第8話 彼と彼女の、お休みの話

「いい天気ー!!」




洗濯物を干し終えてベランダから部屋に入ってくるなり、空のカゴを下に置いた彼女は両手をぐっと上に伸ばして満面の笑みでそう言った。


新聞から目を上げて、私も思わず目を細めて笑ってしまう。




「そうだね」


「休みの日に天気がいいと気持ちいいよねー!!洗濯物もよく乾きそう」


「お疲れ様、奥さん」


「どういたしまして、旦那さん」




にこにことカゴを片付けて、それから彼女は弾むような足取りで私の座るソファーの方へやってくる。




「何処か出掛けたい?夜まで良い天気が続くみたいだよ」




活力的な彼女のことだ、ピクニック、だとかアクティブな休日プランを練っていてもおかしくはない。


新聞を畳んで訊ねると、動きを止めた彼女はうーん、と腕組みをして首を傾げた。




「それも魅力的なんだけど、今日は独り占めしたい気分なのです」


「独り占め?」


「うん。のーんびりしたハルさんを」


「え?」




予想外のところから飛んできた言葉に、思わず間の抜けた声が上がってしまう。


そんな私に可笑しそうに笑って、彼女はエプロンを外してソファーに滑り込んできた。


それからぽんぽん、と膝を叩く。




「よろしければお膝をお貸ししましょう、旦那様」


「……大サービスですね、奥さん」




何と答えてよいものやら反応に迷って、私は曖昧に微笑んでしまう。


そんな私に笑い返して、彼女はまた少し首を傾げた。




「ハルさん、最近お仕事でちょっと嫌なことか、困ったことがあったでしょう」


「……え?」


「ハルさんはそういうの、表に出さないけど」


「……出したつもり、なかったのだけれど……分かってしまった?」


「分かります。ハルさんの奥さんだもん」




得意げに笑って、けれどそれから彼女は言葉を選ぼうとするようにゆっくりと口を開いた。




「あのね、ハルさん。ハルさんが大人としてそういうのを表に出さないように、私に気付かせないように、ってしてくれてるのは分かるの。でも、ハルさんは私にじゃなくても言わないんじゃないかなって思うんだ」


「……」


「じゃあ、ハルさんは誰に嫌なことがあったよ、って言うのかなって思ったの。私ね、聞くしか出来ないけど、ハルさんが弱いところとか見せるの、少しも嫌じゃないよ。家って、そういうところだもん」


「そう、だね」


「だから、今日はお仕事ハルさんはお休み。プライベートハルさんで、たっくさん甘えてくださいな」




どーんとどうぞ、と屈託なく笑ってくれる彼女は、とても大きな包容力を感じさせて。


何処が子供なものか、と私は口には出さずに、小さく心で呟いた。




ほらほら早く、と急かされて、面映ゆい気持ちを抑えて静かに彼女の膝を借りる。


真上に彼女を見上げるのは流石に気恥ずかしすぎて、私は目を閉じた。


上手く体を落ち着けるように少し身じろいだ後、彼女が満足げに笑う気配がする。




柔らかく伸びてきた指が私の前髪を梳いて、彼女は思案気に呟いた。




「ハルさん、前髪ちょっと伸びてきたね」


「そう?」


「うん。邪魔じゃないの?」


「うーん、まだあまり気にならないけど」


「駄目だよー、目に入ったら大変でしょ?」


「はいはい、気を付けるよ、奥さん」




ほんとに?と疑わしげに、けれど笑いを含んだ声が訊ねてくる。


ちゃんと美容院に行かないと結んじゃうよ、と悪戯っぽい響きを乗せて、彼女はさらりと私の前髪を横に流した。


ゆっくりと、まるで猫を撫でるような仕草で彼女は私を撫でる。




「……」




私は、彼女とは年が離れているし、性格も性格だったからだろうか、あまり頭を撫でられたという記憶がなかった。


そもそも、もう四十もすぐそこの男だ。


だからだろうか、妙に気恥ずかしく……落ち着かないような、反面心の奥の辺りが静かに癒されていくような、不思議な感覚がある。




「……少しね」


「うん?」


「職場で、揉め事の板挟みになることがあって」


「うん」


「どちらの言い分も間違っているわけじゃなかったんだ。主張のどちらにも理はあって、けれど仕事は何処かで折衷案を見つけなければいけない」


「うん」


「どちらも頭に血が上ってしまったんだろうね、ぶつかりすぎてしまって。それを仲裁することに、ここしばらく時間を取られてしまったのが、少し疲れてしまったんだよ」


「そっか。その人たち、仲直りできた?」




柔らかな声が、幼い訊き方で話の続きを促してくる。仲直り、だなんて、良い大人に対してはおかしいのかもしれないが、その柔らかな捉え方が今の私には有り難かった。




「まだ少し棘が残っているけれど。あとは時薬かな、と思っているよ」


「そうなんだ。お疲れ様だったね、ハルさん」


「ありがとう」




私がしたことなど、双方の話を根気よく聞いただけのようなものだが、彼女が労ってくれると意味のあることだったように思える。


息を吐いた私に鈴のように笑って、彼女は「えーとね」と口を開いた。




「じゃあ、私がハルさんに花丸をあげる」


「花丸?」


「頑張りましたでしょうの花丸」




ぱちぱち、と音の控えめな拍手とともに、彼女はそう言った。


……花丸。


随分幼い頃にもらったきりの、懐かしい言葉だ。




「……花丸、か」


「そう、花丸。ハルさんはいっぱい頑張りました。奥さんが花丸をあげます」


「はは、ありがとう」


「花丸のご褒美は、何がいいかなあ。食べたいものとか、ある?ほしいものでもいいよ、奮発しちゃう」


「……大サービスですね、奥さん」




何となく、同じ言葉を繰り返してしまう。くすくすと笑って、彼女は「何でもいいよ」と私を促した。




「……何もいらないよ」


「えー?」


「君以外、ここ以外。何も、いらないよ」




それは、本当に自然に私の口を突いて出た言葉だった。目を開ければきょとんとした顔で、彼女が首を傾げているのが上に見える。


心からの本音は少しばかり恥ずかしいもので、もう一度言うのはもう年を重ねた私には躊躇うところもないではなかったけれど、伝えたい言葉は何度でも繰り返し、口にしなくては。




「君が作ってくれる今以外、何もいらない」


「……ハルさん」


「本当に、そう思うよ。私にとっては、ここ以外に欲しいものなんて、本当にないんだ」




窓から差し込む明るい陽射し、吹いてくる風は温かく心地良い。


彼女からは淡い洗濯物と太陽の香り、体を支える柔らかなソファーと、彼女の膝。


煩わしいものなど何もなく、静かに過ぎていく休日の昼間の微睡み。


それ以上の贅沢など、何を望むだろう。




「……ああ、そうだね」


「え?」


「君の言う通りだ」


「ハルさん?」


「何でもくれると言うなら、君を独り占めしたい」




下から手を伸ばして、結んでいた髪から零れた一筋の髪を彼女の耳に掛ける。擽ったそうに目を細めて、それから彼女は「それでいいの?」と首を傾げた。




「それで、じゃなくて。それが、いいかな」


「……うん、分かった。じゃあ独り占め、してください」




わざとだろう、少しばかり真面目な顔をして、それから彼女は笑う。




「……良い日だね、ハルさん」


「そうだね、良い日だ」




穏やかな休みの日の心地良さに、私はもう一度目を閉じて彼女の存在に感謝した。










(休みの日には、二人きりで)


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コーヒーとミルクで世界は回る 雪姫 @setsuki0416

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