さでなめられているのはわかっている。

だからと言って気張ってもいけない。捕らえどころのない雲のように相手を怒らせず、侮らせず、こちらの誠意を伝えねばならない。

 静は自分の旅立ちと共に、数人の密偵を放った。京・山背・時環それぞれの様子を探ってもらうためである。

 これからは、国を守るために視野を広げていかなければならない。

 …小国なりの生き方を見定めるためじゃ。

 静が時環に到着したとき、密偵の一人が静のもとへ戻った。時環の様子を探らせるための兵である。

 裏庭で縁側の脇に額ずくその密偵の名は、池田正次(いけだ まさつぐ)と言った。

「貞安殿の一行はこちらに向かっておりまする。」

「うむ。して、連れてきた軍隊はいかような規模であった?」

「はい。およそ五百余り。内百名は恐らく兵ではありませぬ。」

「百名が…?では何じゃ。」

「どうも世話役のように見えまするが、…そこまでは探れませなんだ。もう一度走りましょうか。」

「派手好きの貞安殿といっても百名は多い気がするのう。わしに椚山家の力を見せつけるためであろうか。まあ、よかろう。万一対面でわしが討たれたら、その時のことじゃ。」

「我らが必ずお守りいたします。」

「池田…苦労をかけるが、よろしく頼む。時環はわしらの国とは比較にならぬ強大な国じゃ。何とかうまくやってゆきたい。」

「はい。命に代えましても。」

「大儀であった。こちらへ来るがよい、夕餉を振る舞おう。」

「これは…恐れ入りまする。」

 驚いて恐縮する池田を中へ迎え入れ、夕餉の支度をさせる。史郎がすぐに膳を整えて戻ってきた。

「史郎殿は旅先もご一緒に…?」

「こやつがおらぬと不便なのじゃ。片時も放せぬわ。」

「侍女をお使いになりませぬのか。」

「女子は嫌いじゃ。特に若い娘はのう。」

池田が膳に手をつけず、しばらく主人を凝視する。

「いかがした?冷めてしまうぞ。」

「いえ…何でもありませぬ。頂きまする。」

 十七才の若き領主の美貌を見て怖い考えが浮かんだのだ。この主君は美しい上に老成した感があり、しかも国のことを誰よりも考えてくれる。池田は密偵としての任務に含まれていないゆえに報告していないが、畝傍山(欅)城下で仕入れた情報の一つに、芳しくない噂があった。

 貞安公は涼などよりもずっと節操のない色好みという話を聞いた。戦に強いという以外では、余り評判のよくない領主だが、その好み方は尋常でなく、色気違いと言ってもいいらしい。

 よもや同盟国になり、嫁の兄、義理の息子に当たる静によからぬ感情を抱くなどと言うことはないとは思うが…。

 池田は飯碗にお代わりをよそってくれた史郎をちらりと見た。

 忍びの者の勘で、恐らく史郎は静を慕っているだろうと薄々感じていた。そして静の方も史郎を可愛がることひととおりではない。

 警備の手を緩めぬよう気を引き締める池田であった。


 時環国欅城から馬で半日もかければ到着する禅寺へ、椚山貞安は丸一日かけてはいった。

 髪に白いものが混じりはじめてはいるが、貫禄のある、恰幅のいい中年男である。若い頃はさぞ、と思わせるような整った顔立ちは今もその面影を残して、彼の色好みの性質を満足させてくれた。

 総勢五十名の小姓を抱え、側室は十名。子供は二十三人目の子を、正室・佐知恵殿(さちえどの)が懐妊中。

 禅寺の客間に通った貞安は、お気に入りのお小姓・蝶丸(ちょうまる)に肩をもませている。そこへ、重臣の一人、榊原忠徳(さかきばらただのり)がやってきた。

「椎野殿、お見えにございます。…殿、ご用意して下さいませ、とあれほど申し上げておいたのに!なんですかそのなりは。」

 貞安は平服のままのんびりと胡座をかいていたのだった。

「うるさい奴じゃ。今、支度いたす。何、すぐに済むわい。」

 大国の領主だからか、貞安は普段鷹揚というかゆったりとしている。戦場と寝室にいるときとは全く違うのだ。

 口うるさい家臣に見つかって仕方なく、とでも言うように主人は蝶丸が傍らに支度しておいた着物に袖を通しはじめた。

「椎野の倅はどんな奴じゃ、榊原?」

「非常にお若いですな。ほんの三月前に前領主を亡くしたばかりですから、当然なのかも知れませぬが。」

「ふうむ。若いがなかなかやり手だと聞いておる…」

そのようなやりとりの間にも貞安の身なりは美しい小姓の手で整えられていった。

 鏡(かがみ)蝶丸は数多いお小姓の中で現在最も殿様のご寵愛深く、側近くお世話することが許されている。白い肌に、黒絹のような髪。潤んだ大きな瞳に小さな泣きぼくろがあり、すっきり通った鼻筋のしたに薄く紅い唇が朱を引いたように見事な輪郭をつくっていた。少年であるにもかかわらず、匂い立つごとき色気があり、色好みの殿様でなくても思わず視線が集中してしまう美貌だった。

 色の道はどちらも好む貞安であったが、これほどの逸品は他にない。京に上ったときも蝶丸程の美少年には出会えなかった。

「よし、通せ。」

 支度の整った貞安が、貴公子然と姿勢を正す。

 後方に蝶丸が大刀をおさえて控える。

 榊原が速やかに脇へ退いた。

 正面の襖が両開きに動いた。

 三名の従者を従えて平伏する椎野家の倅に優しく声をかけてやる。

「遠路はるばるようもお越し下さった。面を上げられい。」

 ゆっくりと顔を上げた静は、貞安と視線が合うと視線をはずさぬままで、

「相馬国美里城主椎野静にございまする。」

涼やかに名乗りを上げた。

 落ち着いたものである。食い入るように自分を凝視する相手の視線を、はじめはしっかりと受け止め、徐々に避けて目を下へ向けた。

 その仕草が何とも初々しく、少年らしく映る。

「…ほう」

 傍らの榊原がようやく聞き取れるくらいの小さなため息が時環国領主から漏れる。主君の度を超す色好みに呆れ果てている重臣は眉根を寄せた。それと知らず、貞安は、

 …これは美しい。なんとも清廉で優しげな少年よ。

心の中で舌なめずりしてしまった。

「お若いのう。おいくつじゃ?」

「十七になりまする。」

 素直に答える静は、年齢を必ず尋ねられるだろうと思っていたので別に気にもしなかったが、背後に控える従者の一人である池田は、ひれ伏したまま嫌な顔をした。

「こたび、当家長女・妙と御家信勝様とのご婚約の儀、まことに有り難く、まためでたきことにてお祝い申し上げまする。」

「うむ。双方ともいまだ幼少ゆえ、婚礼は十二年後となろう。しかるに両家は婚姻関係を結び親族となった。よろしく頼みおく。」

「お祝いの品々の目録にござる。」

 静に促され、三浦がいささか緊張の面持ちで顔を上げて朗読を始めた。それにいちいち頷く貞安は、殆ど内容など耳に入らず、早くこの堅苦しい対面の儀を終わらせ、宴会で静と直接話をしてみたい欲求でいっぱいだった。



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