3-4. 安息の地(3)
*
祖父がトーツの人で、軍人で、さらには非道な作戦を指揮した将軍であると聞かされても、思いのほかユウキに動揺はなかった。嫌悪感もまた。
むしろ、すっきりとしたと思う。日常の中でほとんど笑うことのなかったジャン。夜中に一人、苦しげに歯を食いしばる姿もユウキは目にしていた。
ジャンの苦しみ、そして必要以上に自分を
「ショウはおじいちゃんのこと……憎い?」
箒で室内を掃きながら、外から戻ってきたショウに、さりげなさを
「んー、正直実感なくてな。ユウキから色々聞いたあとに悪人だなんて聞かされても、すっげぇ曲ったことが嫌いな、厳格なじいさんって印象がもうできちゃってたからな。しっくりこないんだよ。――まぁ、大戦なんて過去のことだと思ってたし、ユウキのじいさんだってのもあるから、憎いとは思ってないかな」
その答えに、ユウキは詰めていた息をそっと吐き出す。
ジャンはユウキにとってただ一人の家族だ。過去に何があろうともそれは変わらない。だから、ショウにジャンを憎んで欲しくなかった。たとえ、ジャンがひどいことをしていたのだとしても、ショウにだけは――。少なくともジャンはユウキの前で、そういった非道な姿を見せることはなかったからなおさらだ。
それからは無心で掃除した。
もうここへは戻ってこないつもりだったが、当時、チハルへ行くことを決めたのが急だったこともあり、そのままになっているものも多い。家具はもちろんのこと、食器などの生活必需品もほとんど残っていたので、住むのに困ることはなさそうだった。
そういった小物類も一つ一つ古布できれいにしていく。今は手元に飲み水しかないので、食器を洗うのは水を確保してからだ。
そして、それらが終わると、外に干していた寝具を取り込んだ。さらに小屋の裏手に残っていた
その後も小屋の中と外とを行ったり来たりしながら、環境を整えた。時間はあっという間に過ぎて行った。
「何とか間に合ったか」
ショウがほっとしたように息を吐く。
気づけば、裏の岩山と夜空との境がわからないくらい辺り一面が漆黒に染まっていた。日が落ちてしまえば、この辺りは呼吸すらままならないほどの極寒の地になる。ユウキたちはすぐさま室内へと駆け戻り、扉をしっかりと閉めた。
「明日は水だな。まさか川の氷を溶かして使うしかないとは思わなかった」
「氷の下に水も流れてるみたいなんだけどね。そこまで掘るよりは氷自体を持ってきちゃったほうが早いから」
「薪は持つか?」
「小屋の裏に残ってた分だけだと春までは持たないと思う。今から伐採して、乾かして、ってなると大仕事になっちゃうね。小枝を拾い集めてくるのでもいいけど……。あとは外壁の補修かな? 春の嵐を考えるとちょっと心配なの」
ショウが最初に言っていたように、小屋は二年以上空けていたわりには痛みは少なかった。だが、外壁の補強材として使っていた土壁部分が少しはがれていたり、ひび割れていたため、やはり多少の補修は必要だった。
水を確保して、薪を確保して、それから外壁の補修して……当然、食料の確保も欠かせない。明日もすべきことは山積みだった。
一通りすべきことを確認したあとは、二人で暖炉を囲った。毛布に包まりつつその火の明るさを頼りに、他愛もない話をする。
ショウは、サシエでの騒動のあとのことを少し話してくれた。
あれからもう一か月半が経過しているのだという。それを聞いてユウキは驚いた。昼間、ショウが目が合っただけでひどく感慨深げにしていたのも頷ける。ショウにはずいぶんと心配をかけてしまったようだ。
ユウキも少しだけその間のことを話した。ずっと白い空間にいたこと。そして、最後には必ず恐怖に襲われていたこと。
「もうやだ、誰か助けてってなったときにね、ウサギさんが来てくれたんだけどね……たぶん、ウサギさんのことを思い出したの、ここの懐かしい匂いのおかげだと思うんだ。ショウがここに連れてきてくれたから、あの悪夢から抜け出せた」
「いやいやいや。それ、助けてくれたのウサギさんだろ。ってか、そのウサギのぬいぐるみ、くれたの母親なんだろ。じゃあ、母親が助けてくれたんじゃね?」
「そうかな? ……でも、ありがと」
正直、助けてくれたのが母親だったどうかは関係なかった。ただユウキはショウにお礼が言いたかった。ショウがユウキのために行動してくれたのは事実だから。
だから、その気持ちを素直に伝えたのだが、ショウはふいと顔をそむけてしまった。
