コーヒーとミルクで世界は回る
雪姫
第1話 コーヒーとミルクで世界は回る
彼女は、随分と年下であることを気にしている。
この随分と、は気にしている、ではなく、年下、にかかるわけで、彼女は私より、十と三ばかり年下だった。
「そう、気にすることもないと思うけれどね」
ブラックコーヒーが飲めずにしょんぼりとしてしまった小さな肩に、私は慰めるようにそう声をかける。
実際のところは笑い出してしまいそうだったのだけれど、何とか堪えての声は幸いなことに震えずに済んでいた。
一口飲んで涙目になってしまったブレンドに、のろのろとした動作でミルクを二つ、それからスティックシュガーを二本と半分入れてかき混ぜながら、彼女は白く染まったカップの中を覗き込む。
それだけ甘くしないとコーヒーを飲めない子が、ブラックに挑めば当然撃沈するだろう。
……ああ、いけない。
子、などといったら、余計に彼女は歳の差を気にして落ち込んでしまうだろう。
味覚など変わるもので、ブラックコーヒーの飲めない大人など別に珍しくもない。
そもそも普段ミルクティーを好んでいる彼女ならばなおさらのこと、慣れない苦味が美味しく感じられなかったとしても、それは子供だからではない。
単に好みの違いだと何度か言い聞かせたのだけれど、彼女にとってはやはりブラックコーヒーが大人か否かの一つのハードルであるらしい。
「ハルさんは飲めるのに……」
「私は高校生くらいからブラックで飲んでいるから。慣れもあるって、言っただろう?」
「……ハルさんは高校生から大人だったんだ」
「それはまた乱暴な」
今度こそ笑ってしまう。
私がブラックコーヒーを飲み出したのは高校生の時で、煙草よりは幾分健康的かもしれないが格好つけでしかない。
飲み続けているうちに好みにはなったけれど、高校生の時から味覚が大人だったからコーヒーを好んでいたわけではないのだけれど。
「ハルさんが高校生の時かぁ……」
「そうだね、だからええと……ああ、君が三歳のときかな」
そう考えると、何とも言えない気持ちになる。
高校生の時の私自身に、君は将来、今三歳の女の子と結婚することになると言ったら、さぞや驚いて全力で否定することだろう。
もっと正確に言うなら、「斜向かいに住んでいる幼馴染の三歳の女の子」、だ。
ハル兄、ハル兄、と小さい頃から慕ってくれていたことは知っていたけれど、それが奥さんになるだなんて知ったら、卒倒するかもしれない。
「十六歳から!!それくらいの年の男の子って、炭酸ジュースの方が好きだよね?」
「そうかな。ああ、そうだったかもしれない。私はあまり飲まなかったけれど」
「やっぱり大人」
「また君はそういう……」
ふらふらとダイニングテーブルの下で足を揺らしながらため息をつく彼女に、私は苦笑してしまう。
……私と彼女は比較的近所付き合いの盛んな地域に住んでいたから、近所に住んでいる子供たちは総じて幼馴染であり、年も性別も関係なく仲が良かった。
とはいえ私は随分と年も離れていたし、彼女の年代の子供たちが公園で遊び出すような年齢になった時には既に高校生になっていたから、そう子供たちと遊んでいたわけではない。
けれど、彼女の母親と私の母親はパッチワークの趣味が同じということもあって、仲が良かったことと、私の家でその趣味をする際には彼女も当然連れてこられていて、成り行き上私が相手をする機会も多かった。
幸い難しい年頃の中学生は既に通り過ぎていて、高校生にもなれば母親の言動や行動にいちいち突っかかることもない。
私はごめんなさいね、の一言で預けられる十以上も年下の子供を相手に、よく絵本を読んだり塗り絵に付き合ったりしていた。
彼女は聡い子で、私をおままごとだのお人形遊びにだのは付き合わせたりはしなかったから、まだ相手をしやすかった、というのもあるかもしれない。
