第9話 白旗はまだ挙げぬ




「…調子が狂うわ」



走り続け、迫る手を掻い潜り

時には手痛い制裁を加えながら、拳銃も無しに

脱獄と言う手段を迷わず選んだ女性は、路地の間に身を潜めていた。


少し不振に動こうものなら

巡回し、恐らく捜索の手を伸ばし続ける警兵に見つかりかねない。

彼女は利口なのか、下手に動く事無く息を潜めながら外の様子を見ていた。


最初は拳銃を所持していた。

しかし予想外か、彼女が訪れた事務所にまで

己が直面している黒幕の手は伸びていた。


そしてその黒幕は事務所の探偵、冴木が扉を開けた瞬間―

彼の急所を【確かに】撃ち抜き

そして死んだと思っていた。


それはあっという間の出来事で、一瞬だけでも狼狽えたが

まだ守り抜く意思はあったのだろう。

拳銃を構えて神太子を護衛しようとした。


しかし、もう一度言うならば。

彼女は利口だったのだろう。


その場でもし彼女が発砲すれば、自分はおろか神太子も

射殺されたかもしれない。


暫し身を引き、様子を見る。

冴木の死は仕方ないにしろ、まだ諦めるべきではないと

彼女は冷静に判断し、抗う事を中断した。


その判断は正しかったのか

恐らく―彼女は思う。


まだ神太子は殺されていない。


連行する道中で丁重に扱われ、推測するならば―多分

身柄の確保と言う段階で留まっているに違いない。


そもそも彼女も、その黒幕から神太子を守ろうとして

冴木の事務所に訪れ、協力を要請した。


結果的に依頼は却下された上に、黒幕に捕獲されて

生き延びられるとは思ってもなかっただろう。



だが、彼女よりも

黒幕の方がもっと理性的なのかもしれない。


ただその場で殺せば全てが終わる。そうなってしまえば過ちに気づいても

何一つ取り返せようもない。


だとしたらもう少し時間を置き、生かして―吟味する余裕を設けたのだろう。


しかし、それこそが彼女の脱獄を促したとしか言いようがない。

現実問題彼女はあの牢獄から脱出し、一先ず身の確保を得る事が出来たのだから。



「…尖閣、の手か…」



彼女は一人の人物の姓を呟いた。

名までは語らず、ただその存在に嫌悪を抱く。


恐らく尖閣と呼ばれる人物が黒幕であり、その手が今の段階で

優勢を手にしたのだろう。


神太子を巡り―ニチモトに潜む陰謀の核に

今の所「尖閣」と言う人物を念頭に置く。



とは言え彼女も尖閣が黒幕だという確信を100%とはしてなかった。



神太子の周辺は、どれも不穏―かつ、闇が渦巻く。

もっと他にも疑うべき存在は居るかもしれない。

ただ、味方は0に等しいだろう。


―唯一生き残った神太子。

「御剣乃宮信近」(ミツルギノミヤノブチカ)以外は、全て【殺された】

神室の血を引くのはもう彼しかいない。


あえて全員を惨殺せず、信近のみを生かしたのも

黒幕の陰謀に過ぎないとしたら―


そう、恐らく彼女は推測する。


信近の様な【グレーラインの性格】こそ

裏で糸を引き、動かす事も容易と考えたのだろう。


権威や立場の威信が信近にあったとしても、その本人が自らの意思を

何事にも曲げたりしないのならば殺しただろうが

神室の中でも比較的緩い―彼だからこそ、権威も威信も立場も利用する価値を

黒幕は見出しているのだ。



実際問題、彼女も

信近が【あの問題】に自ら乗り出して

彼の家族が貫いた思想を引き継ぐ保障などないと思っている。


生きる為に手のひらを返し、黒幕と手を繋ぐ事もあり得なくはないのだ。



―彼女は思う。

今頃……信近は【どの選択肢】を選んでいるのか。


まだその時を迎えてないかもしれないが、もし―……



【黒】を選べば


ニチモトは【もう一つの戦争】を経験する事になるだろう。






「……よぉ、無事に脱出できたか」

「来栖……」



思いにふける彼女の傍に

何時の間にか一人の男性の姿があった。


