第2話 コーヒーとミルクで世界は回る ~side milk~

ダイニングテーブルに肘をついて足をぶらぶらさせながら、私は旦那様を見つめる。

リビングのソファーに座って新聞を読んでいる私の旦那様は、私より十と三、年上だ。

ちなみにこの言い方は旦那様……ハルさんがする言い方で、その数え方が私はこっそりと気に入っていたりする。

私はコーヒーが苦手で飲めないから、上手に淹れられているか分からないのだけれど、ハルさんは私の淹れたコーヒーを美味しいと笑ってくれる。

今もハルさんの前には藍色のマグカップが置いてあって、そこには黒々としたミルクも砂糖も入れていないコーヒーが入っていた。


ハルさんは、頭がよさそうで格好いい。

それに私よりずっと大人だから、落ち着いていて紳士だ。

私達は幼馴染で、小さい時からハルさんのことは知っているつもりなんだけど、でも中学生くらいのハルさんのことは流石に覚えていないし、高校生のハルさんも部分的にしか覚えていない。

大学生のハルさんはと言えば、大分覚えているけれど、大学生の時にはもう今と同じくらい……は言い過ぎかもしれないけれど、それでもあんまり違和感がないくらいには落ち着いていた。


反抗期くらいのハルさんとか、やんちゃなことをしていたハルさんとか、そういうハルさんを私は知らない。

だから私の知っているハルさんはいつだって、落ち着いていて優しい。


ハルさんが読んでいる本や新聞は難しそうで、でも私はそうやって何かを読んだり勉強をしていたりするハルさんを眺めているのが好きだった。


「……奥さん」

「なぁに、ハルさん?」

「そんなに見つめられると、穴が空いてしまうよ」

「!!」


ハルさんが私を奥さん、と呼ぶときは、ちょっとからかう時だ。

見つめていたの、バレちゃってたんだ。

ちょっとばつが悪い思いで肩を竦めると、優しく笑ってハルさんは「こっちにおいで」とソファーの隣を叩いた。

……いいのかな。


「いいの?ハルさんの邪魔にならない?」

「変なことを訊くね。新聞を読んでいるだけなのに、邪魔になんて思わないよ」

「……えへへ」


嬉しいなあ。

勢いよく立ち上がって、前に置いていた自分のマグカップを掴んでハルさんに近付く。

ハルさんの隣に座ってマグカップをテーブルに置いたら、ハルさんは新聞から片手を離してよしよし、と頭を撫でてくれた。

子供扱いされているなあと思う人もいるのかもしれないけれど、私はハルさんに頭を撫でられるのがとても好きだ。


「ハルさんハルさん」

「うん?」

「この間読んでいた本は読み終わったの?」

「ああ、あれか。うん、終わったよ」

「犯人はハルさんが思っていた人だった?」

「こら、自分で読んでみるって言っていなかった?」

「う……だって犯人が分かっていた方が安心して読めない?」

「その楽しみ方もあるかもしれないけれど、あれはその読み方は勧めないなあ」

「はーい……」


私の好きな女優さんが出る予定の映画は原作が小説のもので、映画を見たいと言ったら、それなら前作になる原作の方も読んでみようか、とハルさんが買ってきてくれたもので。

ハルさんはあっという間にすらすらと読んでしまって、それどころか途中で犯人が分かった気がする、とまで言っていた。


「ねえ、じゃあ小説を読んで、あの女優さんはイメージだった?」

「ああ、そうだね。結構ミステリアスな女性みたいだから、映画の方では何かまた新しいことが分かるのかな」

「え、じゃあ前作だと正体不明の感じなの?」

「さあ、それは読んでみてのお楽しみ」


上手くかわされちゃった。

ああそうか、と呟いたハルさんは、リビングに置いてある小さな本棚に近付いてその本を抜き出した。

私に差し出してにっこりと笑う。


「君はそこでこれを読んだらいいよ」

「そんなにすらすら読めないよ?」

「少しずつでいいんじゃないかな。別に一気に読む必要もないわけだし」


そうかな。

受け取った本は、そう分厚いというわけではなかったけれど、探偵小説って結構難しいから、ちょっとだけ身構えてしまう。

でも、ハルさんはもともと私の為に買ってきてくれたわけだし。


