第8話 新たな道しるべ
書斎に入り、返書をしたためていると史郎が熱いお茶を運んで来る。
「良いお知らせにございますか」
障子を閉めて静かに入室すると、お茶を置くなりそう言った。
「ほう、何故にわかる?」
面白そうに静が尋ね返す。
「お使者の方が大層ご機嫌で…」
使者を接待したのは史郎だったらしい。
「妹が生まれ、弟の婚礼が決まった。明日皆にふれを出す故、それまでは黙っておれよ。」
「はい。おめでとうござりまする。よろしゅうございましたなあ。」
やわらかで優しい声音が耳に心地いい。
静は筆を置いて、お茶を受け取った。
「墨を磨っておいてくれぬか。」
足を崩して胡座をかいた主の横に控えていた史郎は、頷いて机の脇に歩み寄る。
脇息にもたれてお茶を片手にくつろいだ静は、史郎の純粋無垢にさえ見える横顔を見るともなし眺めて、一昨日の晩のことを思い返していた。
この優しげで穏やかな青年があのようなことを言い出したことは、静にとってかなりの衝撃だったらしい。
自分の秘密を打ち明けた翌日の事だった。
夕餉の膳を運んできた史郎の顔を見るのが、とても久しぶりな気がした。さもあらん、通常は毎朝顔を合わせていたが、この朝に限って静は朝の野駆けに一人で出向き、帰ってきた時には井筒城代からの使者が来ていたため、顔を合わせている時間がなかったのだ。
玄米の飯と野菜の入った味噌汁に、乾燥肉や大豆の煮物、佃煮で構成された膳を見下ろして、静は合掌する。何しろ、この日初めて食べるまともな食事だ。
サラサラと碗の中身を胃の中へ流し始める主の横顔をぼんやりと眺めて、史郎は下座に正座していた。
昨晩のことをけろりと忘れたかのようにいつもと変わらぬ表情で主の居間にやってきたが、心中穏やかではなかった。かといって、うろたえているわけでもなかったが。
「なにやら今日は史郎の顔を見るのがしばらくぶりに思えるのう。」
「左様でございますな。今日は初めてお目見えいたしました。」
静は箸と碗を置いて唐突に聞いてきた。
「心は決まったのか?」
その問いが余りに自然なので一瞬何のことを言われたのかわからず、史郎が目を丸くする。
「昨夜の件じゃ。今夜までに決めておけというたであろう」
こともなげに本題に入る静が余りに冷静なので、なんだか史郎は悔しくなった。
昨晩はあんなに愛らしかったのに…
すっかり堀河城主に戻ってしまっている静に、理由のない憤りを感じて、一瞬眉を寄せたが、
…とんでもないことを考えてしまった。あのくらいのことで動揺する方ではないのだ。なればこそ、一国一城の主でいられるのだから…
考え直して、小さな怒りを沈めた。
すると、史郎はすぐに自分の考えていたことを舌の上にのせられそうな気がした。
「そのことでございましたか。」
わずかに膝を進めて史郎は主の傍らに寄った。
「申すまでもござりませぬ。ずっとお仕えさせて下さいませ。」
澄んだ声で優しく史郎が答える。
それを睨むように主は見つめた。
「今ならばまだよい。しかし今後もしわしを裏切ったら、そなたを斬らねばならぬ。そのようなことだけはしたくないが…他の主人に仕えるよりも大変であろうし、戦の時には共に戦場へ行ってもらわねばならぬ。その覚悟でわしに仕えてくれるのか?」
「出来うる限りお仕えいたします。」
史郎は思い悩んだ末、と言うよりはあっけらかんと答えた。
この態度を潔し、と見て静は破顔する。
「そうか。かたじけない。わしもその気持ちに答えられるようなよき主でいられるよう努力を惜しまぬ。そなたの思うところあれば、何でも言うてくれ。そなたの申すことさえ耳に入らぬような了見の狭い主にはなりたくないのでな。」
「されば若殿、申し上げたきことがございます。」
「何じゃ、申してみよ。」
小者として仕える青年は、再度碗と端を取り上げて食事にかかった主に向かって穏やかに言った。
「ご養子をお早くお迎え下されませ。」
「ぶっ」
言われたことの意外さに驚いた静が、飲みかけの味噌汁を吐きそうになった。
「何をいきなり…」
「さすれば若殿は隠居できまする。」
史郎は大まじめであった。