やや白髪の混じる赤茶毛に、それよりかは深い色の目をして

くすぶる煙草を咥えながら、カジュアルな格好をしていた彼は

外の騒々しさを皮肉に笑っていた。



彼の名は「来栖恭介」

新たなる存在に、彼女には驚く様子も無く

その距離感に彼女と仲間である事を容易に感じさせる。


恭介は切迫した市街地の状況を理解し、その中で自分さえも不審者に思われないように

彼女の行方を捜していた。



「……のっけから失敗だったな。凛」

「そうね。色々あったけれど実りは何一つ無いわ」



恭介は彼女の事を―

凛と呼んだ。

しかしまだ【姓】までは明かされない。

彼が言わない限り秘密のまま―ともかく今回の結果に

不服とした凛を恭介は慰めた。



「まあ……相手が大き過ぎるだけに、そうそう上手くいかないものさ」

「冴木が……協力すれば、形勢は変わったかもしれない」

「そうそう。その冴木だが…やっぱり【そうだった】のか?」



この二人に冴木と言う存在は

一つのキーパーソンだっただけに

恭介も当然のごとく、彼の事を知っても尚。まだ完全には信じ切っていなかったようで


しかし【そうだったのか】?の言葉に頷く凛の反応を見て、恭介は口笛を控えめに吹いた。



「……そうか。まあそいつが人間じゃないにしろ、協力は仰げなかった以上忘れるべきかな」

「時間の無駄よ。あの様子じゃ幾ら説得しても暖簾に腕押し」

「味方になればいい戦力だったかもしれないがな…そうそう事は上手くいかないものだ」

「正直……戦力になろうと、性格上お友達になりたいなんて思わない」



凛の言葉に、個人的な感情の色を察した恭介は

あまり好印象を得ず、良好な出会いでもなかったのだと察した。


そこまで不愉快に思うなら本当に忘れるべき。次なる手を打つ事が先決と

恭介は切り替えたが、凛の気持ちはどこか晴れず―



彼女は、思っていた。


ニチモトの巨悪に立ち向かい、勇敢な死を遂げたある人物からの遺言を。


それは「冴木涼」を示し、彼を頼ってほしいという願い。

彼は人間じゃないから戦力になるだろう、と言う簡単な理由じゃない。


―もっと根底にある、信じがたい事実を

上手く払拭できずにいた。



「……それより、信近様は?」

「まだ生きてるらしいぜ、そうそう簡単に殺しはしないだろう」

「でも猶予はない……再び救い出す方法を考えないと」



話は再度、信近の存在へと傾く。

冴木に対する未練よりも、ニチモトの命運に心を砕くべき。


しかしそう容易に信近を救い出す策があるかと言えば、今の所ない。



「スパイには動いてもらってるが……俺達が動けるきっかけがいまいち掴めないんだな」

「玉砕するのも覚悟の上よ」

「そうそう命を軽んじるな。時期相応ってのも考えろ」



恭介の言葉に、凛は口をつぐむ。

彼女とて分からない訳じゃない。


粉砕する覚悟があったとしても、そこで全てが潰えれば

ニチモトの未来は望まぬ闇の時代に染まるだろう。


彼女に「冴木涼」という鍵を握らせて

国の正義を背負ったまま、一人で亡くなったあの人の心を無駄には出来ないと

情報を共にした恭介に叱咤された事で、凛はまたしても諌められる。


―それに、彼女は


もっと深く考えて、冴木に協力を要請するなんて

ある意味酷な話じゃないかとも考えていた。


冷静になって、少しずつ温度も下がり―冴木に未来を委ねようとした一人の死は

表面的に見れば美談と表現されようが


あの時もし、牢獄の中で

彼に全ての発端を語っても

恐らく―


激昂するに違いない。



その感情は多分、正しいのだと思う。



「……一先ずアジトに戻ろう。凛」

「……そうね。作戦を練り直さなければ」



そう言って凛と恭介は

路地の奥へと進み、警兵に見つからないように去って行った。


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