第5話 コーヒーとミルクで世界は回る ~やきもちのカタチ~
「ハル?」と掛けられた声は甘くて優しくて、私は何だか嫌な感じに背中がぴん、となるのを感じた。
ハルさんが見た方にいたのは、落ち着いたスーツの女の人で、綺麗で大人っぽい人だった。
「石橋。驚いた、職場はこの辺りだった?」
「そう、そこの角を曲がった先のビル。あなたこそこの辺り?」
「いや、私は違うよ。私は買い物」
「ああ、そこのショッピングセンター?色々揃って便利よね」
納得したように頷いて、その人はそれから私を見た。
ゆっくり二回瞬いて、それからハルさんを見る。
「もしかして」
「ああ、妻だよ」
「……はじめまして」
ゆっくり、自分でもぎこちないのが分かるくらいの動きでお辞儀をする。
そうなの、と明るい口調で頷いて、女の人は私に一歩近付いた。
「石橋綾子です。よろしくね」
「……」
黙ってぺこりとお辞儀をする私に、女の人……石橋さんは「人見知りなのね」と朗らかに笑った。
不思議そうにハルさんが私を見ていることが分かったけれど、私はハルさんを見られない。
「結婚してたの、知らなかった」
「うん、まあ」
「いつ?」
「もう二年になるよ。石橋はアメリカに行ってたんだっけ」
「違うわ、ロンドン。そう、だから知らなかったのね」
納得したような声。
俯いている私には、石橋さんの表情は分からない。
綺麗な人、大人っぽい人。
私が憧れてもなれない、雲の上みたいな人だ。
……それに、多分。
「……ああ、石橋、何処かへ行くところだったんじゃないのかな」
「ああ、そうだったわ、銀行に行くの。それじゃ、またね。近いうちにまた集まりましょう」
「そうだね、機会があれば」
軽く手を振って、私にはウィンクひとつまでおまけにつけて、石橋さんは颯爽と去って行った。
じわじわ、喉の奥からお腹の辺りが気持ち悪い。
「……どうかした?」
「ううん、何でもないよ、綺麗な人だったから、緊張しちゃったのかな」
「ああ……石橋はあまり変わらないな。少し驚いた」
「……そうなんだ」
無理矢理笑う。
だって、ハルさんも石橋さんも悪くないんだもの。
「ハルさん、早くお買いもの行こう?コーヒー零しちゃったラグ、早く替えたいもん」
「うん……?」
首を傾げたハルさんの腕を引っ張って、私はショッピングセンターの方へ歩き出した。
「訊けばよかったじゃん」
ずばり、と遠慮なく言ったのは、私の高校生の時のクラスメイトだった。
奇跡的なほどの確率で席が隣同士であり続けたという縁もあって、私と彼はずっと仲が良かった。
親友……悪友?そういう感じの友人だ。
ずばずばものを言う遠慮のない彼に腹が立つこともあったけれど、助けられていることも多かったし、嫌な顔一つせずに相談に乗り続けてくれたのも、彼だった。
「そうだよね……そうなんだけど」
「今の人元カノ?で終わった話だと思うんだけど、何、全然訊けなかったの?」
「訊けなかった」
「何で」
「だって、すごく綺麗な人だったんだよ……大人っぽくて、出来る女!!って感じで」
「何だそりゃ」
意味が分からん、と言いながら頭の後ろで手を組んで、彼はぐいっと仰け反る。
「話を聞く限り超意味深、とかでもなさそうだし……単に知り合いって可能性だってあるんじゃないの?」
「それはそうなんだけど」
「そんなベコベコに凹むような話じゃないと思うんだけどなあ。元カノ?って軽く訊いて、そうだって言われてもそうじゃないって言われても、そうなんだー、で終わる話じゃん」
「それで終わるならツカサなんて呼んでない」
「お前な、急な呼び出しに嫌な顔一つせずやってきた俺にそれか。帰るぞコラ」
彼……ツカサはそう言って凄むけれど、本当に帰ったりはしないって知っている。
