シーン6 龍土町の弁護士

 俺はその男なら何かしら相談を受けているかもしれないという奥さんの言葉をあてすることにした。旦那とは幼なじみで、今でも一緒に飲み歩くある仲だそうだ。千代田線を乃木坂で降りた。美術館の大きな建物の裏手に、かつて龍土町と呼ばれた一角があり、男はそこに弁護士事務所を開業しているという。路地の洒落たタイル張りの四角い家屋や低い雑居ビル越しに隣接する区画の摩天楼が顔を覗かせる。


 夏の太陽は高くギラギラと照り付ける。スーツを片手に吊るして出来るだけ日陰を歩く、時間的にそろそろ小腹も減ってきた。振り返るとガキはすました顔してスーツの上着を着こんでついてくる。ふん、愉快じゃないな。そして依頼人の家を出てから無口だったが口を開いた。

「あんた、なんで浮気じゃないって思ったの」

俺は答える気がなかった。また前を向く。

「ははぁ、あんた根拠なんて無い訳ね。長年の勘てやつ? 古くさいわね、そんなに感覚的じゃあ、録に推理もできないわね。解決できなかった依頼、山のようにあるんじゃない」

ガキがいい放つ。

「じゃあ、聞かせてもらおうじゃないか、お前の推理じゃあ、旦那は浮気していて、今頃、北海道で若い愛人と避暑中なのか?」

「は! まさか、私もご主人は浮気してないと思うわ」

「じゃあ、なんで俺の考えにケチを付ける」

「あんたが、ちゃんと論理立て思考してるのか知りたいの。そんなこともわかんない訳?」

「ふん、まだ賭けの途中だ、降参するなら教えてやってもいい」

「ふん、バカみたい、同じ結論なんだから、もったい付けずに教えなさいよ」

どうも、調子が狂う。こいつのペースに乗せられる訳にはいかない。大体なんでそんな事をお前に証明しなきゃならん。俺は無視して、きびすを返し、地面に表示されているガイドに沿って歩き始める。

「ふん」

纏めていた髪を卸しながらガキが鼻で笑う。いまいましい。


 いかほどか進んだ奥に古いがモダンなビルがあり、地面のガイドはそこで終わっている。入り口に嵌めこまれた平澤第一ビルというプレートの近くに、看板が踊る。一階の韓国料理屋のロゴの背景を食欲をそそるキムチやチチジミにチゲが流れていく。幾つかの社名の中に、平澤弁護士事務所と硬い文字が踊る。五階のようだ。中に進みエレベータに乗り込んだ。


 扉をノックして開けると右に伸びる廊下の壁に台が置いてあり、メモと鋼の呼び鈴がある。頭を押さえるとチンと鳴る。心もとない音量だが、これも拡張現実アストラルだ。どこかに届いたアラートの結果として、直ぐに女性事務員の声が耳に届けられる。

「どちら様ですか?」

「岡部さんの奥様から紹介されました、文月です」

「はい、聞いております、探偵社の方ですよね、今ご案内します」

 幾つかの光の欠片が降ってタイトスカート、地味な印象でチャーミング過ぎない女性が現れた。


 彼女に応接室に案内された時、平澤は小声になって電話を済ませて、足を引いてからスマートにこちらに向き直る。挨拶を交わし、机を挟んで黒い皮のソファーに腰かける。平澤は豊かな白髪を寝かしつけて七三に分け、相応の皺を顔に刻んでおり、染みも目立つ。


「岡部のことでしたね、彼がなにか」

「ご旅行に行かれてるようなんですがね、行き先を告げずに出掛けられたものだから、奥さんが心配されてるんです」

「行き先をね、ほう、メールや電話はどうですか、連絡付けれそうに思いますが」

「それが返事を返さない、なにかトラブルに巻き込まれた可能性を私共は疑ってます」

「ふうーん、岡部がですか」

「親しくされていて、時折ご相談も受けていたと伺っていますが」

「お伺いしますが、行方を調査していらっしゃる、ってことでいいですか?」

「ええ、その通りです」

「うん、まぁ、そうですね私にも守秘義務があるんですが、ご心配なさる事はないと思いますよ」

「それはまた、どうして」

 ちょっと落ち着かないのか煙草を探している様子だ。握っていた手でスーツをまさぐる。

「失礼していいですかね」

 スーツから見つけ出したソフトケースを片手に俺に尋ねる。

「どうぞ、私も吸う口ですから」

「じゃあ遠慮なく」

 そう言って一本、取り出すがライターのガスが切れているようだ。

「あ、こりゃ失礼」

 そう応じて火を点けてやる。

「ありがとうございます」

 うまそうに吸い込んで吐き出す、ゆっくりと天井に煙が登ってく。


「奥さんには内緒にして欲しいんですがね、女性が居たようです、あいつも十一月で定年ですから、まぁね、二人で旅行にでも出掛けたんじやないですか、これは独り言です。弁護士として受けた相談でもないですしね」

「相手の方ご存じなんですね」

 生来、お喋りなタチなのか、急におどけて話出す。

「ええ、まあ、たまたま岡部と一緒に入った飲み屋で知り合いましてね、彼女は、八神幸子ちゃんて言うんですけどね、岡部と仲良くなっちゃたんですよね。僕が唾つけようとしたんですけど、銀座の近くの線路の下にある店でね、江上吟こうじょうぎんっていう小料理屋なんですがね、この店、ママがまた美人でね、二人に遠慮してお邪魔できないのが残念なのなんの」

 随分勢いよく流暢だ。酒の話になると止まらないのか、と苦笑する。


「おっと喋りすぎたかな」

 笑ってごまかす、こちらも合わせて笑う。しばしの沈黙が訪れる。平澤が二度、煙を吸いこんで吐いた。

「ところで旅行の先に心当たりありますか?」

「さぁね、7月に飲んだ時、この時期の北海道はいい、涼しくて飯も旨いだろうって言ってましたよ」

 ここで北海道とは、思いの外早いなと思った。長年の皮膚感覚というか、空気を読んだというか、この男はもったい付けるわりに、まだ何か喋りたそうだ。だから聞いてやることにする。

「ところで、岡部さんは、仕事関係では何か問題を抱えてませんでしたか」

「探偵さん、粘りますねぇ、何もありませんよ。いや、待てよ最近、大したことじゃないが、何か上司の気に触ることをしたとかで、気に止んでましたがね」

 そのあとも幾つか質問をして、話が一段落する。俺は麦茶に口を付ける。助手が静かなことに気になった。時々様子をうかがってたので話は聞いていた様子だが、今は神妙な顔で何か考え込んでいるようだった。


 ビルから出てしばらく歩くと自販機でペットボトルの水を買うなり、唐突に切り出してきた。

「どうやらお客にちゃんとついて来てる。ってあの弁護士電話に話してたのよね」

「俺たちが、あの部屋に入った時にか。その後、彼女にはいいリハビリだろう。って言ってたの気がついてたか」

 ガキはそれに答えず続ける。

「尾行されてた訳じゃないわよね、私達」

「ふん、もしそうなら、俺たちの前でそんな話はしないさ」

振り返ると、道の端を黒猫がゆっくりと優雅に歩いていた。

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