第12話 英雄色を好む
静の父親である前領主・椎野涼には五人の妻がいた。
内一人は最早この世の人ではない。涼が十三の時に政略結婚で輿入れした堀河御前は、男子・稔を生んだがまもなく病気で亡くなっている。一人息子稔も、十七年前に戦死した。
美里丸に居住するお陽の方は、美里丸御前とも呼ばれ、嫡男・静と、次男・祥の実母であり正室であった。父親は、重臣・吉野高元。
梅の丸を許されているお照の方は、薬種問屋・東西屋の娘であり、長女・お妙を生んでいる。
彩の丸は、由緒正しい名刹・比良神社神官の出身で母方に公家の血筋を持つ比良氏の一族である、彩子殿の住まいであった。
お英の方は、女性ながら舞・茶の湯・華道・書道・歌の道にも通じて都で宮仕えしていたこともある才媛である。彼女は、桜丸に住んでいる。
この中で最も寵愛が深かったと言えるのはやはり、正室・お陽の方である。浮気性の夫を影から支え続けた女達の中で最も気苦労が多かったのではなかろうか。
「母上は確かに美しい。あの年になってもさして変わらぬ。」
息子達にまで言われるほどの美貌は、かつての娘時代に「かぐや姫」と渾名され、たくさんの求婚者に吉野が弱り果てたほどであった。余りに多いので断る理由さえ尽きてしまっっていた。一方本人は誰の所へも嫁ぎたがらない。
「まだ早うございます。嫁ぎたくありませぬ。」
吉野高元には当時お陽とお京の姉妹の他に子がいなかった。どちらかに婿をとらせようと思っていたので婿に入る意志のある者ならば結婚させても良いかと思い始めていたが、目の中に入れても痛くない二人の愛娘が結婚を拒むので、
「まだ、良かろう。」
と断り続けていた。
堀河御前を亡くしたばかりの涼が、鷹狩りのついでに吉野宅を訪れなければ今のお陽ではなかったかも知れない。
姉のお京がふせっていたために、お茶を出しに現れたお陽が涼の目にとまった。
「ほお…かぐや姫とはかくあらんか。おぬしの愛娘、噂には聞いていたが…」
涼はすっかりお陽の虜になり、是非にも城へ上がらせたいと高元に頼んだ。
「しかし、お陽が嫌だと申すばいらぬ。美女に嫌われたくないゆえ無理強いはせぬ。」
お陽に意志を尋ねれば、首筋まで赤くして是非城へ上がりたいと言うではないか。
それが二人のなれそめであった。
当時はまだ涼が二十八歳、お陽が十五歳。
お陽の相手が殿様では、誰も文句は言えぬ。その意味では最良の夫だったといえよう。
お陽は表には出さぬが、非常に深い愛で夫を慕っていた。
浮気性の夫を自分にしっかりつなぎ止めておくには、男子を生まねばならないということが、武家の習いで嫌と言うほどわかっていた。父親の言う、政務だの軍事だのには興味はなく、ただ、夫と子供という平凡だが何より大切なものが欲しかったのだ。
涼は浮気性だったが、頼もしく懐の広い夫であり、お陽のことをとても大事にしてくれた。
あの合戦の折、よもや夫が命を落とすなど夢にも思わなかったのだ。命辛々逃げ帰ってきた夫は重体だったと父が言う。
「この子を男の子としてお育てしましょう。稔様が亡くなった今、殿にはこの子しかいないのです。元気なお子…きっとうまくいきましょう。」
不思議なことに、男子が生まれたと聞かせた途端、生死の境をさまよっていた涼が意識を取り戻し、快方に向かったのだ。
奇跡のようだと、医師は言った。
「この子が呼び戻してくれたのです。生まれてすぐに父無し子では可哀想すぎる。」
涙ながらにそう呟いて、赤子だった静に頬ずりした。
「この子がいれば私はきっと殿の正室としていられましょう。」
戦には大敗し夫は重傷で辛い日々ではあったが、静が生まれたことでお陽にとっては今までの苦悩の全てを捨て去ることのできた時間であった。さらにその二年後には次男の祥を産んだために、お陽の自信はより確かなものとなった。
…万一静殿が女だとばれてしまっても祥がいる。殿の跡継ぎを産めたのは私一人。誰にも負けぬ。
静の幼名は三芳丸、祥は源次郎といった。
三芳丸は利発で素直で、そして性根の優しい子供であった。しかもとても責任感が強く、物事を客観的に見られる冷静さを持っていた。
涼が間違いなくこの子を後継者に育てようと決心したのは、この性質ゆえである。