面倒見が良くて義理堅い、そういう性格だから。
「つかお前さ、俺に対してそんだけ遠慮がないんだから、旦那さんにならもっと行けるだろ。幼馴染なんだろ?」
「うん、私が生まれた時から知られてる」
「すげーよな、それ。俺なら赤ん坊の頃を知っている女の子とか絶対女として見られない」
「……私もそう思う」
自分に置き換えても、中学生の時に見た近所の赤ちゃんが、将来的に旦那さんになるとか……絶対に想像ができないもの。
「そんな懐深い旦那さんでも、訊けないもん?訊いたからって嫌な顔をされるわけじゃないんだろ?」
「多分。普通に答えてくれると思う」
不思議そうにはするかもしれないけど、きっと教えてくれる。
「でも、訊けない?」
「だって、知っちゃったら凹む……」
「おーい、知らなくても凹んでるくせに何言ってんのお前」
「ツカサには乙女心が分からないんだ……」
「本当にめんどくせーな乙女心」
呆れたように肩を竦めて、ツカサはやれやれ、とため息をついた。
「じゃあさ、俺に何を言ってほしくて呼び出したわけ。俺が訊けばよかったじゃんっていうことは、お前には分かってただろ?」
「うん」
「じゃあなんで」
「正直、ツカサに何を言ってほしかったっていうんじゃなくて、もやもや考えていたら気持ち悪くなっちゃったから、王様の耳はロバの耳、っていうか」
「おいおい」
「男心って分からないから、訊いてみたかったっていうか」
男心、というか、本当に知りたいのはハルさんの気持ちだ。
ううん、それもちょっと違う。
ハルさんは浮気なんてしない。
それは絶対的に信じている。
もしそういうことになっちゃったとしたら、その時ハルさんはきっと私にちゃんと言ってくれると思う。
私より好きになったひとが出来た、って。
ハルさんはそういう、誠実なひとだ。
だから知りたいハルさんの気持ちは、どういうものだって言ったらいいのか、上手く言えない。
違うよって否定してほしいのかな。
違うって、何が?
あの人はハルさんにとってどんな人だった?
どんなふうに付き合っていたの?
今でも、ちょっとは好き?
……どれも、知りたいけど知りたくない。
「本当にすげーめんどくせ。つかさ、全っ然いわくありげには聞こえないんだけど。俺だって元カノだか昔の友達だかにあったらそんな感じになると思うし、だからどうってこともないし」
「うん」
「邪推して勝手に凹んでとかお前、すげーひどい」
「そこも分かってる。本当に、何もないんだとは信じてるんだけど」
「理屈じゃないってのも分かるけどさー、どうしたいのお前」
「……わかんない」
そこが分からなくて、もやもやしているんだと思う。
ハルさんは私よりも十と三も大人で、ハルさんにはハルさんの人間関係だったり、世界だったりがある。
ハルさんの学生時代を私は知らないし、お仕事場でどんな顔で、どんな人とお仕事をしているのかも、知らない。
それを知りたいと思っている……勿論ちょっとは思っているけれど、それを知らないこと自体を不満に思っているわけではなくて、それは仕方のないこと、って割り切れている部分も勿論ある。
もどかしいこの感情は、何だろう。
「……うりゃっ」
「ひゃっ!?」
考え込んでいると、ツカサは手を伸ばして私の鼻をぎゅっと掴んだ。
油断していた私は思い切り息が止まってしまって、思わずツカサの手をばしばしと叩いてしまう。
「いひゃいっ!!何するのツカサ!!」
「お前があんまりぶっさいくな顔をしてるから、見るに堪えなくてさ」
「ぶ、ぶさいく!?」
「ただでさえガキっぽい顔してんだから、せめて愛想よくしてろよ。今日は葬式か」
「相変わらず失礼な……!!」
「そうそう、怒ってる方がまだまし。笑えるしな」
「ツ~カ~サ~……!!」
ほんと、失礼!!