半分だけ見えている顔は、暖炉の揺れる炎が生む陰影のせいで見にくい。けれど、きっとショウは照れているのだろうと思った。ショウは意外と真っ直ぐに向けられる感情に弱い。思わずくすりと笑うと、ふてくされたショウが手を伸ばし、ユウキの頭をがしがしとかき回した。
「ちょ、や、やめてってばっ」
慌ててその手を
そんな
「あー、もう、ぐしゃぐしゃ」
文句を言いつつも、口元は自然と緩んでいた。ユウキの髪は柔らかいくっせっけなので
「笑ったな。帰ってきたばっかだってのに、もう復活したか?」
「うん」
からかうようなショウの言葉に元気よく返事をする。帰ってきた途端にこれだから、ショウは
「じゃあ――また一緒に行くか?」
突然、ショウの声色が変わった。驚いて顔をあげると、ショウが真剣な眼差しを向けていた。ユウキはそれにどきりとして、笑みを引っ込める。同時に、ショウの言葉に疑問が浮かぶ。
また一緒に、とはどういう意味だろうか。ショウとはずっと一緒に行動していた。それなのに、これではまるで今まで別行動していたかのように聞こえる。それともショウの中では、今、別行動中だとでも言うのだろうか。
「ごめん、なんでもない。さすがにそんなすぐにはきついよな」
沈黙をどう解釈したのか、ショウが苦笑を浮かべて前言を撤回する。そしてさらに続けた。
「ニ、三日したらここを
「……え?」
ユウキは固まった。すぐには言葉が飲み込めない。そしてそれ以上に、その言葉の意味を理解したくなかった。だが、だからと言って聞かずにいることもまた、ユウキにはできなかった。
「えっと、それ、は……ショウ一人でどこかに行くってこと……?」
「あぁ」
勇気を振り絞って口にしたその問いも、ショウにとっては気に留めるほどのことではなかったのだろう。ショウはあっさりと頷いた。
目の前が真っ暗になった。これまでとはまた別の悲観的な感情がユウキを襲う。
「また、すぐに来るから」
ショウが軽い調子で付け足した。だが、これはすぐに来るからとかそういった問題ではない。ショウがユウキを置いていくという事実が重要だった。
だが言われてみれば確かに、ショウがここにいなくてはならない理由はなかった。ショウの手配書に関しては、しばらくすれば取り下げられるというし、ここにはショウの得になるものなど何もない。
けれどユウキは無意識のうちに、ショウも一緒にいてくれるものだと思い込んでいた。だから驚き、大きな衝撃を受けた。
「ど、どこに行くの……?」
「やっぱりセンリョウに行ってみようと思ってる。あ、いや……ほら、いい加減、親父ともけりをつけなきゃだし」
ショックで思わず声が漏れそうになった。それを咄嗟に飲み込んで耐える。
センリョウまで行くのに、またすぐ来るという言葉は矛盾していた。移動だけでも月単位の日数が必要で、どうあがいてもすぐにというのは不可能だ。
おそらく、またすぐ来る、という言葉に意味はなかったのだろう。ショウは、何か慰めになる言葉を言わなければと思って口にしただけで、深くは考えていなかったに違いない。
きっと、ショウは戻って来ないつもりなのだ。だから、そんな適当なことが言えてしまう。
だが、だからといって、ひどい、と思うことはユウキのわがままだろう。ショウがここまでユウキを気遣ってくれたことは事実で、わざわざこんな
ならばここは、最後であるならなおさら、いい子でいるべきだろう。ショウの望むユウキであるべきだろう。ショウの最後の記憶が、わがままで面倒な少女だった、とならないように。
ユウキは震える唇に力を込めて、同意の言葉を返す。
「そっか、わかった」
だが、それが精いっぱいだった。これ以上は声を出した瞬間に泣いてしまいそうだった。
ユウキはショウにとって足手まといだった――その事実が心に重くのしかかる。
以前から薄々感じてはいた。ヤエでもユウキはずっと留守番だったし、チハルでだって、ユウキと出会わなければ、ショウは逃げる必要などなかった。山間街道で受けた襲撃も、ユウキがいなければ遭遇するはずはなく、そうすればショウが大怪我をすることもなかった。
最初から、ユウキはショウの側にいない方がよかったのだ。
本当は、置いて行かないでと泣きつきたかった。けれど、もう、それを口にすることなどできない。
――ユウキはショウの疫病神だ。
そしてその三日後、ショウは一人、北の家をあとにした。
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