第二話 長いお別れ(不定期連載中)
シーン1 鏡の国の娘
彼が居間のソファーに座ってTVを見ている時。近づいて行くと膝の上に乗せられた。私はそれが居心地よかった。だから帰ってきてスーツを着替える時から傍にいて、ソファーに座るまで後をついていった。
部屋の床に座っている彼の背中をよく登った。さしずめ大きな山のようだ。私を何度も抱いた手で、頬に触れたり、頭を優しくなでたりした。
記憶を遡ることが可能ならば、きっと彼に抱かれて湯船につかった事を覚えているはずだ。私はその目をいつも見上げた。同じ目線になるのは抱かれた時だけだ。その朝も家を出る彼を玄関で見上げた。絡む視線に少し照れたのを思い出す。私は母の影に隠れて、そっと見送った。
◇ ◇ ◇
始業式を済ませた足でそのまま、新宿の職安通りまで下って来た。赤い髪を束ねて気を引き締めてから、コンビニ袋を片手に古びてくすんだコンクリートの雑居ビルの階段を五階まであがる。夏休みの間、何度もここに登ったが、まだ息が切れる。文月探偵社の扉を開けると、冷気が体を冷やし、じんわりとかいた汗が徐々に引いていった。指定の制服があるものの、私服登校を許されている。自分の紺のアロハと色の抜けたキュロットのジーンズを見ながら学校が始まっても帰りに寄れるなと思い巡らせた。
左右に置かれて向かいあうソファーの先に、所長が椅子に腰掛ける。事務机に足を投げ出して、踏ん反り変えってる。こちらを一瞥すると、読んでいたスポーツ新聞に目戻す。出入りするようになって分かったが、所長、文月太一は、仕事のないときは日中から麻雀を打って点棒を失い、パチンコ玉を買って穴に捨ててる。もう何? ロートルじゃなくて、不良老人で問題ないだろう。
存在感に乏しく見落とし勝ちだが、今日は左手の壁とソファーの間に置かれた椅子にちょこんと薄緑の髪の少女、文月レナが都立高校の制服を着て腰を下ろしていた。拡張現実アストラルの本を読んでいる。むしろ
「ちょっとアンタ何読んでいるのよ」
手から本を取り上げて、カバーを剥がして放り出す。
「『複素数関数のアルゴリズムへの応用』?? なにこれ・・・面白いの?」
見るとレナは無表情にこちらを見上げている。こころなしか眉が少し気弱そうに下がってる。なんだかこっちが悪者みたいだ。
「これ、返すわ・・・」
彼女は静かに受け取って本に目を戻した。会話に発展することを期待したのだけれど実に無力だ。この前のソフトに関して、「ありがとう」も言ってない。そもそもあれが何なのか聞きたいことだらけだけれど、夏休みが明けた今日もコミュニケーションが成り立っている気がしない。この子の寡黙さは筋金入りだ。二週間出入りして分ったが、そもそも親子で碌に口も聞かない。事務所に来るのも帰るのも別々だし、居る時間も曜日もあまり一致していない。
「ねぇ、不良老人。今日も依頼無いワケ? 商売あがったりなんだけど」
ソファーに座って聴く。
<安心しろ、あと30分もすれば、依頼人が来ることになってる>
「あんた拡張現実アストラルのアバターなのね。声の聞こえ方が違うわ」
よく見れば、いつもよりスーツがパリッとして購入したてのようだし、顔による皺も少ない。何年か前に
「あんたでもそういうモノを使うのね。てっきり客に会うのに、拡張現実アストラルで会うなんて失礼だとか言うかと思ったわ」
<ふん、今、俺は家から動けん。それに客も、そいつでここを訪ねてくる>
「依頼人を待つのに、机の上に足を投げ出して、ずいぶん行儀が悪いじゃない、ちゃんと姿勢を正したらどう」
<俺は子犬か何かか? 客を待つ間もキチンとお座りしてろって言うのか?>
不愉快そうな顔で言う。ほんとこの不良中年は生真面目なのか、柄が悪いのか判断しかねる。そこがカラかいやすくていいんだけれど。