私が思い切りむくれていると、けらけらと笑ってツカサは頬杖をついた。
ま、あんまり思いつめなきゃいいんじゃねえの、と軽い口調で言う。
確かにツカサに話す前よりは軽くなった気持ちに口惜しいけれど、昔から変わらない彼に助けられてしまった。
「……ありがと、ツカサ」
「どーいたしまして。あー俺って本当に良い奴だなー」
「自分で言わなきゃ完璧なんだけどね!!」
本当に、ツカサは。
思わず吹き出してしまって、私は大きく息を吐いた。
「ただいまー」
「おかえり」
「あれ、ハルさん!?」
びっくりした。
ハルさんは図書館に行ったら三時間は帰ってこないから、その間に帰ってこようと思ったのに。
そんなに遅くなっちゃったっけ、と時計を見たら、まだ一時間半しか経ってない。
「ハルさん、今日はすごく早かったね?」
「うん、図書館に子供がたくさんいてね、落ち着かなかったから」
「そうなの?残念だったね」
賑やかすぎることが苦手なハルさんには、それはつらかっただろうなあ。
コートを脱いで、キッチンに入る。
ハルさんは自分であまりコーヒーを淹れない。
上手に淹れられるのに、私に任せてくれることが多いから。
でも。
「あれ?ハルさん、コーヒー淹れたんだ」
「うん、飲みたくて」
「そっか」
キッチンに出ているミルやドリップの道具にちょっと驚いた。
でもそうだよね、コーヒーが飲みたくて、私がいなかったらハルさんは自分で淹れるもの。
納得して、私は戸棚を開けてココアパックを取り出した。
ミルクはまだ切らしていなかったし、私はホットココアにしよう。
カフェでは紅茶を飲んできたけれど、甘いものが飲みたい気分だ。
ミルクをお鍋で温めて、ココアを投入、ゆっくりゆっくり掻き混ぜる。
マシュマロを浮かべようかな、とも思ったけど、甘すぎるかな。
そういえばホットチョコレートも材料買ってきてたっけ、そっちにすればよかったかなあ。
そんなことを考えながらココアの様子を見ていたら、リビングのソファーが軋む音が聞こえた。
肩越しに振り返れば、ハルさんが同じようにソファーから振り返って私を見ていた。
「?ハルさん、どうかした?」
「うん」
「???あ、ハルさんもココア飲みたい?」
「いや、私はコーヒーを淹れたから」
「そうだよね。ええと……お茶うけ?それならクッキーが……」
「要らないよ」
「……?」
夫婦で、しかも付き合いが長いとはいえ、相手の言いたいことを察するのは難しい。
ハルさんは私の言いたいことを抜群に当ててしまうのだけれど、それでも時々は外すし、私の方なんて当てられることの方が珍しい。
とりあえず、完成したココアをマグカップに注いで、キッチンの方からじっとハルさんを窺う。
ハルさんはポーカーフェイス……というか、いつでも穏やかな表情をしているから、本当に分かりづらい。
でも、何となくちょっと、不機嫌そう?
図書館でゆっくり出来なかったからかな。
でもハルさんがそんなことで機嫌を悪くするのはちょっとしっくり来ない。
お昼ご飯が美味しくなかった、とか。
……一緒にお昼食べてからもう二時間近く経っているし、さっきの以上に、ハルさんが怒る理由としてはしっくり来ない。
私が出かけていたから?
ちゃんとハルさんには出掛けてくるね、って言ったし、ハルさんも笑って気を付けて行っておいで、って言ってくれた。
そもそも、途中まで一緒だったし。
怒られるほど帰りが遅くなったわけじゃなかったし。
あとは、うーん、何だろう。
思い切り私が戸惑っていたのが分かったのか、ハルさんはしばらく私を見つめた後、ゆっくりとため息を吐いた。
何でもないよ、と優しい口調で言って、図書館で借りてきたらしい本に向き直る。
あれ、何だろう。
今の、誤魔化させちゃいけないことだった気がする。
そうは思ったのに、それでもハルさんが何に不機嫌になったのか分からず、私は首を傾げるしかなかった。
「……うーん」
ぶくぶく、と入浴剤を入れて白く濁ったお風呂の水面に泡が立つ。
口元まで沈んで、私は眉間に皺を寄せていた。
目の前をぷかぷか泳いでいくキャンドルをつついて遠ざけて、唸る。
ハルさんは、基本的に私のことをほとんど怒らない。
結婚してからこちら、ハルさんに怒られた記憶はすごく少なくて、それはどれも私が危ないことをしたときだ。
回転する椅子に乗って棚の上のものを取ろうとしたときと、お皿を割っちゃって、慌てて素手で拾おうとしたときと、飛ばされてベランダを飛び越えそうになった洗濯物を捕まえようとして身を乗り出したとき。
覚えているのはそういうのばかりで、優しいハルさんは自分が困ることになっても、怒ったりはしなかった。
仕方ないよ、大丈夫。
そう言って、可笑しそうに笑ってくれた。
怒るときは怒られたけれど、あんなふうに物言いたげなハルさん、見たことなかった気がする。
「何だろう……」
普通なら怒られても仕方ないような失敗を幾つか思い出すけれど、どれもハルさんが怒る、っていうのと考えると、違うような気がする。
それに、出掛ける前までは普通だったし。
「……あれ、ってことは出掛けてる間のこと?」
お昼を食べ終わってから、出掛けて帰ってくるまでの一時間半のこと。
でも、ハルさんは例えば外出先で嫌なことがあっても、あんなふうな態度にはならないような。
「……ってことは、やっぱり私のこと……?」
でも、どうして?
