シーン4 お気に召すまま
月曜の朝10時過ぎに、経堂の改札を出ると目の前にガキが腕組をして待ち構えていた。さて、どうしてこんな成り行きになったのか。1日半経った今でも納得が行かない。昨晩の酒が抜けきらぬ頭で思い巡らす。一昨日と同じく、実に偉そうだ。ちょっとの間だけ、目が合う。紺のタイトスカートとジャケットで、就活生程度には見えなくもない。俺は声をもかけずに、左手に出て商店街に向かう。あろうことか付いてくる。俺が言い出したことだから仕方ないとも思う半面、えも言われぬ理不尽さを感じる。
駅の北側は店が少なく、段々住宅が増える。都道118号線と視界にはインポーズされているが車二台がすれ違うのがやっとの道だ。こんな時間でも夏の日差しのせいで背が汗でぬれる。十字路を曲がり、タバコを取り出して口に咥える。ライターを探しにポケットに手を入れると、唇が軽くなった。
「あんた、こんな住宅地の真ん中で歩きながら吸う気?」
見るといつの間にか、長い赤毛を後ろにまとめて、黒縁の眼鏡をかけている。鼻息荒く、俺を見上げながら、右手でタバコを握り潰す。誰の所為で吸いたくなったと思ってるんだ。まったく。実に不愉快だ。しばらく歩くと、
「ちょっとすいません、そこの方」背後から声がする。振り返ると窓を開けたセダンの中から首をひょいと出して、細い目をした二十五、六の男が声をかけてくる。
次に「道を教えてくれませんか」というので耳を疑った。
「あんた、
「昨日からなぜかGPSの調子が悪いんですよね、時々、位置が狂うんですよ」
レナにジャミングを頼んだ覚えはないし、第一今日は一緒に来てない。そんな壊れ方することもあるのか。行先を聞く、近隣にある大学に向かいたいらしい。ズボンは見えないが、半袖の白いポロシャツを着おり、ハンドルに乗せた腕には玉をつなげたブレスレット、石は青、青、白、赤と並ぶ。車内の冷気と一緒にヤニの匂い。道を聞いてくるってことは車で来るのは初めてなのか。
いつもの調子でタバコを取り出すと、ガキが睨む。
「道を教える変わりと行ってはなんですが、灰皿をお貸ねがえませんかね」
仕方なしに男にそう尋ねた。
「火じゃなくて、灰皿ですか」男は苦笑する。車の灰皿を取り外して、開いた窓に器用に置いた。うまい具合に安定した様子だ。俺は拡張現実アストラルを操作して、大学までの地図を印刷プリントする。俺が子供の頃は印刷プリントなんて本当の紙にしてたが、今では
「そちらのお宅にご用事なんですか?」
「ええ、私たちは便利屋でしてね、今回はOA機器の設定に伺ったんですよ」
「へぇ、スーツでするもんなんですか」
「まぁ便利屋と行っても古い人間でしてね私は、どうもコレじゃないと落ち着かない」
「でも汚れるんじゃないですか。その…、それだと」
「今回は、ソフトの設定なんで、コレでいいんですよ」
「助手にもスーツにさせました」
ちらっとガキを見る。とたん、借りてきた大人しい猫が、愛想笑いをしながら、隣に歩み寄る。
「初めまして、社長に灰皿をお貸しくださってありがとうございます、助手のエリカと申します」
「これは綺麗な助手さんですね」
「いえいえ、そそっかしいばっかりの初心者でしてね、今回の仕事も一人で任せられないからついてきているんですよ」
言ったとたん。ガキはパンプスの硬い踵を俺の足上で捩じる。痛みをこらえる俺を尻目に男と話し始める。
「こんなお盆目前に大学に行かれるんですね。学生さんて夏休みも大学に通われるんですか?」
「いや、僕は博士課程前期の願書を出しにね」
「院を受験されるんですね、頭いいんだ~」
「はは、ありがとう」
「何を勉強されるんですか?」
「哲学をね、少し」
「私、哲学なんて難しくてわからないですー」
俺と話す時と声の出し方から違う。これだから女は信用できない。ガキも嫌いだ。気が合うようで、会話が進む。乗せられたのだろう、男は自慢気にソクラテスが死刑執行前に自ら脱獄を拒んだ話をする。好青年だと思ったが、考えを変えた。子供と馬が合うのは子供だ。なんで仕事をこんなガキに引っ掻き回されることになったのだろうか。
馬鹿らしくなって、吸い終わったタバコを灰皿に押し込み、男に丁寧に会釈して踵を返す。ガキをこのまま男に引き取ってもらいたいのは押し隠して静かに依頼者宅のチャイムを押した。
「すいません、お話しに夢中になっちゃって、所長気が利かないから、これで失礼しないと」
「いえいえ、こちらこそ、またお会いできるおといいですね」
二人の会話から望み通りにはならなかったことがよく分かった。ため息が出る。自分でも知らぬ間に「どうぞお気に召すまま」と呟いた。
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