第10話 泣くに泣けぬ一日

老女の常盤が血相を変えて美里丸へ走り込んできた。

「お方様!大変でございます。」

普段廊下を走るとこっぴどく叱る張本人が裾を絡げて何度も転びかけながら、お陽の方の居間へやってきた。

「どうしたのじゃ常盤。お前らしくもない。お照殿が今一人産んだとでもいうのか。」

他の歳若い侍女たちを従えて、明日の婚礼の準備に余念がないお陽の方は、ゆったりと振り返る。

つい先ほど嫡子・静も到着したという先触れがあったので、対面の間に移動しようとしていたところだ。

「大殿が…」

常盤の声は震えている。

「殿が、どうなされた?」

「斬られなさいました…ひどい傷で…急いで、お越しください、梅の丸へ!」

お陽の手から持っていた杯が落ちた。

梅の丸では上を下への大騒ぎになり、下手人を捕えようと警備の兵を呼んでもろくに集まらない。先ほど祥が鍋島へ連れていってしまったためである。

今日までお照の方が臥せっていた床の上で、涼は手当てを受けていたがもはや手後れであった。

お照は衝撃の余り別室で寝込んでしまっている。

「せ…静は、静は来ておらぬのか。静…」

声にならないうわ言が涼の血だらけの唇からもれる。

「殿っ!」

お陽の方が駆けつけた。医師も首を左右に振り、絶望を示している。お照の産室から奥庭にかけて生々しい鮮血が滴っているのは勿論、涼のそれであった。

「たれか、静殿を…急いで!たれか!」

涙声になって叫ぶお陽の方は、夫の凄惨な有り様を見て意識を失いそうになるのを必死で堪えた。

侍臣の一人が下手人を捕え損ねたことを報告したが、

「下手人などどうでもよい!早く、静殿を!早く!」

と叫ぶだけであった。

場所が奥向きなだけに、女たちばかりおろおろと動き回り要領を得ない気がした。

他の側室・彩子殿とお英の方がやってきて悲鳴なのか泣き言なのかわからぬ声を上げる。

その頃静は常盤にようやく知らせを聞き、奥に向かっていた。

「父上が、そんな馬鹿なことが…!」

信じられぬ思いで庭を走り抜けた。確かに表からは庭をぬけた方が奥向きに近いのである。

涼が斬られた庭にたどり着くと、縁側に飛び散る血潮の凄さに驚愕する。

この血が全て父上のものだというのか!

ここは奥向きだというのに、血のにおいが蔓延する。まるで戦場だった。

「大殿!静様が参られました。お気を確かに。」

息を切らせてたどり着くと、涼はまさに虫の息だった。出欠の多さで顔色は土毛色になり死相がはっきりと現れている。

「父上、静にございます。しっかりなされませ。この様なところで死んではなりません。父上!」

死の床にいる父親の手は血まみれだった。自分の手が汚れることなどかまわずその両手を握り締めて精いっぱい呼びかける。

「ここにおったか…よかった。今度は、わしは安堵して死ねるぞ。静よ…お主には済まぬことをした…したが、わしは間違ってはおらぬと思う。お主でなくばできまい…」

「父上、死んではなりません。お気を確かに!」

 静は力の限り両手を握り締めた。これから抜け落ちてゆく涼の命を少しでも留めようとするかのように。

反対側から、お陽の方が涙を堪えきれずに拭いながら覗き込んでいる。その赤い唇から、

「祥は…祥殿はいかがした。早う連れてくるのじゃ。」

半ば気が触れたような金切り声が漏れる。

「お方…かぐや姫殿よ。…祥とほかの女どもを頼むぞ。」

「殿…、いやでございます。死んではいやです。」

お陽はついに泣き崩れ、涼の血まみれの体に縋り付く。

「十六年前にわしは死ぬはずじゃった…もはや仕方もないことじゃ。静、後をそなたに…」

周辺諸国にその領土を虎視眈々と狙われながら、美里城を守り続け国土を富ませ、ついに丘越・水汀・相馬の三国を領する大名にまで成り上がった椎野涼は、最後まで言葉を続けることなく事切れた。

「父上…」

筝州(そうしゅう)の鷹と渾名(あだな)された英雄は、息子にとってただの子煩悩な父親で、過ぎるほどの愛情と、期待をかけてくれた男だった。

奥向で兵士と斬りあって生涯を終えるなど、女好きで戦争に明け暮れた涼には、不思議に相応しい死に方に思える。

静はたった今から涼の後を受け継いだ領主となった。母のように取り乱すことは許されない。 動かなくなった前領主の手からおのが手をゆっくりと外し、血のりが付着したままゆっくりと立ち上がった。

誰が父を殺したのか今の時点ではわからぬが、すぐに知れるであろう、奥向きまで平気で入ってくる者だ。明らかに暗殺が目的だったに違いない。

「…常盤」

「は、はい」

「母上をお部屋につれてゆけ。落ち着くまでそばにいてやってくれ。それから、才姫には申し訳ないが婚礼は延期じゃ。しかしすぐに国境からこちらへ御出でくださる様に手配せよ。」

「は、はい。」

お陽を抱えるようにして常盤が引き下がると、静は顔を上げられぬまま低い声で指示を続けた。

「たれぞある!吉野高元を呼べ。」

「ここにおりまする。」

 たった今到着したのだろう、衣服も乱し、息が切れている。廊下から侍女たちに道を開けられてあがってくると、見る見る顔色が変わった。

「大殿…何と、何ということじゃ。大殿が…」

涼が比類なく信頼した重臣は、膝を突き、号泣した。

高元と涼は幼なじみのようなものである。生涯でもっとも親しい友人を失った岳父の姿は、とても小さく見えた。その背中に鞭打たねばならない自分を、静は心ひそかに呪った。

「葬儀は明日じゃ。高元、辛かろうがわしに力を貸してくれ。父上を失うた今が正念場じゃ。祥の奴も姿が見えぬ。わしとて動転しているが、ここで負けるわけにはいかぬ。」

もう一人の父とも言える高元に語り掛ける。

我ながら情けない声を出している。泣くのを堪えるだけで精いっぱいなのだ。

あれほどに憧れ、愛し愛され、尊敬し続けた父が今はもうただの抜け殻になってしまった。

父との思い出が嫌でも頭に浮かんでくる。

それに浸っている暇はなかった。

「…左様でございました。静様…いいえ、お館様。」

 高元は充血した目を拭って新しい領主の方を向いた。泣き崩れる家臣や侍女たち。表に仕えるもの、奥に仕えるものたち。あちこちから泣き声や苦しげな鳴咽が漏れていた。

 城内に上がって奉公する者に対し涼は厳しかったが、奉公人達の働きぶりはよく見ていた。ここにいるただ一人として、涼と口を聞いたことがない者はおるまい。

「たった今、涼様は亡くなられた。今からこの城のお館はこの静様である。全ては殿のご指示に従うがよい。」

高元が大声を張り上げて宣言した。

それに呼応して、家臣達が野太い声で答える。

静は、今しばらく、泣けそうになかった。

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