「……がんばってみる」

「うん、頑張れ」


本を受け取って、ハルさんに凭れる。

笑いながら肩を貸してくれたハルさんの隣で、私は本を開いた。






「ああ、しまった」


それからどれくらい経ったのか、不意にハルさんが上げた声に私は現実に引き戻された。

思っていたよりものめり込んでしまっていたみたいで、本から目を離したらちょっと目がちかちかする。


「ハルさん?」

「うん。ああ、大分読めたね」

「ええと……三分の一くらい?」

「研究所のところくらいかな?」

「うん、綾緒さんと文季君が研究所の所長に会ったところ」


そうか、とハルさんが優しく笑ってまた私の頭をぽんぽんと撫でる。

本にしおりを挟んで、私はハルさんを見上げた。


「ところで、何がしまったなの、ハルさん」

「いや、うん。もう二時近いと思って」

「え!!わあ、大変、ごめんねハルさん、お腹空いたよね」

「いや、私も忘れていたから」

「今から何かすぐに作るから。ええと、パスタかチャーハンか……オムライスもあるかな」

「外に食べに行ってもいいけど」

「駄目だよー、メイクしてないもん、準備してる間にハルさんもっとお腹空いちゃう」

「子供じゃないんだから大丈夫だよ」


本はちょっとお預け、慌てて跳ね上がってキッチンに向かう。

慌てて転ばないように、と笑いながら、ハルさんは新聞を畳んだ。

失敗したな、つい夢中になっちゃった。

ちらっと肩越しに振り向いたら、ハルさんも立ち上がって軽く肩を回していた。

もしかして。


「ごめんね、ハルさん」

「うん?お昼なら大丈夫だよ」

「ううん、そうじゃなくて、私が凭れていたから肩が凝っちゃったでしょう?」

「ああ、何だ、そういうこと。大丈夫だよ、それくらい。肩こりは慢性的なものだからね」

「じゃあ後で肩たたきします」

「はは、よろしく」


まずはご飯ご飯。

チャーハンにしちゃおう。

気合を入れて袖をまくり、私は冷蔵庫を開けた。






「お風呂空いたよ。先、ありがとう」

「はーい。あ、新しいシャンプーどうだった?」

「私にはあまり効果は分からないけれど、良い香りだったね」

「ほんと?楽しみ」

「ああ、ボディソープの方も切れそうだったから、持って入るのを忘れないようにね」

「はーい」


ほかほかの湯気を立ててバスルームから出てきたハルさんからは、確かに良い匂い。

おろしたてのシャンプーの香りは好みの感じで、ちょっとわくわくする。

ソファーに座ったハルさんは肩にバスタオルをかけていたけれど、髪からは水がまだ落ちていた。


「ハルさーん、髪濡れてるよー」

「うん?ああ、そうか、大丈夫、ソファーは濡らさないようにするよ」

「ソファーはいいけど、ハルさんが風邪ひいちゃうってば」

「大丈夫だよ、部屋は暖かいし」

「ハルさーん」


ハルさんはしっかり者で大人なんだけど、時々ちょっと不精になる。

そういうところを見るとちょっと嬉しくなっちゃうのは、やっぱり大人なハルさんにちょっとだけ引け目を感じているからなんだろうなあ。

駄目だって、分かってるんだけど。


「ハルさんハルさん、タオル貸して」

「うん?湿っているから、ちゃんと新しいタオルを使った方がいいよ」

「違うよー。ハルさんの髪拭くから、貸して?」

「え?私の?」


きょとん、とした後、ハルさんは可笑しそうに笑って首にかけていたタオルを私に差し出した。

わしわし、と頭をタオルでくるんで拭きながら、私は唇を尖らせる。


「もう、ハルさんってば、こんなに水含んでるのに」

「短いから、すぐに乾くよ」

「風邪ひいてからじゃ大変なんだからね」

「はいはい」

「真面目に聞いてったら」

「聞いているよ」


涼しく答えるハルさんは、本当に真面目に聞いているのかちょっと疑わしい。

そもそも、時々不精になるのは、何でなんだろう。


「ハルさんは何でも一人でずばっと出来ちゃうのに、時々自分のこと適当にするんだもの。私が髪を乾かさないと風邪ひくよって怒るのに、自分はびしょびしょだよ?」

「うーん」

「聞いてる?」

「聞いているけれど……そこは察して欲しいかなあ」