「普段の行儀の悪さは、いざというとき出るわよ。あんたはいつもそうなんだから、客に会う前から、襟元正してちょっとは準備したらどう? まあいいわよ。ボロが出てたらまた弄るネタが出て私は楽しいけど」
<俺を幾つだと思ってる。昔からこうだし、これで、客に粗相をしたことはねぇよ。年の功ってやつだ>
「そのうち認知症が進んで区別つかなくなるんだから、品良く人に接するために今から普段の行いを正したらどう」
かなり鋭い目でこちらを睨む。今日の舌戦は私の勝ちのようだ。気分よくコンビニの袋から水のボトルを取り出した。
ほどなく、視界にこの事務所の共用回線への着信が明滅する。種別は拡張現実アストラルでの訪問だ。太一が許可をタップしたようで、明滅は消え、ドアをノックする音。太一は机の上から足を下ろし、私は
<初めまして、私は探偵社の所長の文月太一です。こちらは助手の宮村エリカ、そこに座っているのが、同じく文月レナです>
<ご紹介ありがとうございます。私は、吉川アリスと申します>
挨拶が終わると、依頼人は私が勧めるまま、ソファーに腰を下ろした。レナは本から目を上げなかった。
<お見掛けした通りの年齢だと思っていいですか?>
<はい、これは春先に物理身体をスキャンしたアバターですので>
「失礼ですが、中学生ぐらいでいらっしゃいますよね」
<現在、中学二年生になります。お支払いのことはご心配なく、十分な額を用意できると思います>
ちょっと見ると太一は渋い顔をしていた。そして口を開く。
<失礼ですが、どうやってそのお金を用立てられました?>
<ここ三ヶ月の株式の運用益です。父と母が胚の状態の私に業者に依頼して授けた才能はそう発現したわけです>
<なるほど、デザインドチルドレンでいらっしゃる。納得です>
最初の予感が当たった。彼女は私の同類だ。太一はボールペンの先と頭を持ってゆっくり回しながら続けた。
<メールでは、お父上の行方を探してほしいとのことでしたが、未成年からの依頼は承りしかねますね>
<事情も聴いてくださらないんですか?>
<聞いてもどのみち、依頼を受けれません>
<断られるのはこちらで三度目です。どうやって父を探せばよいんですか? 娘が父と会うことがそんなにイケないことでしょうか? 半年前に両親は離婚しました。それから一度も合わせてもらってません。メールを送ってもメッセンジャーでチャットを呼び掛けても、父は返事をしてくれない。私どうしても父に自分の口で伝えたいことがあるんです>
<お母さまにご相談なさい>
娘は顔を伏せて声を震わせる。しかし太一は冷たく答える。段々私の方が苦しくなってきた。父と会えなくなる。いつもそばにいたはずの父と。覚えがある。おぼろげな記憶だけれど。
<すでに何度も懇願しました。ですが浮気相手に夢中です。その間男と再婚を控えて、父と呼ぶように言います。私は耐えられません。お願いです>
禿頭を撫でながら、難し気な声で答えた。
<年齢に比べてしっかりしたお嬢さんだ。多分デザインドチルドレンであることを差し引いても。すでにご存じでしょう。未成年から依頼を受ける場合、保護者の承諾が必要なんです>
「所長、この依頼、私が受けるわ。文月探偵社とは一切関係なしって建前で、女子高生が友達に頼まれて、お父さんを探すの。問題ないわよね」
<お前、本気か? だが、それは出るところに出たら通じない理屈だぞ>
言葉を継がれる前にダメ押しをする。
「依頼料なんて要らないわ! これはビジネスじゃないのよ!!」
不良老人はこの上なく驚いた顔をしていた。
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