3-4. 安息の地(2)

          *

 ――誰だっけ……?

 真っ先にユウキの目に飛び込んできたのは、前を行く少年の姿だった。同じ年頃か少し上の細身の少年。少年は辺りをきょろきょろと見回し、首をかしげながら行きつ戻りつを繰り返している。

「くそ、どこだよ岩山って」

 少年からはあせりか苛立ちのようなものが感じられた。ユウキはそれを不思議に見遣る。

「――くしゅん」

 不意に寒さを感じてくしゃみが出た。それと同時に思考が鮮明になっていく。

「あぁ、ごめん。じっとしてたら寒いよな」

 少年が戻ってきて、ユウキの答えを待たずに手を取った。そして、再びごめんな、と言って歩き出す。

 ユウキは目をしばたかせた。まだ頭は混乱しているが、一つ、わかったことがある。

 ユウキの手を引いて歩く少年。彼は――ショウだ。ユウキと一緒に旅をする仲間で、元貴族で、元泥棒で、元大工見習いの。

 そして最後まで頭に残っていたもやが晴れた。これまでの出来事が一気によみがえる。

 この激動的な旅のきっかけはジャンの死。それからマカベに捕まったり、身を隠したり、襲われたり……風捕り狩りと叫んで発狂した男の姿までの一連の光景が、一挙に押し寄せてきた。

 その最後の男の言葉を思い出して、ユウキは悲鳴を上げたい衝動に駆られる。

 だが結果として、開かれたその口から悲鳴が漏れることはなかった。なぜなら、周囲の景色がその衝動をも吹き飛ばしてしまったからだ。

「っ! ここ……!」

 ユウキは息を呑み、目を見開いた。

 久しぶりに認識した景色は、途切れた記憶の最後にあったそれとは全く違っていた。舗装されていないまでもしっかりとしていた街道は、石がごろごろと転がるひび割れた大地に取って代わり、視線を前方に向ければ、ヤエ以南では決して目にすることのなかった種類の針葉樹が点在している。

 人の手も入らず荒涼としたこの景色は、見る者に寂寥感せきりょうかんを抱かせるものだった。

 だが、ユウキの脳裏を占めた思いはそれとは違っていた。

 ユウキはこの場所を知っていた。チハル以南では経験できないほどの鋭い冷気、乾燥してひび割れた大地、そして極北の地にしか存在しない針葉樹。

 それらから導き出される答えは一つだった。

 ――まさか、まさか、まさか!

 ユウキは繋がれていた手を振りほどき、急かされるように足を早める。

 針葉樹の林に入り、下草を蹴って道を作りながら進むと、やがて空を覆っていた木々が途切れた。その林の端まで行けば、眼下に小さな湖が見える。湖面は全て氷で覆われ、ユウキの肩ほどの高さまであろうかという巨大な御神渡おみわたりが、湖を分断していた。

 ここでユウキの予想が確信に変わった。

 ユウキは踵を返すと、これまでとは別の方向に足を進め、目の前に現れた斜面を噛みつくような勢いで登り始める。だが、寒さで固まり、疲労が蓄積した足は思い通りには動かなかった。ユウキはもどかしさに歯噛みする。

 ――速く。もっと速く。

 手を岩や木の根にかけて身体を引き上げ、もう一方の手で膝を押した。全身を使いながら、道など存在しない斜面を迷うことなく登り続け、そして小さな山を一つ越えた。そこからさらに森を抜け、荒野をひたすら進む。

 そうして歩くこと数時間、やがて岩山を背にした一軒の小屋が見えてきた。

「うそ……」

 声がかすれた。

 そこは、チハルに行くまでユウキがジャンと暮らしていた小屋。ユウキが見間違えるはずなかった。

 ユウキは呆然と立ち尽くす。目の前にある光景が信じられなくて、目を離したら消えてしまうのではないかと恐ろしくて、まばたき一つできなかった。

 そんなユウキの横を通り越して、ショウが閂がかかっているだけの扉を開ける。

「……よかった。思ってたよりいたみが少ない」

 入り口から手早く中を確認し、そう言うと、ショウは振り返ってにこりと笑った。

「おいで、ユウキ」

 ユウキはおずおずと足を進め、ショウと一緒に中に入る。

 室内は薄暗かった。それは外から打ちつけられた板で窓が覆われているためだ。だが、その板のおかげで窓は割れずに済んでいた。板がなければ窓は春の嵐によって割られてしまっていただろう。

 部屋の角にえつけられた木の机に手をついて、ユウキは深呼吸する。部屋に染みついたなめし液の匂いが懐かしかった。これはジャンの匂いだ。ジャンと一緒に暮らしていた日々が、もうずっと昔のことのように感じられた。

 そうして一息つくと、じっとユウキを見つめるショウと目が合った。ショウは一瞬、目を見張り、それから、ユウキが見たこともないほどの柔らかな笑みを浮かべた。感慨深げで慈愛に満ちた笑み。ユウキはそんなショウの表情に驚き、じっと見返してしまう。