比べて源次郎は活発な腕白坊主で、お山の大将であった。決して愚かではない。情も深く、正義感の強い少年は、しかし甘やかしたせいかやや自己中心的な部分が多かった。感情的で、夢中になると周りの見えない、ひたむきな子供である。
そこが静とは違い、可愛かった。しかも静と言う嫡男がいるために、手放しに甘やかすことが出来た。涼はかつての自分にそっくりな祥がかわいくてたまらなかった。
よもやその為に後の悲劇を生もうとは、考えもしなかった。むしろ、それを防ぐためにこのように区別して育てたと言える。
美しい他の側室達は涼の死後、皆髪をおろして出家してしまった。
お妙を産んだお照の方は、元来病弱だったために実家の東西屋に戻って療養している。容態が落ち着いたら妙心寺で髪を切ることを決めていた。
彩子殿とお英の方は京の流安寺で出家する。子供のない二人は領国に居づらいと思ったらしい。
二人の側室が京へ上る日には、静も挨拶に訪れてその出立を見送った。
女嫌いなために、父の側室と殆ど顔を合わせたことのない静である。この日初めて二人とまともに口を聞いた。
「静様がはじめてわらわと口を聞いてくださいました。嬉しゅうございます。」
皮肉ではなく、彩子殿はあでやかに笑ってそう告げた。
「これはご無礼をいたしておりました。」
「静様の女嫌いは良く聞いておりましたゆえ、お気になさらずとも。それよりも静様、我らが京に参るのは、一つだけ別の理由がございます。」
お英の方の視線が、意味ありげに静と彩子殿を往復する。
「と、申されるのは…」
怪訝な顔をして問い返す新領主に、彩子殿が流し目で答えた。
困惑する静が慌ててお英の方を見ると、彼女も形の良い唇に袂をあててほほ、と笑った。
「わかりませぬか?流安寺は京の中心にとても近い。我らは遠くから静殿のお役に立ちたいと思うて参るのでございます。」
「ええっ!」
常になく静は驚きを声に出してしまった。
京で何か探りたいときには、自分たちを頼ってくるように、と言ってくれているのだ、この二人は。
「静様の御ためと言うよりは、亡き大殿のためにですけれども。よもやこのような形で流安寺に赴くことになろうとは思いも寄らなかったのですが。それは大殿も同じ思いでしょう、生きておいでならば…」
「あ、彩子殿。お英殿…」
「大殿はずっと流安寺に寄進を続けておられたのです。京に何らかの足がかりをつくっておきたいと。それで私の親戚が住職を勤めるあの寺を選ばれました。彩子様はお公家方にもお顔が広い。椎野家のお役に立ちたいと仰せられ、私にご同
行することになったのです。大殿は本当にお偉い方でしたなあ。」
母・お陽の方より四、五歳年下のはずの二人は再びあでやかに笑った。
いつも濡れたような大きい瞳に、ぽってりした赤い唇のお英は、はじめて涼が京に出かけたとき見初めたのだという。
彼女の舞は、静御前と呼ばれたそうだ。
丈高い、立ち姿の美しい彼女の舞を、静は一度も見たことがない。
静は、はじめてそれを後悔した。
彩子殿は比良神社の巫女姫だった。比良山頂に涌き出る泉のように清らかな眼差しと、慎ましやかで優雅な立ち居振る舞いは、お陽の方が、
「行儀作法は彩子殿に…」
と賞賛するほど清雅で、小柄なのにいつも堂々としている。
控えめでお陽の方を憚り、決して前に出ようとしない側室達。
父の側室達はそろって美しい。そろって奥ゆかしい女達だった。
それはやはり、
…父上がそのようにしつけたのかも知れぬ…。
静はあらためて父親の別の側面を見た気がした。
無類の女好きと呼ばれていたが、そうではなく、このように奥向を乱さない女ばかりを選び、そして大切に愛してきたのだった。
家庭を守れぬ男が、国を守れるか。
父親の声が聞こえてくるような気がした。
「近い内に必ず、お訪ね申そう。どうか、それまでお達者でいて下され。」
二人に意外な事を知らされた狼狽を隠しながら、静は心を込めてそう言った。
「お待ちしておりますよ。お館様。」
護衛の者を二十名、侍女を六名つけての遠路に、二人の未亡人は旅立っていった。
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