第4話 コーヒーとミルクで世界は回る~おやすみ、まどろみのきみ~

【side:coffee】



ふ、と意識が浮上する。

水面に引き上げられるような穏やかな目覚めは不快ではなくて、けれど開いた目に映る部屋の中はまだ薄暗く、私は首を振って目を凝らし、時計を読んだ。

緑色にぼんやりと光る数字は二時を少し回ったところで、丑三つ時、という些か物騒な言葉が脳裏を巡る。

喉が少し渇いているような気はしたけれど、身動ぎさえ憚られて、私はそのままかふりと欠伸を噛み殺した。

私の躊躇の理由であるところの私の奥さんは、私のシャツの胸元を握って眠っている。

また首を痛くすると言っているのに、枕を避けてぺったりと頬をシーツにつけ、その額は私の喉と胸の間辺りに置かれていた。


強いて寝起きが悪いということもない彼女だけれど、おかしな時間に目を覚まさせては可哀想だろう。

私が床を離れてキッチンで水を飲めば、きっと彼女は目を覚ましてしまうから。


すやすやと漏れる穏やかな寝息が喉元にくすぐったい。

極論、喉は人体急所であり、そこに何かが常時触れているのは些か落ち着かないものだが、彼女の頭がそこにあるのにはもう慣れたものだ。

例えば彼女が寝ぼけて頭突きでもしようものなら息が止まるに違いないが、それを恐れる気持ちはなかった。

ああ、でも確か、一度彼女が寝ぼけて振り上げた頭が私の顎に当たって、お互いしばらく言葉もなく痛みに耐えていたことがあった。

可哀想なくらい狼狽して謝り倒し、舌を噛まなかったか、口を切らなかったかとおろおろしていた彼女を思い出し、思わずふと笑ってしまう。


……私のような男が、妻を腕に抱いて夜ごと眠っていると知ったら、学生時代の友人はどんな顔をするだろうか。

おそらく悪い冗談でも聞いたような顔をして、疑わしげに私を見るだろう。


同じベッドに入り、彼女が腕に滑り込んでくるあの瞬間の穏やかな幸福を、私がどれほど大切にしているか……おそらくどれ程言葉を尽くしたとて、語り尽くせないだろうから。


穏やかな寝息、安穏とした夢に憩う顔、私の胸元を握る小さな手。

それが、どれ程に私にとって尊いか。

きっと、彼女自身ですら、それを知らない。


少し首を傾けて、唇で彼女の頭に触れる。

些か気障ったらしい気もして気恥ずかしくもあったけれど、彼女の背を抱く腕が、言い訳になる。


「……いい夢を見ているのかな、奥さん」


答えるように、ふふ、と吐息が笑う。

そうだといい。

彼女の見る夢が、いつも穏やかで優しく、幸せなものであるように。


「……おやすみ、奥さん」


目覚めの時間はまだ遠い。

彼女の夢路に添えるかは分からないけれど、温かな体温にゆっくりと眠気を誘われ、私は静かに目を閉じた。




(安らぎのゆりかご)




【side:milk】




洗濯物を取り込んで、よいしょ、とベランダから部屋の中へ。

お日様の匂いがぽかぽかと染み込んだタオルやシーツはふかふかで、私は満足の息を吐き出した。

これなら、今日のお風呂上がりはふかふかタオルが気持ちいい。

早速ふわっとたたんじゃおう、とリビングに入った私は、あれ、と首を傾げた。

ソファーの肘掛けに頬杖をついて、ハルさんが目を閉じている。

読みかけだった本は膝の上で柔らかな春の風を受けてひらひらとページを揺らしていて、ハルさんの手からは離れていた。

時折こくりと小さく揺れる頭は俯いていて、あれ、これって。

ハルさん、寝ちゃった?


「……」


そうっと足音を忍ばせて、洗濯物を床に広げる。

軋ませないように細心の注意を払ってそこに座って、私は洗濯物の山の一番上にあったシャツを手にとって、それからまじまじとハルさんを見つめた。


ハルさんのうたたねって、ちょっと珍しい。

最近ちょっとお仕事が忙しかったみたいだから、疲れちゃったのかなあ。


うーん、空気はふわふわ温かいし、まだお昼をちょっと過ぎたくらいだから、風邪はひかないと思うけど、首を痛くしないかな。

あ、でも、ハルさんはきっと一度起こしちゃったら、そのままお昼寝はしないだろうなあ。

それは、ちょっと困る。


声に出さずにうんうん悩んで、それから私は起こさない方を選んだ。

ハルさんの為が六割と、私の為が四割くらい。

休んでほしいなって思ったのは本当だけど、うとうとしているハルさんが何だか可愛かったから、もう少し見ていたくなった、っていうのも本当。

きっとそれを正直にハルさんに言ったら、困った顔をして「こんなおじさんを捕まえて、可愛いなんて言わないんだよ」って言うだろうけれど。


何となく、じっとハルさんを見つめてみる。

それは勿論、昔から見慣れた「ハル兄」よりもずっと年齢を重ねたハルさんだから、二十代に見える、なんて言ったら嘘になる。

でも私はハルさんをおじさんになったなと思ったことはないし、それは多分。


「……う」


自分の中では当然のことで、ひとつも恥ずかしくないんだけど。

言葉にしようとすると恥ずかしくなるのは何でだろう。


私はほんとにほんとにハルさんが大好きで、付き合ってからも、結婚してからも、毎日毎日ハルさんのことを考えていて。

だからつまり、毎日ハルさんに恋をしっぱなしなんだって言ったら、多分やっぱり困らせるんだろうなあ。


静かで穏やかな、ハルさんの寝顔を見ていたら、ぎゅうっと胸が締め付けられるようになる。

痛いんじゃなくて、苦しいんでもなくて。

言葉にするなら、幸せすぎる、んだろう。


ああ、何か、今、すごくハルさんをぎゅってしたい。

でも、そうしたら起こしてしまうから。

今は、我慢するけれど。


ねえ、ハルさん。

ハルさんの目が覚めたら、ぎゅってしても、いいですか?





(いとおしいひと)

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