ほどほどに遊べば体力のない子供のこと、昼寝に移ることも多かったものだ。
そんなことを何となく思い出していると、ふくり、と頬を膨らませた彼女はマグカップを掴んでいる私の手を指でつついた。
「ハルさん、ずるい。何を笑ってるの?」
「え、笑っているかな」
「笑ってた。何か思い出していたんでしょう」
「うーん……そうだね、思い出していた、かな」
正直に答えれば、何?と彼女は身を乗り出す。
ちゃぷん、と手元で跳ねたコーヒーを危ないよ、と外させて、私はどう話そうかと首を傾げた。
彼女は自分が子供の頃の話をされることを好まない。
それは、子供時代の記憶を嫌っているのではなく、私が彼女の幼い頃の話をすること自体に歳の差を思い知るからなのだという。
けれど思い出していたのはまごうことなく子供時代の話なのだから、どうしたものかと考える。
「一応、私が高校生の時の話。三歳の君のことだね」
とはいえ、誤魔化したところで妙に鋭い彼女はたちまちのうちに気付いてしまうに決まっていたから、私は正直にそう答えた。
きょとん、とした彼女は、いつもならばこのタイミングで膨れて思い出さなくていいのに、と抗議をしてくるけれど、今日は気分が違ったらしい。
興味津々、といった表情で、彼女は私を見上げた。
「どんなこと?私も覚えているかな」
「うーん、どうだろう。別に大したことじゃないんだ。君と一緒に塗り絵をしたことだとか、絵本を読んだことだとか、何だったかな、くまのキャラクターが出ているアニメを見たことだとか……ああ」
言いながらもう一つ思い出す。
思わずふ、と笑いながら、私は自分のカップを揺らした。
「私が飲んでいたコーヒーを飲んでしまって、苦い、って大泣きしたことだとか」
「待って、ハルさん」
「うん?」
「私、それなんだか覚えている気がする。ええと……確か、私のピンクのプラスチックのカップと、ハルさんの水色のマグカップが並んでて、私のカップにはオレンジジュースが入ってて……ハルさんのカップにはコーヒーが入ってて」
「……うん」
「それで、ハルさんが美味しそうに飲むから、ちょっとだけ羨ましくなって、ハルさんがお母さんに呼ばれて立ったときに、こっそりちょっとだけ飲んだら、すごく苦くて、びっくりして泣いちゃった、ような」
「……よく覚えていたね」
そう。
びっくりして手を離してしまったためにこぼれたコーヒーで膝を濡らしながら泣き出した彼女に驚いて戻った私に、彼女はのんじゃだめ、と泣きながら言ったのだった。
後で彼女の母親から聞いたところによると、苦いものは毒だと何かで読んだか聞いたかしたらしい彼女は、自分が飲んだことよりも私が飲み続けていることを心配したらしい。
子供の突飛な連想に驚くとともに、優しい子だなと感心したことを覚えている。
「もしかして、私がコーヒー苦手なのってそれもあるのかなあ」
「うーん……まあ、原初の記憶って影響力が強いから、そうかもしれないね」
軽く頷いて、私は一口コーヒーをすする。
ミルクも砂糖も入れていないコーヒーは当然ながら黒く濃く、苦い。
私にとっては好きなものだけれど、飲まなくてはいけないものではない。
つくづく無理に好む必要はないと思うのだけれど、どうして彼女はこんなものに意地になるのだろう。
「……何となくね」
「うん?」
「それが飲めたら、ハルさんに近くなれる気がしてたの」
「……え?」
「ハルさんは私よりずっとずっと大人だから、昔からどれだけ一生懸命大人になっても、いつもおいて行かれちゃう。だけど、苦手なコーヒーが飲めたら、少しだけ近付ける気がしてたの。同じもの、美味しいねって言えたら、って」
「……」
「それも子供っぽいって分かってはいるんだけど……上手くいかないなあ。ごめんね、ハルさん」