バスタブにぶつかったキャンドルが、またこっちにゆっくりと跳ね返ってくる。
それをもう一度つつくと、くるくるとキャンドルが回り出して、私は何となくそれをじっと見つめた。
出掛けていた間のこと……私はハルさんにお友達とお茶をしてくるね、と言って出かけたし、カフェでツカサとお茶をしていたのも本当のことだし、帰りが遅くなったわけでもなかったし。
危ないこともしていなかったし、ハルさんが困るようなことも、していなかったと思うんだけど……。
「……わかんないよー、ハルさん……」
ぶくぶくともう一度お湯の中に沈んで、私はもう一つ唸り声を上げた。
「……」
読んでいたはずの本は、先程から一ページも進まない。
読んでいるつもりなのに、ふと気付けば同じ行ばかりを目でなぞっている自分に気付いてしまうことが滑稽で、私は苦く息を吐き出した。
時計を見上げれば、彼女が風呂に向かってもう三十分が経つ。
じきに出てくるであろう彼女は、私が全く読書を進めていないと気付いたら、何と言うだろうか。
彼女は不思議とそういったことに鋭くて、私が上の空になっていることにはすぐに気付く。
けれど、心配したようにどうしたの、と訊ねてくれるであろう彼女に返せる言葉が見つからず、私は沈黙するしかないのだろうことも分かっていた。
……訊ねればいいだけのことだ、分かっている。
しかしその言葉が見つからない。
図書館の騒がしさに館内での読書を諦めた私は、目当ての本を幾つか借りて岐路についていた。
歩道工事の関係で、いつもと違う道を通ったのはほんの偶然だ。
落ち着いたカフェや可愛らしい雑貨屋の多いその通りは、きっと彼女の好みに合うだろう。
ふとそんなことを考えて、私はその内彼女と来てみようか、と思いついた。
普段行きたい場所は見たいものを探してくれるのは彼女だ。
些か受け身になりがちな私は、そのおかげで新しいものと知り合うことが出来たことも多かった。
たまには私から誘ったら、彼女は何と言うだろう。
そんな面映ゆいことを考えながら、私はふと近くの喫茶店に目を遣った。
そこに彼女を見つけて、驚く。
そうか、友達とお茶をしてくる、と言っていたのはここだったのか。
では、彼女の知る喫茶店ならばまた少し変わってくるな、と思いながら何気なく彼女の友達に目を遣れば、そこに座っていたのは精悍な雰囲気の男性だった。
それにひどく驚かされ、私は立ち止まってしまった。
別段、友達が誰かと訊ねたわけではない。
だというのに、私は彼女の友人とはてっきり女性だと思い込んでいたのだ。
勿論、男性の友達がいてもまったくおかしなことはないし、それ自体に問題はないはずだ。
だというのにひどく衝撃を受けてしまったのは何故だろう。
何かしらふさぎ込んだ様子の彼女の話を聞いているらしい男性は、時々肩を竦めたり頷いたりをしていたが、不意に手を伸ばして彼女の鼻を抓んだ。
それに対して怒ったように身じろぐ彼女からは気の置けない気配が色濃く漂っている。
それは、私の知らない彼女の姿だった。
動揺してしまったことにも動揺し、私はその場を逃げるように去ってしまったのだが。
……彼は友人かい?たまたま見かけたのだけれど、学生時代の友人なのかな。
訊ねればいい、簡単なことだ。
だというのに、そこに責めるような色が乗ってしまいそうな気がして、口に出せない。
責めるようなことではない、それは私自身が一番分かっていて、まして彼女と十と三も離れた、いい年をした大人が取っていい行動でもない。
狭量にもほどがある。
別段彼女を疑ったわけではない。
彼女は本当に私よりも好きな相手が出来たら、それを私に隠すことが出来ないだろう。
きっとどうしようもないほど泣きながら、私に謝るに違いない。
想像するだけで苦い気持ちになるが、少なくとも器用に誰かを手玉に取ることはできないだろう。
だから彼は、ただの友人なのだろう。
分かっている、そこに疑いはない。
だが。
「……何を考えているんだ、私は」
束縛するつもりなど毛頭なく、彼女は自由に生きてくれればいいと思っている。
庇護をするつもりはあっても、拘束するつもりはない。
明るく私を驚かせる、彼女を大切に思っているからだ。
彼女自身に危険が及ぶようなことでない限り、彼女の自由を尊重したいと常に思っている。
……だが。
「……嫌なものだな」
元よりあまり独占欲や所有欲が強い方ではなかった。
それは恐らく、成長過程では常に周りには近所の幼い子供たちが多くいて、何かを分け与えることに慣れていたからだ。
そう、学生時代、一度付き合っていた女性の浮気で別れたことがあったが、妬いてもくれないとなじられたことを覚えている。
確かにその時の私にあったのは諦念で、その女性と仲睦まじくなった男性に対する恨みでも嫉妬でもなかった。
基本的に何事に対しても淡白な気質であることは自覚していたから、このように焦れる自分というものが上手く馴染まない。
だがそれは、自分がそうであるはずがないという驕りともいえる。
人並みに嫉妬をすること。
その感情を蔑んでいるのと同じことだ。
譲れないほど大切なものが出来れば、それに触れるものに対して反感を覚える。
至極当然なことであったのに。
もう、本など読める気分ではない。
私はしおりを挟んだ本をテーブルに放置して、腕組みをした。
年頃は、おそらく彼女と同じくらいだろう。
だから、学友である可能性が高い。
少しばかり人見知りの気のある彼女があんなにも自然に接することが出来ているのであれば、長い付き合いだと見ていいだろう。
だとすれば、中学時代か、高校時代か。
いずれにせよ、その頃私は就職して既に実家を離れていたし、時折実家に戻って遭遇していた彼女とは、深く話し込むこともなかった。
だから、その頃の彼女の交友関係も、私には分からない。
……勿論、彼が昔の恋人だったとしても。
分かっている、訊ねればすべて解決する。
何度考えても、結論はそこへ廻りくる。
結局のところ、訊ねれば分かることだ。
きっと彼女はきょとんとして、彼の名前といつの友人なのかをあっさりと教えてくれるだろう。
見かけたなら声をかけてくれればよかったのに、と明るく笑って。
そこまで分かっていて訊けないのは、何故なのか。
……それは、欠片でも彼女の好意の行く先を聞きたくないという私の狭量さのためだ。
彼女は何一つ、悪くない。
渦を巻く感情に蓋をするように、私は目を閉じた。
「……ねえ、ハルさん」
「うん?」
広いダブルベッドにもぐりこんで、私はハルさんを見た。
いつもなら真っ先に布団が冷たい!!とハルさんにしがみつくけれど、今日はちょっと我慢。
我慢、というか、していいのか分からない。
ハルさんは優しく笑うけれど、やっぱりちょっと、変な感じがするから。
「変なこと、訊いてもいい?」
「内容によると思うけれど……何だろう」
「ハルさんは、その、私と結婚する前……っていうか、付き合う前、何人くらい、恋人がいた?」
お風呂でゆでだこになりそうなくらい悩んだ後、私はそう訊ねることを決めていた。
知ってやきもちを妬いてハルさんを困らせちゃいけないと思って、今まではちゃんと訊いたことがなかったこと。
でも、訊くなら今のような気がしたから。
「……唐突だね」
「訊いちゃだめ?」
「いや、別に構わないけれど……聞いて楽しいものでもないと思っていたから」
「楽しくはないかもしれないけど、必要なことだと思ったの」
「……?」
必要、っていう言い回しが変だったのか、ハルさんは首を傾げてからそうだね、と空中を見た。
「人数だと、四人、かな。高校生の時に一人と、大学生の時に二人、社会人になってから一人」
「……そっか。一番長くお付き合いしてたのは、どの時の人?」
「長く、か……。大学生の二人目の子かな。就職活動で色々あって、別れたけれど……三年近く付き合っていたのが一番長かったと思うよ」
「他の人はもっと短いの?」
「高校生の時は……二年生の文化祭から三年生の夏までだったかな。大学生の一人目は、入学してすぐから半年くらい……だったと思う。社会人になってからの彼女は……二年に少し足りないくらいだったんじゃないかな」
「社会人になってからの人は、いつ頃?」
「入社して三年目くらいの時から」
私が訊ねることに、ハルさんは特に何の感情も見せないで、何かを諳んじるみたいな口調で答えてくれた。
高校生のハルさんの恋人や大学生のハルさんの恋人は、私はまだ四歳とか五歳とか、それから十歳にも足りないくらい。
社会人のハルさんの恋人なら……私は十四歳くらい、かな。
「……どうしたの?」
ハルさんの手が伸びてきて、そっと髪を撫でてくれる。
いつも優しい、ハルさんの手。
でも、この手に昔撫でられていた人がいるのも、当たり前のこと。
私が子供としてハルさんに頭を撫でられていた時、恋人として触れられていた人がいる。
何て言うのかな、そこを見て見ないふりをしていたから、こんなふうに子供のままなのかもしれない。
……それなら、勇気を出して訊かなくちゃ。
「……ハルさん」
「うん」
「石橋さんは、どの時の恋人?」
「……石橋?」
訊いちゃった。
緊張しながら待っていると、ゆっくりと瞬いたハルさんは、それから何かに気付いたようにぽかりと口を開けた。
それから、思い切り笑い出しそうになるのを我慢しているように、口に手を当てる。
けれど肩が繰り返し揺れていて、あ、これ思いっ切り笑ってる!!
「ハルさん!!何で笑うの!!」
「い、いや、だって……そうか、あの時君があんなふうにぎこちなかったのは、その所為か」
「うっ……」
言い逃れできない。
恥ずかしいけど渋々頷くと、ハルさんは優しく目元を緩めて枕から頭を起こした。
肘をついて頭を支えて、私の顔を覗き込む。
「石橋が彼女だったことはないよ」
「えっ!?」
「そんなに驚くことじゃないと思うんだけれど……石橋は、大学生の時私の友人の恋人だった人だよ。残念ながら、友人は振られてしまったけれど」
「えええ!?」
「また驚く。友人は石橋に心底惚れ込んでいてね、やれああだこうだとよく相談を受けたよ。私と石橋はゼミが同じだったから、割合親しくてね。とはいえ、私は石橋の好みではなかったと思うし、私も石橋をそういう目で見たことはなかったな」
「あんなに綺麗な人なのに……」
「石橋が恋人だったほうがよかった?」
「……それも複雑なんだけどね?」
「何だい、それは」
ああ笑った、と小さく呟いて、ハルさんはばたりと肘を外して後ろに倒れた。
枕に頭を沈めたまましばらく黙っていて、それからもう一度肘をついて体を起こす。
「私からも、訊ねていいかな」
「なあに?」
「……今日の昼間、お茶をしていたという友人について」
「?ツカサのこと?」
突然どうしたんだろう。
首を傾げて訊ねると、ハルさんは眉を曇らせて「ツカサ」と呟いた。
「うん、ツカサ。高校三年間、奇跡的に席が隣り合ってね?悪友……っていうのかな、そういう友達。会うといっつも馬鹿にされるけど、馬鹿にし返すような友達っていうのかな。……あれ、もしかして昼間、ハルさんあの喫茶店の辺りにいたの?」
「うん、図書館からの帰り道にね」
「何だ、声をかけてくれたらよかったのに。そうしたら自慢したのになあ」
「自慢って?」
「だって、ツカサって会う度にお前の夫が出来るなんて世界一の善人かお人好しか物好きだ、って笑うんだもん。どうだ!!って見せてやりたかったのになあ」
結婚式の時、ツカサは仕事が物凄く忙しくて出張に出ていたから、結婚式には招待できなかったし、それ以来強いて引き合わせる機会もなかったから。
チャンスだったのか、残念だなあ。
そんなことを考えていたら、ハルさんはしばらく考え込むように黙り込んで、それから今度はばたり、と内側に倒れてベッドに突っ伏してしまった。
「わあ!?ハルさん!?何、どうしたの!?」
ハルさんがこういうふうにするのは珍しい。
大体は私が頭を抱えてしゃがみこんだり、枕に顔を埋めてばたばたしたり、毛布をかぶって動かなくなったりしていたから。
そういう時ってすごくばつが悪いから、できればそっとしておいてほしいと思う……ってあれ?
何でハルさんがばつが悪そうなの?
「ハルさーん?」
「……」
もご、と何か鈍い声が聞こえる。
沈み込んでしまったハルさんは耳しか見えなくて、何を言っているのか分からない。
「ハルさん、何言ってるか聞こえないよー」
ゆさゆさと揺らしてみたけれど、ハルさんは顔を上げてくれない。
でも、何か、あれ?
「……ハルさん」
つん、とつついた耳が赤くて熱い。
思わず指先でつまんでしまったら、ハルさんはまたもごり、と何か言ったみたいだった。
でも、やっぱり聞こえない。
「ハルさん、耳が真っ赤だよ?」
「……自覚しているから、指摘しないでくれないかな」
少し顔を上げたのか、少しくぐもってはいるけれど聞き取れる声でハルさんが呻く。
だって、何でそんな恥ずかしそうなのか分からない。
自慢したかったって言ったのが恥ずかしかったのかな。
でも、私は割とよくそういうことを言ってハルさんを苦笑させたりするし、今更だと思うんだけど。
「……白状するから、笑わないでくれる?」
「うん」
何だか、ハルさんの口調が子供っぽい。
とにかく頷くと、ハルさんは顔を上げて深呼吸するみたいに肩を大きく弾ませた。
それから、ベッドの上で体を起こして正座する。
何となくつられて目の前で正座をしたら、もう一つ息を吸ったハルさんはぺこり、と頭を下げた。
「嫉妬しました、すみません」
「……へ?」
しっとって、何?
一瞬本当に分からなくてぽかんとした私は、しっと、が嫉妬という日本語の単語であることを思い出した。
嫉妬。やきもちを妬くこと。
……へ?
「ハルさんが?」
「そう」
「何に?」
「ツカサ君に」
「へ!?」
何でツカサに!?
私があまりにも驚いていたからか、ハルさんは言い訳をするみたいに視線を逸らして小さな声で言った。
「君の、男友達だから」
「え?あ、いや、うん、確かにツカサは……男の子、だっけ……」
冗談でも言い訳でもなく、私の中でツカサはツカサという生き物であって、男の子だとして見ていなかったから、全く思い至らなかった。
「別に何を疑っていたわけではないんだよ。単に、君と親しい男性がいるということを、普段考えたこともなかったから。君に気の置けない様子で触れていたツカサ君に、少し……ね」
「触れ……あ、鼻をつままれた?結構痛かったんだけど」
しかもあのとき、不細工とか言われた。
おのれツカサめ、次に会ったら蹴ってやる。
思わず変な方向に決意を固めていた私は、それから少しして話の主体はそこではなかったことを思い出した。
……そうじゃなくて。
「ツカサの五十六倍くらい、ハルさんの方が素敵だと思うんだけど」
「何かな、その倍率は」
「気分的かつ主観的な倍率です。なお、日々倍率は大きくなっていきます」
「……それは光栄です」
「どうしてそんなにばつが悪かったの?」
「どうしてって……」
困ったように笑って、それからハルさんはため息をついた。
「色々だよ。君よりずっと年上なのに、子供のように嫉妬をしたことも。それに、何でもないと信じていたくせに、ただ男友達?なんて簡単なことを訊けずにいたことも、君が言い出してくれるまで、石橋のことをそんなふうに見ていたとは気付かなかったことも。色々ばつが悪くて、参った」
「最後のは私が勝手に」
「そう思わせないのも、大人の甲斐性だと思うよ」
「……ハルさんの定義の大人って、難しいよ……」
「それは、君がもう十と三年、大人になってから目指せばいいだけだから。……ツカサ君に何か話している君はふさぎ込んでいるように見えたけれど、あれはもしかして」
「あ、うん。石橋さんのこと。ツカサには訊けばいいじゃんって一刀両断されて、実際そうだったんだけど」
それについてはツカサ、ありがとう。
さっきの蹴りは取り消すかもしれない。
もしかしたらだけど。
……ああでも、安心した。
石橋さんのことも、ハルさんがちょっとおかしかった理由も分かったから。
いつも通りにぼすんと抱き付いたら、ハルさんもいつも通りに受け止めてくれる。
安心したら、何か、すごく眠い。
あんなふうに考え込むの、あんまり得意じゃないもの。
「ハルさーん、眠くなった……」
「はいはい、おやすみ」
「うん……あ、でも……」
「うん?」
「……すきー」
これは言っておかないと思ったから口にはしたけど、頭はもう半分眠っていて、何だかよく分からない。
ちゃんと言えたかもよく分からなかったけれど、もともと寝つきがすごくいい私は、夢の国からおいでおいでをされてしまえば逆らえなくて、そのまますとんと眠りに落ちてしまった。
「……言い逃げだし、そんなにしがみつかれていたらライトも消せないよ、奥さん」
思い切り胸に貼り付いてすやすやともうしっかり寝息を立てている彼女には聞こえないと分かっていたけれど、私はそれでも声を小さくして呟いた。
ライトのスイッチは入り口近くの壁にあるし、遠隔操作用のリモコンも彼女の向こうのサイドテーブルにある。
いつもは彼女がライトを消す役目を担っているのだけれど、まあ、おそらく疲れてしまったのだろう。
彼女は全てにおいて自信が少ない方ではないのだけれど、何故か彼女自身の価値……というか、私の妻としての評価を自分で下そうとするとき、ひどくその採点をからくしているところがあるから。
確かに、女性として魅力的なのだろう石橋に動揺すれば、疲れてしまうのも無理はない。
もどかしい時もあるが、彼女は歳の差をひどく気にしているから、一朝一夕で解決できる問題ではないことも分かっている。
まさかそんなことを考えているだなんて思いもよらず、可哀想なことをしてしまった。
「……何が足りないのだろうね」
出来うる限り、大切にしているつもりだ。
私はおそらく、彼女自身が思うよりも彼女のことを愛している。
けれど、時折気付かされてもどかしく思うのは、彼女にとっては自分が私を好いて無理を通したと思い込んでいるところがあるということだ。
子供の我儘で押し切ったと思い込んでいる、といえばいいのか。
おそらく、彼女自身はそれを認識してはいないと思う。
無意識のうちの認識であり、例えば指摘したとしたらとても驚くだろう。
……確かに、私と彼女が恋人同士になったのは、彼女の行動力における結果であった点が多いことは否定しない。
交際を申し込んできたのは彼女の方だったし、大人になってから何くれとなく誘いをかけてくれ、私に彼女が昔の小さな幼馴染ではなく、一人の女性であることを認識させたのも彼女だ。
彼女のその行動力がなければ、私はいつまでも彼女を小さな女の子……可愛い妹としてしか認識しなかっただろう。
けれど彼女は忘れている。
プロポーズをしたのは、私の方だったということを。
それも、交際からそう長い期間を経たわけでもない間に。
「……ゆっくりと、伝えていくから」
「……」
「私が君を、どれほど愛しているか」
好きだと簡単に言えるほど、もう若くはないけれど。
君に抱いている好意の大きさは、私自身が戸惑うほど。
ただの男友達に、嫉妬をするくらいなのだと分かって欲しい。
「……愛しているよ、奥さん」
ライトなど、どうでもいい。
明日、きっと大慌てで君は謝るだろうから、私は笑ってそれを許そう。
そしてまた、君との明日を楽しみに、私も静かに目を閉じた。
(お互いの過去全てを知らなくても)
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