第29話 口パク
猫の楽園に住んでいた頃、近所の美容室にも猫がいた。
昼間は美容室の中で飼われていて、夜は入り口の猫小屋で眠っているようだった。
少しぽっちゃりした猫だった。
朝、まだ美容室が開いていない頃に毎日前を通ると、ぽっちゃり猫は猫小屋から出て入り口の前に座り、美容師さんたちが出勤してくるのを待っているようだった。
人通りが多く、声を出すのは恥ずかしかったから、この猫に口パクで挨拶するのが日課になった。
(にゃあ)
と目を見て口パクすると、ぽっちゃり猫も必ず口パクで応えてくれた。
猫好きには堪らない、『口パクで「好き」』である。
そして、短い時間、頭を撫でた。
そんな猫は女子高生の間でも人気のようで、撫でている先客がいると、その日は順番待ちを諦めてちょっとガッカリして出勤したものだった。
ある日、猫の前にたむろした女子高生が、「何?!」「恐い!」と騒いでいるのを見かけた。
何事かと猫を覗くと、斜め上の何もない空間を、ジッ……と食い入るように見詰めているのである。
その目は、いつかお化けをジッ……と見詰めていたアリスを彷彿とさせる。
「何々、何かいるの?!」
恐いもの見たさの女子高生は、大盛り上がりである。
私も思わず笑って、女子高生の輪に加わって猫の視線を追った。
何もない。小鳥が止まっている訳でもない。
猫とは、どんなに平和な見かけをしていても、神秘的な生き物だと思い知らされた出来事だった。
冬になり、ぽっちゃり猫は猫小屋から美容室の中に寝床を移した。
寂しかったが、猫は寒いのが苦手だ。
猫の為ならエンヤコラ、と毎日の口パク挨拶を封印したのであった。
なりすましはまだその頃続いていたようで、美容室のやっている時間に猫を覗くと、「凄い目で睨まれてたぞ」と相方に指摘された。
好きな人や事柄を『悪口』に、嫌いな人や事柄を『好いている』と変換された為、大嫌いだと語った動物虐待を『やっている』と変換されたのは、想像に難くない。
私のせいでぽっちゃり猫が自由を奪われたんだとは、思いたくないのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます