第7話コーヒーとミルクで世界は回る~風邪を引いた日~

ぶるっと、私の意思とは無関係に背中が揺れて、私はすん、と鼻を鳴らした。


あれれ、もしかして。




救急箱をしまってある棚に近付いて、体温計を引っ張り出す。


恐る恐る計ってみた体温は、予想通りの平熱越えだった。




「38.2……」




こんなところまで惜しみなく子供っぽいというか、私は平熱が高めなのだけれど、それでもここまで出れば流石に分かる。


どうやら、風邪を引いた模様です。




「ハルさんやー」


「何だい、奥さんや」




持ち帰ってきたお仕事をしていたハルさんは、私のへなちょこな声に部屋から出てくるなり、眉を顰めて首を傾げた。




「あれ、もしかして……」




スリッパを鳴らして近付いてきたハルさんは、大きな掌を私のおでこに当てて、低く潜めた声で訊ねてくれた。




「もしかして、熱が出ているのかな」


「うんー」


「何度だった?」




私が持ったままだった体温計をハルさんに見せたら、ハルさんは更に眉を顰めた。


随分高いね、と呟いて、掌を離す。




「あ」


「うん?」


「あ、ごめんね、何でもない」




ハルさんの掌が冷たくて、ちょっと気持ちよかったんだけど。


……いけないいけない、そんなことを考えている場合じゃなかった。




「奥さんとしてはハルさんのご飯を準備したいんだけど、今作るとハルさんまで風邪菌に倒れてしまうかもしれないので、晩御飯おそばかおうどんとってもいい?」




主婦としてはハルさんに出前を食べさせるのはちょっと嫌なんだけど、背に腹は代えられない。


ちょっと情けない気持ちでハルさんを見上げたら、ハルさんはすぐに頷いた。




「勿論いいよ。私のことは気にしないでいいから、早く休みなさい」


「はーい」




熱って、どうして自覚したら急に具合が悪くなるんだろう。


理不尽な気持ちになりながら、私は部屋に入った。


パジャマに着替える間も、怠いし肌は敏感になっててちくちくするし、本当に嫌になる。


セーターを着ていた時も寒かったけれど、パジャマの冷たさにぶるっと震えてしまい、私はもうやだーってベッドにもぐりこんだ。


横になった瞬間、どっと怠さが襲ってくる。




「こらこら、奥さん」


「ハルさん?なにー?」


「薬を飲んでから寝なさい。ほら」




水の入ったコップと市販の風邪薬を渡される。流石気配りハルさん、薬は包装から出されて掌に落とされてた。




「はーい……」


「とりあえず寝て、明日の朝も熱が下がらなかったら病院に行こう」


「えー、大丈夫だよー」


「駄目。君は自分の体調不良に対して認識が甘すぎるからね」


「……はーい」




叱られちゃった。


コップをハルさんに返してもう一度ベッドにもぐりこんだら、ハルさんはサイドテーブルにコップを置いてベッドの縁に座った。




「?ハルさん?お仕事、戻らないの?」


「君が寝付くまで、ここにいるよ」


「え、駄目だよ、うつっちゃうもん」


「でも君は小さい頃も熱を出すと一人では寝られなかったから」


「だ、大丈夫だよー、もう子供じゃないもの」


「私がいると、邪魔?」


「……それは嬉しいけど」




嬉しいけど、うつっちゃったらどうしよう。


多分、それが全部顔に出ていたんだと思う。少し笑って、ハルさんは「これでも私は丈夫なんだよ」と私の頭を撫でてくれた。


うう、駄目なんだけど、駄目なんだけど……でも、嬉しいから、甘えちゃおう。




「熱を出すのは久しぶりだね」


「一昨年インフルエンザにかかったとき以来だと思う……」


「ああ」




ハルさんが笑いを噛み殺す。その理由は、私にも分かった。ちょうどその頃ハルさんはお仕事がすごく忙しくて、それなのにちゃんと奥さん出来ない私が泣いて泣いてテンパって、「ハルさん実家に帰ってー!!」って叫んでハルさんを家から追い出しちゃったからだと思う。


慌てたお義母さんが飛んできて、「ちいちゃん馬鹿息子が何したのー!?」って叫ばれた時にはどうしようかと思った。


ハルさんにしては珍しく、「妻に家を追い出された」と冗談交じりに言ったみたいで。


そこで、「妻がインフルエンザにかかったから家を追い出された」って言ってくれればよかったのに……って言ったら、「それはそれで『何を病気の妻を置いておめおめと帰ってきているんだこの馬鹿息子!!』と怒鳴られるだけだと思うよ」と笑っていたけれど。


ハルさんも私に追い出されたから帰ったわけじゃなくて、昼間の仕事中私を看てくれるように、お義母さんに頼みに行ってくれただけだったんだけど……うう、今思い出しても顔から火が出るくらい恥ずかしい。


結局その時は昼間はお義母さんか私のお母さん、夜はハルさんのタッグでしっかりきっちり看病されてしまって、忙しかったハルさんには本当に申し訳なかった。


ハルさんは「君の夫として当然だよ」って笑ってくれたし、改めてハルさんのおうちにお礼に行ったら、お義父さんもお義母さんも「元気になって良かった」って言ってくれたんだけど。


