第9話 鷹の落ちる日
山背国から才姫が輿入れに来る前日、冷たい風の吹かぬ所は短い冬の日射しがわずかなりとも立ちこめて温もりをもたらしてくれるような、穏やかな日であった。
椎野涼は、お照の方の室を訪れていた。
初めての女児の出産に厳つい顔が笑み崩れている。早死にした稔を入れても男ばかりだった涼の子供達の中に、初めて色気がでてきた、とでも言うのだろうか、彼の有頂天ぶりは家臣が眉をひそめ兼ねないほどであった。
「でかしたぞお照。かわゆいのう、そなたにそっくりの美しい姫に育つぞ。」
まだ床を払えないお照は産室で領主を迎えた。産後体調が思わしくなく、そのまま寝付いてしまっていたが、近頃ようやく快方に向かいようやく会うことを許されたのである。
「殿、よい御名をお付け下されませ。」
細面の、弱々しい線の細い女性である。色は抜けるように白く、性質も非常に大人しい。涼がわたってこなければ、殆ど口も聞かずに絵巻を眺めるか刺繍を続け倦むことを知らぬ。正室のお陽に憚って殆ど室からもでてこないし、何をするにもおっとりした人だった。
「うむ~。静が生まれたとき、女子だったら志津(しづ)とつけるつもりだったのだが…でもそれではつまらんのう。」
よく眠る赤子を抱いたまま、涼は首をひねった。
お照は黙って涼の答えを待っている。お陽と違って、逆らうことも頑固なところも全くない。風に流される柳のようなお照である。
「お妙はどうじゃ。わしの母上の名前じゃが…」
「はい。よろしゅうございますな。お妙。妙や。父上がお名前を下さりましたぞ。」
侍女達も思わず微笑みを浮かべてしまう心温まる風景で仲睦まじい夫婦である。
涼は夫婦喧嘩というものを殆どしない。五人もの妻を持ちながら仲違いが一切ないというのも、彼らしい。確かに無類の女好きだが、そのかわりどの妻も大切に扱う。おとなしい妻達はただ彼に従ってさえおればよかった。穏やかな日々を愛する女達には、だらしないことさえ除けば最高の良人といってよかろう。
お照とお妙の顔を交互に眺めて鼻の下を伸ばす涼は、良いことが続いて、まさに我が世の春を謳歌する気分で、飛ぶ鳥さえ落としてしまえそうに思える。
そこへ早馬が到着した。
「大殿はこちらにおわしますか!」
見張り足軽の具足を身につけた男が奥庭に馬を付けてきた。
「馬鹿者!ここは奥向であるぞ。表へゆかぬか!」
女達が驚いて騒ぎ出した。滅多なことでは刀を差した男が奥へ入ることなどない。
お照まで狼狽して顔色を変えている。
「何が起きたのじゃ!」
御殿が揺れるような大音声で、涼が奥庭にでていくと、
「至急の知らせでございます。ご無礼はご容赦を。」
息も切れ切れに馬を下りたその兵は、単身で奥庭に入り、表との境に何人かの供を待たせていたようだ。
よく見れば、腕や背に弓矢が刺さった後があり、額から血を流していた。その様子からただごとではないと感じて、涼は裸足のまま庭に下りる。
「たれの旗下のものじゃ?」
刹那、血がしぶいた。
左脇腹から右肩へすくい上げるように刀を切り上げる。
早馬の足軽が普段ならば足下にも近寄れぬ主君に刀を向けたのだ。
お照の方の、絹を裂くような悲鳴が奥向きに響いた。
涼が奥向に出向くほんの少し前、翌日に控えた婚礼のために久々に帰城した兄を迎えたのは、明日の花婿である祥であった。
「兄上!お帰りなさいませ。」
「祥か。明日の主役がこのようなところにいて良いのか?」
二歳年下の実弟・祥は兄よりも丈高く、体つきもがっしりとしており、槍の名手として聞こえている。
自慢の愛馬・月影に跨りその堂々とした姿は、
「まさに、父の涼そのまま…」
である。
外見だけは兄の自分さえ惚れ惚れするような武者なのだが、中身までそうだとは限らない。
明けるのが遅い冬の夜明けに丘越を出立してきたので、まだお昼をまわっていなかった。供の者たちを先に入城させると静は弟の方へ馬を寄せた。
「こたびはまことにめでたいの。お才どのはなかなかの美少女と聞くぞ。羨ましいことじゃ。」
「噂しか存じませぬので会ってみるまではわかりませんぞ。兄上より先に嫁を娶るなど、何だか順番がおかしゅうござる。」
「わしは女が嫌いゆえ、生涯娶らぬ。気にするな。父上と母上はお達者か?」
「はい。変わりなく。お照どののことはお聞き及びですか?」
「うむ。妹が出来たそうな。祥も兄になったと聞いたぞ。」
「まだまだ子供でござる。」
悪びれずに祥が笑った。
「子供が嫁をもらうのか。」
つられて静も笑った。
やや老成した風情のある兄に比べ、年相応の無邪気さや無謀さをまだまだ残す祥を父・涼は溺愛していた。
素直で正直な父親似の次男がとにかく可愛いのだ。無理もなかった。静だとて後継者という育て方をしなければさして祥と変わらなかっただろう。
「兄上は水汀の国もご自分のお力で落とされたそうな。祥も早く戦場にて武功を立てとうございます。」
「わしの力ではない。民の力じゃ。戦などせずに済むなればせぬ方がよい。」
「祥は父上のお役に立ちとうござる。兄上のように早う一人前になりとうございます。」
