宵闇・山へ向かう道

山地を緩やかに風が吹く。

その風にあおられた雲がゆっくりと満月にかかり、しばしその姿を隠した。

そしてまた月の光が地上を照らした時――


「なんてね」

“ピアッサー”の声とともに、微かな金属音が鳴った。

魔人がその得物を鞘に収めたのだ。

「え……?」

唖然とするミシェルに、レイフォルスはあっさりと告げた。

「止め止め。こいつもとりあえず満足してくれたみたいだし、ここでケガしてもつまらないしね」

「わたくしを吸う気は失せたということですか?」

ミシェルの問いに、レイフォルスは笑顔を向けた。

「まぁね」

ややからかうような響きが、彼の声にはある。

「それとも、抜いてもいない相手に仕掛けるかい、シスターさん?」

もちろんそんなことができるミシェルではなかった。

「正直ね、きみは似過ぎててやりにくいんだ」

にわかには意味の掴みかねる物言いを、レイフォルスはした。

「それにあの石像の人。せっかく元に戻ったのに、すぐ恋人を失ったらちょっと可哀想だしね」

それでも「ちょっと」なのが彼らしい。

「ですが――」

ミシェルは食い下がった。

「それでは貴方がこの先無差別に力を振るわない保証にはなりません」

「パッセシャフト」

“ピアッサー”の言葉に、冷水を浴びせられたかのようにミシェルはその身を固くした。

視線を森の先、山々の連なりに向ける。

「……それが、貴方が山に登らなければならない理由なのですね」

「うん」

短く答えて、レイフォルスはザックを背負い直した。

出立の意思表示だ。

「何なら誓うよ。目的を果たすまでむやみに吸わないって。かみさま――は役立たずだからダメか――姉さまに」

「お姉様に?」

「そう。姉さまに立てた誓いは、僕は破らない――僕にいのちをくれた人だから」

レイフォルスの顔には、初めて笑みでないものが浮かんでいた。

月明りの下、二人はしばし見つめ合い、最後にはミシェルも剣を収めた。

「いいでしょう。貴方を信じます」

正直なところ、彼をこのまま行かせるのに抵抗がないではなかった。

だが、実際相棒が飢えていたにも関わらず、山賊が現れるまで彼は我慢したのだ。

それに何と言っても彼女と恋人の恩人なのだ――彼にとってはほんの気紛れだったのかも知れないが。


「じゃあね」

特に何の感慨もなさげに、“ピアッサー”はミシェルの横を通り過ぎた。

ひょろりとしたその姿が、ゆっくりと森の中に消えてゆく。

それを見守りながら、戦慄が身のうちを駆け巡るのをミシェルは感じていた。

ミシェルの傍らを過ぎるとき彼が呟いた言葉――

「良かったよ――昔馴染の子孫を殺さずに済んで」

……彼女の曾祖母の名は、アルタベルテ・ミシェル・ドゥ・トゥアール。

屋敷にある肖像画を見る限り、髪の色――アルタベルテは赤毛だった――を除けばミシェルにそっくりだ。

そして、“お転婆アルテ”というあだ名は、娘時代に、それもごく親しい者にしか使われなかったという。

“ピアッサー”・レイフォルス。

それは、「魔人」という冠語を用いられるべき存在なのかも知れなかった。


――月はすでに中天に座し、夜空の支配権を主張している。

立ち尽くす金髪の剣士は、自らを呼ぶ声で我に帰った。

聞き間違えようのない声、アランだ。

他にも何人かいるようだ。

いきなり村を飛び出した彼女の身を案じて、探しに来たのだろう。

「わたくしはここです!」

答えて、ミシェルは恋人の許へと駆け出した。

再会の喜びに沸き立つ胸。

しかし、その片隅に巣くった不安は、しばらく消えることはなかったのだった――

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