第2話 序章:30分後の幕引き

太正14年、2月10日。

時刻:PM09時49分頃。



―【国会議事堂。会議室】



「…」



その場に入る事自体、簡単ではない。


地位があろうと権威があろうと、適性を問い

椅子に座るまでの長い道のりを要するこの会議室に

国会議事堂という建前を無視したと思われてもおかしくない、一人のツナギ姿の作業員が

ターンテーブルの中央―最も尊ぶべき人物が座る椅子の手入れを施していた。



丁寧に、かつ。慎重に―



その椅子に座る御身が不快感や違和感を示す様であれば

彼はその場で舌を噛み切り、殉職に帰す事を躊躇はしないだろう。


何時からその椅子の手入れを始めたのか、その発端を誰も知らない。

年齢不詳、分かるのは男性という位。


名も知らない―


ただ、彼の事を皆揃って

「チェアマン」と口にする。

しかし彼は頷く事も、嘲笑の混じるその名にも感情一つ揺らさず

今日もこの椅子に腰を下ろす人物の為だけに尽力を尽くしていた。


長い働きに、狂いは無いのか

幸いな事に椅子に対しての不平は一度も無い。

かと言って彼は働きの対価を所望した事がない。



―椅子の手入れが出来ればいい―


抑揚すら感じられない一定の声色で彼はそう答えた。


それだけ聞けばただの変人か、もしくは狂気の沙汰か―椅子ごときにとり憑かれる

疾患人と思われても可笑しくはない。


かと言って真意は定かではないのだ。彼をチェアマンと称するその裏で

何かを望む「欲」が紛れているに違いないと誰もが疑ったまま。


疑うだけ―時は過ぎていく。

中には疑い疲れて、彼の姿に脳への疾患を患った者も居た。


しかし今日も、特に何も求めず

丁寧に―かつ慎重に、一片の乱れも綻びも許さない彼の仕事は

丁度彼の腕時計が「50分」を示した段階で終了した。



「……」



くたびれた、少し汚れの目立つ

つば帽子を目深に被る彼の瞳は


―ただ、一脚の椅子を

ブレもせず捕えている。


その目に感情など無い。

良い出来だと誇る事もしなければ慢心も無い。

天井に吊るされた煌びやかなシャンデリアの光すら帽子に遮断され、むしろ

光そのものを拒む―壁すら感じる。


常人が見ればただ、幾分か高価な椅子としか見えないその一脚に

全身全霊を注ぐ彼を狂気の沙汰と揶揄するのも仕方ない。


兎に角、これにて

今日も彼の仕事は終わったのだ。





「……ご苦労様、チェアマン。」



彼一人しか居ない会議室に、女性の美声が共鳴する。


余程張りつめた空気であったのだろう、壁に跳ね返って響き渡るその一言が

不純物の無い清らかな素体と交じり合い、言葉の品格を底上げする。


彼―チェアマンはその声に応じ、何時の間にか其処に居た一人の人物に驚きもせず

さも普通に頭を垂れた。



「……善き仕事を続けてくれて、本当にありがとう」

「……」

「最後かもしれないのに、貴方の御言葉が聞けそうになくて残念だけど」



淡い紫に染めた髪を整え、同系色でコーディネイトされた

シルクのドレスに透明感のあるショールを纏った一人の老女が

チェアマンに歩み寄り、感情一つ揺らがぬと分かっていても微笑みかけ

彼のエスコートを受けて、その椅子に座る。



「……今日も、良い椅子ね。」

「……」



彼女もまた椅子ごときに狂っているのか、それとも得体の知れないチェアマンに対して

どう言えば適切かを熟知しているのか

毅然とした姿勢を崩さぬ彼女は「あと5分」と口にしたまま

まだ誰も姿を見せぬ会議室を真っ直ぐに見た。



―【あと5分】


「……そう、ね。再就職先の事だけど。」



何一つ言葉の無いチェアマンに、彼女は頬杖をつき

長きに渡る在席の歴史に思いを馳せながら呟いた。


椅子にしか拘りの無い彼に、今までの役目の終幕を告げ

ましてや次は何処で働くのか、その対話も傍から見れば異様としか思えない。


しかもこの仕事が最後と最初から熟知していたのか、チェアマンも無言のまま

彼女の言葉を静かに待っていた


―と、思いきや



「……存じ上げております。勿体なき計らいに言葉もございません。」

「あら。初めて聞いたけれど、良い声なのね。」



クスクスと笑う彼女の笑みによって、チェアマンの再就職先が何処なのかは

結局不明のまま。

お互いにわざわざ口にする程の事でもないと認知し



―【あと3分】


「『彼』の認可を直接得た訳じゃないけど、きっと受け入れてくれるはずよ。」

「……」

「何だかんだと言っても、良い人だから。」



そう言って彼女は微笑み、過去に懐古しながら

薬指にはめていた指輪を取った。



―【あと2分】


それが、彼女なりの

最後の『彼』に対する償いである事を―


誰も、知らない。



「……では、ごきげんよう。」



閉幕まで―あと、



「……失礼します



 【The prime minister―……



―【1分】



……『ASAOKA YUI』】」















そしてチェアマンは、想定もつかない

彼の一生の内で恐らく数回も口にしないであろう、自らの言葉で

彼女を会議室に一人残し、その場を去った。


一足先にこの国会議事堂の、自分の仕事に幕を下ろした

彼を振り返る事も無く―その不器用さを、


ただ。笑う―



「……」



―残された彼女は、白いテーブルクロスの上に

色彩の相違に等しいであろう、黒塗りの拳銃を乗せた。


そして瞳を閉じ、僅かばかりに震える息を吐き出して―



―【30秒】



「最後まで卑怯な女で、ごめんなさいね。」



握られた拳銃の銃口に、彼女は幕引きを託した。






―……



「……」



年季の入った赤ワインの様な、レッドカーペットが敷かれた廊下を

一人歩くチェアマンは自分の腕時計を見た。


そして蓋を開け、【正しい時間】に針を戻す。



新たに針が示した時刻は「09:30分」。

この国を揺るがす会議が始まるまで、後「30分」の猶予があった。


そう、最初から彼は30分時間軸をずらして、仕事をした理由があった。



―30分。

それが彼女の正義を貫く幕引きに用意された僅かな時間。


チェアマンはそんな彼女の要望に応え、自分の時計を狂わせてから

いつも通りの仕事に準じていた。


ただ30分早く仕事を済ませれば良かったのに、時計まで

わざわざ狂わすとは



拘りは、椅子だけでもなかったようだ―



「……」



―ファサッ



彼は遠き会議室の扉に向かって

帽子を取り、深々と一礼した。


それは彼女に対する哀悼の意か、それとも再就職先への感謝の気持ちか

どの道黙したままの彼から何一つ真意は聞けぬ。


ただ、帽子を取った彼のその顔は



「……Thank you」



―白銀の髪が光沢に艶めき、シルクの様な透明感のある肌をした


紅い瞳の眉目秀麗な「ヒト」

と、断言するには。

恐れ多い位に美しかった―

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