「…わしに万一のことあらばそなたしかおらぬ。増して今は美里におるわけではない。そなたが美里を守らぬでたれが守るのじゃ。父上はあのようにお元気じゃが、有名になりすぎてしもうた。いつ誰が美里を狙ってくるかわからぬ。
わしの留守の間、美里を守ってくれるよう頼みおいたではないか。」
穏やかに諭しては見たが、祥は不満そうに鼻を鳴らした。
そのような地味な役回りでは満足できないと言うわけだ。静のように近隣諸国にその実力で名をとどろかせ、身を立てたいと思っている。
祥が自分のいない間に、美里でどうするのか、静は彼を試すつもりであまり顔を出さなかった。堀河に移り一年以上経て帰城するのはこれで三度目である。
少しは使える男になっておるならば助かるが…
好感は持っていないがそれでも祥とて父涼の子であり弟だ。多少の期待をして今日の再会となった。
国に入ってみて何も変わりはなかった。以前のままである。城も外を見回った限りでは何も変わってはいなかった。
無論それが悪いのではない。
涼の善政には領民全てが信頼を置いている。以前のままならばそれでよいに決まっているが、では祥は何をしたのだろうか。
一年の間に、祥が変わったとはとても思えなかった。
ふくれてしまい、そっぽを向いてしまった弟の機嫌を取ろうと仕方なく静は沈黙を破った。
「城内の警備は祥が全て取り仕切っておるそうじゃな。」
「は…」
「美里城は決して難攻不落とは言えぬ。山城でもなければ、深い堀がめぐらされているわけでもない。その上城内敷地は広く、複雑じゃ。警備は面倒ではないか?」
「大したことはありませぬ。美里城に攻め入ることなど、一体誰が出来ましょう。ただ、奥向と表はやはり遠うございまするので、馬でも入れるよう奥庭の藪を少し伐採いたしました。出入りの者たちがずいぶん楽になったともうし
ております。」
「…奥向への道をつくったわけか。女達は喜ぼうが…」
あまり感心できぬ静は難しい顔をして首をひねった。
奥向生活が長かったゆえに、奥向の難しさが身にしみる静としては、表と奥が余りに風通し良くなることがよいとは思えない。
実際に、あれほど女好きな父は、女達が政や戦のことに関して口出しすることを極端に嫌った。
表は政治と軍事の世界。奥は家庭。きっぱりと分けるのが涼のやり方である。静もそれに賛成だ。分けたからといって、どちらかをおろそかにするわけではない。
…父上は何も言わなかったのだろうか。
疑問はあったが、これ以上怒らせるのも面倒なので話題を戻す。
「婚礼の準備は整ったのか?」
「花嫁はもう国境の清章寺まで来ております。」
「労ってとらせよ。遠くからお見えゆえ…」
兄は馬首をまわして城の方を向いた。
「わしは城へ戻って母上にご挨拶申し上げる。祥は?」
「正門にまわり見張りの兵を見て参りまする。」
「そうか。父上は、お照殿の所か?」
「今日はずっとそちらにおられるそうです。」
「やなりのう。では、またな。」
兄弟は別れた。
二歳上の小柄な兄を見送ってから、祥は舌打ちした。
「兄上は何もわかっておられぬ。」
城門の見張り小屋には、早馬が来ていた。
見れば怪我もしている。誰の旗下の者かわからぬが、憔悴しきって門番に詰め寄っていた。
「大殿にお目通り願いたく…!」
旗印は椎の葉に菊。椎野家の手の者だ。
「誰の命令じゃ?」
困惑していた門番が、安堵して祥の顔を見上げた。
許可が下りるまで待てと言い渡しているのだが、この兵は非常に急いており、まだかまだかとせっついて、ずっと門番を困らせていたのだ。
「若殿…この者が待てというのにしつこくて」
「余程の重大事が起きたのじゃな。」
祥の出現に一瞬怪訝な顔をしたが、早馬の兵は口早に懇願した。
「お願いでございます。時を争うのでございます。お早く大殿にお目通りし、ご指示を仰がねばなりませぬ。」
「何が起きたのじゃ?先にわしに言うてみよ。さすれば通そう。」
埃と汗に汚れた早馬の兵は、自分の乗ってきた馬の轡をとりながらしばらく考えていたが、
「では申し上げまする。くれぐれもご内密に。国境の鍋島村をご存じですね。」
「丘越国との戦の落ち武者が集まっていると聞く、鍋島のことか」
「新理寺に野武士が二百ほども集まり立てこもっておりまする。」
「何じゃと!では、その怪我は」
「はい、見回りに出たところで見つけましたが、こちらも見つかってしまい、矢をいかけられました。」
祥は衝撃のあまり興奮した。
「よし、兵を集めよ。お主は奥向きの梅の丸へ行くが良い。大殿はお照殿の所じゃ。」
「は、ただちに。」
兵は風邪のように馬に乗り、城内へ走り込んでいった。
門番に命じて、警備の兵を集めるように指示した祥は、奮い立った。
今日こそ、兄上にわしが役に立つ武士であることを見せつけてくれる。
そればかりを思い月影を駆る祥は、明日が自分の婚礼であることなど完全に念頭から消えていた。
門番は、困ったように早馬が駆け入った城内を見つめている。
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