3-4. 安息の地(1)

          *

 みぎわに寄せる波のように、意識が無とどこかとの間を行き来する。

 ふっと意識が途切れたかと思えば浮かび上がり、何かをつかむかと思えば再び沈む。

 それを何度も何度も繰り返し、ようやく行き着いた先は、深い深い霧の中。

 そっと手を伸ばしてみるが触れるものはなく、耳を澄ませても何の音も聞こえなかった。

 ふらりふらりと歩き出す。

 けれど、どこまで行っても景色は変わらず、また、誰かと出会うこともなかった。

 ――誰もいない。

 不思議とユウキは安心した。

 ここは静かで、平穏だ。ここには、怖いものなど何もない。

 ――やっと休める。

 ようやく誰にも邪魔されない、責められることのない、ユウキだけの場所を手に入れた、と思った。

 けれど、ユウキに与えられた安息は束の間のものだった。

 ずっと変わることのなかった真っ白な景色の中、数歩先に突如として現れた黒い点。染みのような小さな点が、突然、白い地面の上にぽとりと落ちてきた。

 ユウキは足を止めてそれを凝視する。すぐに気づいた。それは徐々に、にじむようにじわじわとその面積を広げていた。

 侵食、という言葉が思い浮かぶ。

 ユウキはこれがこの空間を侵食し、破壊する招かざるものであると、すぐに理解した。

 黒い点はあっという間に大きな円となる。

 ユウキは慌ててきびすを返した。けれど黒い染みの侵食は勢いを増し、ユウキへとせまってくる。

 ユウキは必死に走った。走って走って走って……どのくらい走り続けたかわからなくなったころ、とうとうそれに追いつかれた。

 黒い染みが足元を侵食する。踏んでいたはずの地面が消え、身体が宙に浮いた。すぐにそれが落下する感覚へと変わり、ユウキは絶叫する。

「い、いやぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 間もなくユウキの意識は閉ざされた。


 汀に寄せる波のように、意識が無とどこかとの間を行き来する。

 ふっと意識が途切れたかと思えば浮かび上がり、何かを掴むかと思えば再び沈む。

 それを何度も何度も繰り返し――。

 ユウキははたと目を覚ました。周囲は見渡す限り真っ白で、それがもくもくとした雲のように見える。

 ――体が重い。

 ぼんやりとした頭でそんなことを考えつつ一歩足を踏み出せば、ふかふかとした柔らかな感触が返された。ユウキはその感触に惹かれて無心に足を動かしていく。

 そうして進んでいくと一際大きな雲の塊に行き着いた。ユウキの身長よりも高く、ユウキの両腕では抱えきれないほどの大きな塊。ユウキは思わずそれに手を伸ばす。

 それは極上の綿わたのようだった。柔らかくしっとりとしていて、程よい弾力を返す。

 ユウキは誘われるままにその雲の塊に体をうずめた。

 ――今度は大丈夫。

 脳裏に浮かんだ言葉に首を傾げつつ、ユウキはそっと目を閉じる。

 だが――。


 はっと目を覚ますと、そこは白い空間で、何故かユウキは汗をかいていた。

 嫌な汗だ。心拍数も上がっている。何か悪い夢でも見ていたのか、と考えてすぐ、この白い空間に焦りを覚える。

 真っ白な石でも敷かれているかのような硬質な印象の床に、ムラのない無機質な白い景色。白い光の中に浮かべられた床に立っているような感覚だった。

 見えないのではなく、確かに何もないのだと確信できる空間だ。

 恐いものなど何もない――はずなのに、ここは危険だ、早く逃げろ、と警告する自分がいる。

 頭が混乱した。自分が二人に分裂してしまったかのような錯覚に陥ると同時に、ユウキの耳に声が届いた。

 責める色を多分に含んだ、かん高い女性の叫び、しわがれた老人の批難する声、強い口調で罵倒する男性の声、そして、ユウキが良く知る少年の――嫌悪を示す言葉。

 それを耳にした瞬間、ユウキを抑えていた何かが壊れた。心に渦巻く様々な感情に耐えきれず叫び声をあげる。

 ――どうして、どうして、どうして!

 ――そんなこと思ってたの? 最初から? ずっと?

 ――それなら殺してくれればよかったのに! 殺してくれればよかったのに!!

 ユウキの心は、故郷の春の嵐のように激しく荒れ狂った。

 そしてそれを皮切りに、静かだった空間が一気に騒がしくなる。誰もいなかったはずの空間にぼんやりとした人影が浮かび上がり、それはあっという間に空間を埋め尽くすほどの人数になった。

 彼らは皆一様にユウキを責めた。

 順番に、ではない。一斉に、だ。本来であれば、その言葉の一つ一つを聞き分けることなどできなかったはずだが、ユウキには不思議とすべての人の言葉が聞き取れていた。

 聞き取れてしまっていた。ゆえに、ユウキはその一言一言に心を刻まれていく。

『貴様のせいで!』

『あんたが生まれてきたから!』

『なんでまだ生きてんだ!』

 ――やだやだやだ! 何も聞こえない。何も聞いてない。

『返して! 私の家族を返してよ! あんたが殺したのよ!』

 ――知らない知らない知らない! そんなこと私は知らない!

『●●●なんて全員いなくなればいい!』

『●●●狩りの再来だ! 一人残らず狩ってやれ』

 ――そんなの、私には関係ない!

 気づけば目の前に人影があった。逆光のときのように真っ黒く見える人影が、悪魔のような光る目を吊り上げて、ずりずりとユウキにつめ寄ってくる。

 逃げなきゃと思ったときには、金縛りにあったかのように動けなくなっていた。恐怖が全身を支配する。

 ――やだ、助けて! お母さん! お父さん!! おじいちゃん!!!

 人影のおどろおどろしい両手がユウキを捕まえようと伸ばされる。それはまるでロウでできた真っ黒な手が、今まさにあぶられているとでも言うかのように、形を変えながらユウキへと迫りくる。

 ――誰でもいいからお願い! 助けて!

 眼前へと伸ばされた巨大な手。その手に捕まえられる、と思ったそのとき、その指の間から、人混みの中でぴょこりと頭を出す白いウサギが見えた。

 ――え?

 あまりにも場違いな愛らしい姿に、ユウキは束の間、頭が真っ白になった。

 だが、どこかで見たことのあるウサギだと思った。どこで見たのだろうかと考えて――それが、幼いころから肌身離さず大事にしてきたウサギのぬいぐるみと同じ見た目をしていることに気づく。

 ユウキは反射的に手を伸ばした。ウサギのぬいぐるみは宝物だ。このウサギのぬいぐるみだけが、もはやユウキの記憶にもほとんどない、ユウキの両親を知っている。

 ユウキの伸ばした手が、目の前の人影に触れた。すると、人影がすっとかき消える。さらにその背後にぼんやりと見えていた大勢の人も忽然こつぜんと姿を消した。

 ユウキのウサギが手元に戻ってくる。ユウキはそのウサギをぎゅっと抱きしめた。

 やがて景色がぐるぐると回り出す。その回転はだんだんと勢いを増して、流れていく景色もただの色の帯に変わり、ユウキの視界は大きな渦を描く様々な色の帯で埋め尽くされた。


 そして――。

 懐かしい香りがユウキの鼻孔をくすぐった。ユウキはその香りに誘われて、足を一歩前に出す。

 その途端、周囲の景色が一変した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る