その真剣な眼差しを正面から受け止めると、静は何だか胸をかきむしりたいほどに切ない気持ちになっていった。
青年は、黙ったまま口を手ぬぐいで拭いながら視線を動かさぬ主人に、更に畳みかける。
「静様が見込んだ養子でしたら、もしも私が静様をお連れ申し上げて逃げてしまっても、相馬の国を守り通してくれましょう。」
「…史…郎」
自分に仕える青年は、静が考えても見なかった二人の将来像をいとも簡単にさわやかに言葉にしていた。
目頭が熱くなり、鼓動が速まり、顔が火照った。
そのようなことが出来るわけがない。自分がこの国を守るという重責から逃れられるはずがない。そんなことが可能になるのは、少なくとも二十年や三十年先のことだ。
まして静は武将であり、総大将なのだ。事によっては明朝にも刺客の刃に倒れてもおかしくはない。そう思ったからこそ今、史郎をそばにおいた。
わずかなひとときでいい。初めて恋した男と、同じ屋根の下で暮らしてみたい。毎日言葉を交わしたい。たった半年でもそのような時間を持つことが出来たなら、悔いなく残りの人生を生きてゆける気がした。
だから史郎を武士として取り立てることはしなかった。侍はいやでも戦の中に埋もれていく。
死なせたくはなかった。ただ、本当の自分が生きていたことだけを覚えていてくれる史郎がいてくれればそれでいいと思った。
その覚悟が消滅するようなことを、何とたやすく思いつき、言葉に出来るのだろう。
朝倉史郎はにっこりと笑った。無邪気な笑い。澄んだ、純粋な笑顔だった。
これが武士の世界との考え方の違い、ということなのだろうか?
史郎は、自分の意見に狼狽を隠せない静の様子を、不思議そうに見つめている。
祖父が、兄がそうやって生涯を終えたように、自分もまた戦場で死ぬのだろうと、漠然と思っていた。それ以外の未来など想像したこともなかった。
隠居生活など、絵に描いた餅のように言葉の上だけの望みだった。
「…静様、どうなされました?」
余りに長い間静が動かないので不審に思った史郎が更に膝を進めた。
「…そうじゃな。史郎の言うとおりじゃ。」
若い主人は湯気のでていた味噌汁が冷たくなるほどの長い時間の後に、ようやくそう言った。
「お聞き入れ下さいますか。」
主の異様な様子に、自分が気に障ることを言ってしまったのではないかと気にし始めていたので、青年は安堵した声を出した。
「うむ。実は、わしは養子にするならば是非…と前々から考えておる子がおってのう。今度美里に帰るとき、話をしてみよう。」
冷たくなった汁碗に、静は再び手をつけ始めた。味などよくわからなかった。
「そうでございますか。さすがは若殿ですね。お指し仕えなくば、どちらのお方か教えて下さりますか?」
「父方の従兄弟に当たる。椎野佳近(しいのよしちか)と申す子じゃ。母の姉君、お京の方が嫁いでいる、椎野兼房(しいのかねふさ)殿の次男でな。
兼房叔父の妾腹らしいが…なかなか若輩ながら肝が据わっておってよい。」
「御年は?」
「来年十になるはずじゃ。」
いつもの倍はかかって、ようやく領主は食事を終えると、
「まこと人生には、様々な分かれ道があるものよの…」
しみじみと呟いた。
武士として領主の跡継ぎとして、やがては城主として生涯を終える、それ以外の人生など静にあるはずがなかった。
だが史郎のあまりにも素直な考えを聞いて、初めてそれ以外があるのだと知った。
だからそうする、というのではない。そのように考えてくれる青年の気持ちは嬉しかったし、侍にない多様な人生観は大きな刺激を与えてくれたが、
父上が守り続けたものを放り出せぬし…したくない…
静にとっては、やはり、現実感のない未来であった。
「若殿、このくらいでようございますか?」
硯に向かっていた小者が不意にこちらを向いて声をかけたので、静は長い回想から我に返った。
「すまぬの。よし、これをしたためたら夕餉にするゆえ、用意を頼むぞ。」
「かしこまりました。」
書斎を出ていく史郎を見送ると、堀河城主の長い手紙が始まった。
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