「何が?」

「私の不精ってどんなこと?」


どんなこと、って。

訊かれて私はハルさんの髪を拭く手は止めないまま、ええと、と空中を見つめてひとつひとつ思い返した。


「髪を乾かさないで出てくることがあるでしょ?」

「うん」

「それから、時々ネクタイが曲がってる」

「そうだね」

「あ、それにソファーで寝ちゃ駄目って言っているのに、ソファーで寝るし」

「うん」

「それから……それくらい?」


あれ。

実際に口にしてみたら、少ない。

髪とネクタイは時々あるけど、それにしたってひと月に二回か三回で、私がやっちゃううっかりとか失敗の方がずっと多いような。


うう、これじゃハルさんに不精とか、言えない……。


ひっそりと凹んでいたら、くすりと笑ってハルさんは優しい声で言った。


「そういうとき、君はどうしてくれている?」

「え?」

「私が髪を乾かさなかったり、ネクタイを曲げていたり、ソファーで寝ていたら」

「えっと……髪ならこうやって乾かすし、ネクタイなら直すし、ソファーで寝ていたら起こしてベッドまで連れて行く、よ?」


別に可笑しなことはしていないと思う。

けど、何となく、自信がなくなってきたような。


ひゅるひゅると語尾が縮んでしまったら、ハルさんはまた笑った。


「……分からない?」

「何が……?」

「それ、私が甘えているって」

「……へ?」


思わず止めてしまった手から、タオルが滑り落ちる。

くすくすと本当に可笑しそうに笑いながら、ハルさんは肩を竦めた。


「やっぱり気付いていなかったんだね」

「ははははハルさん!?またからかってる!?」

「こういうふうに君をからかったことはないつもりだよ」

「う、そうだけど、そうだけど!!」


ハルさんが甘えている?

わざと髪がびしょびしょのまま出てきて?ネクタイを曲げて?ソファーで寝て?

そうやって?


「……!!」

「はは、こら、奥さん、そんなところでしゃがみこまない」

「うううううう~……!!」

「……前にも言っただろう?君と私は十と三、離れている。君が言うように、私は君より大人なんだろう。だから、君に甘える方法も分からないし、やはり気恥ずかしいことも多いんだよ」

「……うん」

「けれど、ある時たまたま本当にうっかりネクタイを曲げてしまった時、君が笑いながら直してくれただろう?髪を乾かしてくれたことも。……だから、私にとって、それは君に出来る甘え方だったんだよ」

「……ハルさん、私に甘えたいって思ってくれるの?」


何だろう、すごくドキドキする。

声が、情けなく震えてしまうくらい。

少し黙って……それからハルさんはゆっくりと頷いた。


「思っているよ」


ふわ、とハルさんが笑う。

でもそれはいつもの笑い方じゃなくて、何だかばつが悪そうな、はにかむみたいな笑い方。

どうしよう、どうしよう、どうしよう。

初めてかもしれないくらい強く強く、ハルさんを可愛いって思った。


「……ハルさん」

「うん?」


駄目、もう我慢できない。


「ハルさんっ!!」

「うわっ!?」


慌てたように、ハルさんが前につんのめる。

ソファー越しに背中から抱き付いちゃったから、勢いが付きすぎたのかもしれないけれど。


「私、もっともっと大人になりたい……!!」

「どうして今の流れでそうなるのかな」

「だって、もっとたくさんハルさんに甘えてほしいもの」

「……おじさんに随分とハードルの高いことを言うね。もう数年もしたら、私は四十になるんだよ」

「四十でも五十でも六十でも、ハルさんには甘えてほしいから」

「……女性の母性というのは、随分広いね」


くすくすと笑ってハルさんが言う。

その表情はやっぱり大人の余裕で、私はすうっと息を吸った。

大人に、なりたいなら。


「母性じゃないよ」

「うん?」

「ただの愛情です」


ハルさんを背中から抱きしめたまま、私はぎゅうっとさらに腕に力を込めた。





(このひとを誰より大切にしたいから)

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