今の話の何処に、私に謝らなくてはならない要素があるのだろう。
どうしようもないほど健気な言葉を聞かされた、そんな私が。
「……君がコーヒーを飲めなくても」
「ハルさん?」
「私がホットケーキを食べられるよ。オムライスも、ココアも」
「……うん……?」
「だから、同じものを美味しいということはできるよ。別に、コーヒーに拘らなくていい。それにね」
彼女は、随分と年下であることを気にしている。
けれど、どうして気付かないのだろう。
それは、逆説的に私だって同じだということに。
「私だって、君よりも十以上年上なことを、それなりに気にしているんだよ」
「ハルさんが?」
「君の世代で流行るものには詳しくない、子供の頃に好きだったキャラクターだって世代が違う。君と出掛けて、君の友達に会ったとき、君が恥ずかしい思いをしないかどうか、気にしている」
「そんな、ハルさんはだって」
「いいから聞いてくれないか。歳の差なんてね、もうどうだっていいんだよ。それが大変だったのは、君のお父さんに君をくださいと言いに行くときくらいだ」
あれは流石にひどく気まずかった。
近所に住んでいる分、彼女の両親は私の子供の頃も知っている。
娘より十以上年上の男が、娘さんをくださいと言いに来た時の彼女の父親の気持ちを思うと、それだけで私の胃も軋みそうだ。
「君がまだ二十代の間に、私は四十代になってしまう。もしかしたら老眼が始まるかもしれないし、腰痛や肩こりで姿勢が悪くなるかもしれない。高血圧でメタボリックになるかもしれないし、もしかしたら加齢臭だって始まってしまうかもしれないよ」
「ハルさんが?」
「そう、私が。君にとっては、十三年上は君が子供になってしまうようだけれど、君はもう子供にはならない。私がおじさんになっていくことはあってもね」
彼女はもう大人になって、これからまた大人びて綺麗になっていくだろう。
子供に変わるとしたら、それは還暦を迎えた先のこと。
コーヒーくらいで、幼くはならない。
「そのとき、君はどうする?」
「ハルさんがおじさんになったら?」
「そう」
「別に、大丈夫。老眼鏡を買ってあげるし、肩も叩いてあげる。薬ならちゃんと朝昼晩飲んだ?って訊いてあげるし、しっかり洗濯も頑張るよ。ハルさんなら、いい」
「じゃあそれをひっくり返して。コーヒーが飲めなくても、わさびが苦手でも、ニンジンもピーマンも嫌いでも、私も君なら構わない。そうだろう?」
白く染まったカフェオレであろうと、コーヒーであろうと、一家に普通にあるものだ。
全く別のものではない、別のものを飲むことなど、何の問題もない。
「……うん」
「第一、そんな若い奥さんをもらって、詐欺だ、羨ましい、なんて叩かれたのは私の方なんだから、君は胸を張っていて」
「あはは、何、それ?」
可笑しそうに足をばたつかせた彼女に笑い返して、私は目を細める。
それでも君は、またきっと何かで年下であることを気にし出すんだろう。
それは、私が口にしないだけで年上であることを気にしているのと同様に。
「……そのときはまた、話せばいいだけか」
「なに、ハルさん」
「何でもないよ」
おかわりをもらえるかな、と残りが少なくなったマグカップを掲げて見せれば、極上の笑顔で彼女は立ち上がる。
「いーっぱい、毒を入れてあげる」
「それは楽しみだ」
「すごくよく効くんだよ」
「へえ?どんなふうに?」
「うーんとね……」
悪戯っぽく笑って、彼女は小さなウィンクを見せた。
「あっという間に、落ちちゃうの」
「……!!」
到底私では敵わない微笑みでキッチンへ消えた彼女に、私は思わず掌で口元を覆って肩を竦めるしかなかったのだった。
(恋の始まりは、その時だって?)
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