第30話 老衰という名の病

 その頃は、長い川沿いを散歩するのが日課だった。

 野良猫が沢山いて、幾つもの出会いがあった。

 中には喧嘩して顔に傷を負ったトラ猫や、お腹の大きな雌猫もいた。

 でも先の教訓から極力、野良猫社会に干渉しないようにした。


 川沿いには、野良猫に餌付けしている一軒の家があって、その周りにはいつも十数匹の猫がいた。

 そこを通るのがいつも楽しみだったのを覚えている。

 人に慣れていて、塀の上などちょうど撫でやすい高さにたむろしていて、そこを目指して歩いたものだ。


 ある日、いつものように川沿いを歩いていると、道の端に黒猫が寝そべっているのが見えた。

 大好物の黒猫である。

 私は喜び勇んで彼の元にしゃがみ込んだ。

 ところが、様子がおかしい事に気付く。

 挨拶しても身体を触っても、ピクリとも動かないのである。

「えっ?! ちょっと待って、タンマ! おーい!」

 思わず大声を出してしまい、清掃のご婦人に怪訝な目でジロジロ見られた。

 しかし、そんな事はどうでも良い。

 黒猫の一大事なのだ。

 私は注意深く彼を観察し、息をしている事を確かめると、持っていたミネラルウォーターを口元にかけた。

 すると、嫌がるように少し反応した。

 こんなに弱ってるのに、水も受け付けないとは、何か病気だろうか?

 私は慌てて、近くに一軒だけポツンとあった雑貨屋に入り、取り敢えずバスタオルを買った。

 そして黒猫を注意深く抱き上げると、川沿いから繁華街の方に抜けて、道行く地元の人に動物病院の場所を訊いた。

 前足が変な向きに捻れているように感じて、まず獣医さんにその事を訊いたが、幸い怪我はしていないという。

 水を嫌がったのは、酷い口内炎で染みるからだという事だった。

「どうしますか?」

 獣医さんは不意に訊いた。

 一つ目の選択肢は、野良猫として元いた場所に戻すか、私の猫として治療するか、というものだった。

 迷いなく、治療して貰う事にした。

 幸い、給料が出たばかりでお金はある。

 黒猫を入院させ、次の日に様子を見に来る約束を取り付けた。


 次の日、私は動物病院に朝一で足を運んだ。

 黒猫の様子を見せて貰うと、入院用のケージの中で身を起こして座り、前足から点滴を受けている。

 良かった。昨日よりは元気になっているようだ。

 入院費と点滴代で、五千円かかった。

 一時的に北海道に帰る事が決まっていたから、実家に連れて帰って飼おうと、私は本気で思っていた。

「どうしますか?」

 ところが、ここで第二の選択肢である。

 黒猫は、老衰でものが食べられなくなっているのだという。

 治療といっても、点滴で栄養を与え延命するしか手立てがないと、獣医さんはいった。

 このままいたずらに命を延ばすか、もう楽にしてあげるか。

 すなわち、安楽死の選択である。

 中学の時のラドに続き、二回目の遭遇だ。

 これは完璧に私のエゴだが、もう安楽死の選択はしたくなかった。

 点滴を続けて貰うよう頼んで、私は実家の母に電話をかけた。

 この時もまだ、私は本気で彼を実家に連れて行こうと思っていた。

 人目もはばからず泣きながら事情を話し、私は母を説得しようとした。

 ところが、母は言った。

「お父さんは心臓の病気で、動物の毛が悪いんだよ。アリスの毛の付いたパジャマとか、名残惜しいけど全部捨てたんだから」

 なんてこった。

 猫の命の前に、父の命がかかっているとあっては、それ以上無理を通す訳にはいかなかった。

 この時は思い付かなかったが、第一、点滴でかろうじて命を繋いでいる動物が、飛行機に堪えられるのだろうか、と今になって思う。

 

 結局私は、飛行機で北海道に発つ日、段ボールに黒猫を入れて、『猫の楽園』で触れた野良猫に餌付けをしているお宅のガレージに、置き手紙とありったけの治療代二万五千万円を入れて、置いてきた。

 本当は川沿いに住んでいたのだから、川沿いの餌付け場所に置いてくるのが筋だが、折しも台風で風雨が厳しくなっていたので、凌げるガレージを選んだ。

 連絡先も知らない近所のお宅だから、その後黒猫がどうなったかは分からない。

 でも束の間、ストーカーで傷付いた心を和ませてくれた黒猫と、ガレージの片隅を貸してくれたお宅には感謝している。

 そして、もしかしたら安楽死という選択を押しつける事になってしまったかもしれないお宅の方々に、懺悔である。

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