……ちなみに、私のお母さんは「あんたもほんと予防接種しておきなさいよねー」って呆れた顔して、口にリンゴを突っ込んできた。容赦なかったなあ。




「今日は追い出さないでもらえると嬉しいかな」


「……追い出したって、ハルさん帰ってきちゃうよ」




気恥ずかしくて、子供っぽいとは思ったけど唇を尖らせたら、ハルさんは全然涼しい顔で「勿論」なんて笑ってた。




「……君は、大事なところで甘えるのを躊躇うからね」


「躊躇ってないよ?ハルさんには甘えっぱなしだもん」


「態度の話じゃなくて。体調が悪いとか、困ったことがあるとか。そういうときに頼らないから」




そんなことはないと思うんだけど……どうなんだろう。ハルさんにうつしたくないからって言うのは、頼っていないことなのかなあ。




「奥さん、君は私が体調を崩したら、私が何を言おうと頑として看病をやめないだろう?」


「だって、私はハルさんの奥さんだもん」


「私は君の旦那さんだよ、奥さん。忘れてしまった?」


「忘れてないよ!!」


「それなら。妻は夫の世話をするけれど、夫は妻の世話をしなくてもいい、なんておかしいとは思わないかな。私達は、夫婦なんだから」




穏やかなハルさんの声に、考える。


そうなのかな。だって、奥さんとか妻、っていうのは、旦那さんが色々楽になるようにできることをするものじゃないのかな。


……旦那さんも、そうなの?




「私は家政婦が欲しくて君と結婚したわけではないよ。君と一緒に生きていくために、君と結婚したんだから」


「……うん」


「君が困ることやつらいことを助けて、そういうものから守るために夫はいるんだよ。妻である君が、私がつらくないよう、居心地良く幸せにいられるように守ってくれているように。だから、こういう時は君が私に甘える番なんだから、覚えておいてほしい」


「……うん。分かった。ありがとう、ハルさん」




私、ハルさんの奥さんでいることが嬉しくて、いつも張り切りすぎてしまうのかもしれない。


ハルさんは私のそういうところ、全部分かってくれた上で見守っていてくれるけれど。


それでもハルさんは、いつも私の旦那さんだからって、私と生きるために結婚したんだよって、そう言ってくれる。


本当に、なんて素敵なひとが旦那さんなんだろう。




「……ハルさん」


「うん?」


「すき。だいすき」


「うん。ありがとう。私も君が好きで大切だよ。さあ、休んで。明日まで熱が下がらなかったら、病院で注射だよ。君は注射が苦手だろう」


「……平気なひとが変なんだよ……注射はいや……」


「それなら、熱を下げないとね」




ううう、ハルさん酷い……注射、苦手なのに……。


ずぶずぶと鼻先まで掛布団に埋まったら、「窒息してしまうよ」と笑われてしまって、私はまた自分の子供っぽさが恥ずかしくなってしまった。


でも、今は熱が出てるから。だから、しょうがない、ってことにしておこう。




薬のおかげなのか、それともそもそも私が寝つきがいいからなのか、うとうと、って睡魔がやってくる。ハルさんは気付いたみたいで、少し私を見て、ぽんぽん、と掛布団の上から私のお腹辺りを叩いた。




「眠って目が覚めたら、楽になっていると思うから。安心してお休み」


「うん……おやすみなさい、ハルさん」




子守唄みたいに優しいハルさんの声に、ますます眠気に勝てなくなって。


私はハルさんに促されるまま、大人しく目を閉じた。












子供のような寝顔だと言ったら、彼女はきっとまた落ち込んでしまうのだろう。


けれど、私の手を掴んだまま、何も怖いものはないように無防備な顔で眠っている彼女はあどけない子供のようで、その無償の安心感は私にとってはとても嬉しいものだった。




「……ああ」




思い出して一人、ふと微笑む。


彼女がまだ小さな頃、同じように熱を出した彼女に付き添ったことがある。


母に頼まれて田舎から送られてきた野菜のお裾分けに行ったとき、彼女が熱を出していて、お義母さんは買い物に行くのも心配で困っていた。


最初は買い物を代わろうかと思ったのだけれど、薬の受け取りも含めて何軒か回りたいということで、それならと留守番の方を引き受けたのだったと思う。


部屋に入った私に驚いた顔をしていた彼女は、私が一緒に留守番をしよう、と言ったとき、随分と安心したように見えた。この幼さで母がずっと自分の傍にいることに申し訳なさを感じていたのだと分かったときには、その健気さが随分と可哀想にも思えたものだけれど。




「……ふ」




そう、確か何かに気付いたように目を丸くした彼女がいきなり大きく息を吸い込んで、ぷくりと膨れた頬のまま息を止めたのだった。いきなりどうしたのかと驚く私に、そのまま十秒ほどで熱だけではない真っ赤な顔になった彼女は、思い切り布団にもぐりこんでそこで咳き込んでいた。


何でも、学校で風邪のウイルスは空気を伝って人にうつるのだと習ったのだという。それは室内に既にあるわけだから、新しく息を吐き出さなくても同じなのだけれど、彼女はどうやら同じ空間にいるときに呼吸をしたら危ない、と解釈したらしかった。その幼さがどうにも可愛くて、私はお義母さんに渡されていたマスクをついぞすることができなかったのだけれど。




幼い頃から知っている彼女の小さなひとつひとつが、私に昔の記憶を懐かしく思い出させてくれる。それは幸せなことで、彼女は恥ずかしいというけれど、私にとっては大切なものだ。


幼い頃に思った想いとは、形は違うけれど。


彼女は私の大切な子だ。




「……ゆっくりお休み。私の奥さん」












(まどろみにいこう)

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