「ようやくちゃんと目が合ったな」

「え?」

「――いや、なんでもない」

 首を振りつつもショウの表情はそのままで、ユウキはさらに戸惑った。

「ここ、懐かしいだろ? しばらくここで休みなよ。ここでならユウキも楽に息ができるって、そう思ったんだ」

「あ……」

 ショウの気遣いを知って、驚くと同時に胸が温かくなる。

 ジャンを失ってからずっと、ユウキの心は冷え固まっていた。その心がゆるゆると溶けていくのを感じた。

 だが、それとは別の場所では不安が膨らんでいく。

「ありがとう。でも」

 ここまで探しに来るような者はいないだろうと思う。だが万が一と考えると身体が震えた。あらぬ罪をでっち上げてまで指名手配をし、捕まえようとする者がいる。その並みならぬ執着心を思えば、休みたくても休めないと思った。

「大丈夫、誰も来ないよ。絶対に見つけられない」

「どうして?」

「ここはジャンの隠れ家だから」

 ショウの自信満々な様子に、ユウキは言葉を失う。

船舶せんぱく転覆事件ってわかるか? 前にちらっと話したことあるんだけど」

「そ、れは、荒内海の大戦の……?」

「そう。荒内海の大戦の中で、シュセンが遂行したポロボの天誅てんちゅう作戦とよく比較されて批難されるやつ。例の火薬を使って、トーツが荒内海中の船をかたっぱしから転覆させてったって事件なんだけど、実はこの事件、民間船が多く巻き込まれていて、人的被害も出てたんだ。だから、休戦時に首謀者の引き渡しをシュセンは要求した――んだけど、そのときにはすでに逃亡しちゃってたらしくてね」

「う、うん」

 戸惑い気味にユウキは頷く。

 ショウが何を言おうとしているのかはわからない。ただ、何かとんでもないことを言われるような予感があった。

「彼は、休戦に導いた国であるロージアからも、トーツ唯一の悪人と見なされていたから、トーツもシュセンも大規模な捜索隊を派遣したんだけど、結局、見つけることはできなかった」

「そうなんだ……」

「その逃亡した首謀者の名前がジャン・オハナ。――ユウキのじいさんだ」

 ユウキは勢いよく顔をあげた。何の冗談を、と思ってショウを見返すが、ショウは真剣な表情をしていて、とても冗談を言っているようには見えなかった。

「そんな、まさか」

「ずっと推測の域を出なかったんだけどな。ここにきて確信したよ」

 ショウはその場にかがんで手招きする。そして、とんとんと床を叩いたかと思うと、そこに小さな穴が開いた。ショウはその穴に指を引っかけ、床板を持ち上げる。

 ユウキが側に行って屈んだときには、足元の床板が四角く抜けていた。その入り口は成人男性がぎりぎりぶつからずに入れるくらいの大きさで、深さはかなりありそうだった。

 ユウキはショウに促され中を覗き込んでみる。だが、室内の薄暗さも相まって、底まで見通すことはできなかった。試しに声を出してみれば、小部屋くらいの広さを持っていることがわかった。

「これ知ってた? 隠し部屋」

 ショウに聞かれて首を振る。ユウキは床板が外せること自体、想像していなかった。

「中は……今は何もないだろうな。出てくときに処分してるだろうし」

 思い返してみれば、この小屋はジャンが建てたと言っていた。となれば当然、この隠し部屋もジャンが作ったということになる。その事実が、先ほどのショウの言い分を裏付けていた。

「これでじいさんが普通じゃないってことはわかっただろ?」

 ユウキは素直に頷く。ジャン・オハナという名前とこの隠し部屋。ジャンがショウの言う、船舶転覆事件の首謀者である可能性は非常に高かった。

「俺が見た書物からはざっくりとしかわからなかったんだけど、首謀者がシュセンに逃げ込んだって連絡を受けたあと、シュセンはかなりの人数を捜索に回したらしい。休戦になったあとだったから、人員には余裕があった。それでこれまで戦場に出ていた兵士たちの大半が捜索に駆り出されて……けど、それでも見つからなかった。じいさんは逃げ切って、でもって足跡を完全に消して、それでここまでやってきた」

 ぞくりと鳥肌が立った。話を聞くだけでも恐ろしいが、その壮絶な逃亡劇を想像してしまい、さらに身体を震わせる。

「じいさんは絶対に見つからない安全な場所としてここを選んだ。だから大丈夫。ここなら安心して休めるよ」

 はっとしてショウに顔を向けると、ショウは大きく頷いた。

 不思議な心地だった。ユウキの心から不安が取り払われることなどもうずっとなかったのに、ここがジャンの選んだ場所だと知って、ショウに大丈夫だと言ってもらって、気づけばユウキの中に巣食っていた不安は霧散していた。

 ユウキは大きく息を吐いた。


 ――もう、大丈夫。

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