第10話 猫とチェアマン











―ジリリリリ



「……」



冴木涼個人探偵事務所の前に

一人の作業着姿の男性が立っていた。


その男性は無言で、帽子を目深に被り―感情も表情も見えにくく

とにかくその玄関の前に居るのだから、冴木を訪ねてきているのだと推測できる。



―しかし



「……」



―ジリリリリ



もう一度呼び鈴を鳴らす。

しかし誰一人応答せず、気配すら感じられない。


それどころか玄関のすぐ近くの地面から、歪な臭いが僅かに残っている。


何かあったのかもしれない。と、彼は察しても

その異変に臆する事無く、呼び鈴をまた鳴らした。




―ジリリリリ




「……」



応答はない。

留守なのか。

いや、そんな呑気な不在理由だろうか?


そんな事はない。

彼はちゃんと分かっている。


でも、彼は尋ねなければいけないと思っていた。

折角与えられた【再就職先】のご厚意を、受け止めるべく。


しかし尋ねたところでその事務所の主、冴木が快諾する保証はない。


だが「彼女」の言葉を信じて、疑う事もしなかった彼は―



「……」



―彼は、チェアマン。

椅子に酷く拘る、一人の男。


つい最近一人の死を見送り、国会議事堂を後にして

姿を消した彼が辿り着いたのは―この事務所だった。


という事は、彼の再就職先は

冴木が経営する探偵事務所だったという事になる。


椅子に拘るチェアマンにとって、その就職先が喜ばしい環境か否か

彼は多分そんな事何一つ思わず、自分の新しい居場所は此処なのだと理解して尋ねた。



そんな彼の行動が、逆に子供らしい―






「……?」

『ナアァアアゴ……』



チェアマンは後ろの気配に気が付き

鳴き声のする方向に振り向いた。


そこには首輪を付けた三毛猫が一匹、呑気そうに座っている。


落ち着いた鎮座に、普通なら

この事務所の飼い猫かと思うだろうが

チェアマンはどこか【別の目つき】で、その猫を見つめていた。



「……おいで、怖い事はしないから」

『グルルル……』

「その【爪】は早めに洗った方が良い、さあ……」



そう言ってチェアマンは手を伸ばしたが

興味がないとばかりに三毛猫は彼の前から去って行った。


椅子だけじゃなく、時間だけじゃなく―

猫の手ごときにもこだわりがあるのか。


人間の言葉など通じないと分かってても、その手を洗うように勧めたが

去っていく猫の後を追う事はなく、黙って見つめていた。



「……」



そしてチェアマンは、何も言わず

事務所の玄関から立ち去った。


留守をようやく認識したのか、それとも再就職を諦めたか―


いずれにしても、彼の存在は

何処に在っても、個性的極まりないようだ―


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