1-4. 作られた偶然(4)

          *


 背後の扉が音を立てて閉まる。途端に辺りは真っ暗になった。

 不安をあおるような暗さの中、ショウはそっと自分の両手を見下ろした。暗くて手のひらなど見えないが、見なくともわかる。両手は汗でびっしょりだ。


 ――危なかった、な。


 先ほどの大男を思い浮かべ、小さく息を吐いた。だが、本当に怖いのはあの大男などではない。本当に怖いのは――。


 首を振ってひとまず扉のわきへと避けた。目が暗さに慣れるのを待たなければならない。

 現状、通路に出たらしいということだけはわかったが、どこに向かうべきかはさっぱりだ。部屋を出るときの明かりで、ちらりと見えたのは正面に扉があるということ。左右の確認まではできなかった。


 そうしているうちに、だんだんと見えるようになって来た。ショウはすぐさま周囲を見回す。

 左手は行き止まりだ。一、二メートル先がもう壁になっている。

 反対の右手はもう少し奥まで通路が続いていて、その先に階下へと繋がる階段が見えている――が、どうやらそちらには行くなということらしい。階段の手前にポールが立てられ、鎖がかけられていた。


 迷うほどの選択肢はなかった。向かう先は正面の扉以外にない。

 ショウは寄りかかっていた壁から背を離し、目の前のドアノブへと手を伸ばす。そしてすぐに舌打ちをした。

 伸ばした手の先が震えていた。どんなに気づかぬふりをしていても体は正直ということか。ショウはこの先に待つものに、知らず知らずのうちに恐れを抱いていた。


「気のせいだっての」


 ショウは開き直り、勢いに任せて扉を押す。扉はきしむ音すら立てることなく簡単に開いた。


 仄暗ほのぐらい空間に、オレンジ色の光がぽつぽつと浮いていた。複数置かれたランプは部屋全体を照らすことなく、怪しげな雰囲気をかもし出している。部屋自体の広さはさほどなく、中央にどんとえられた大きな机が部屋の半分を占めていた。


 その机の前、そこにアキトはいた。フードを目深にかぶり、机の上に腰かけて、大きく肩を震わせている。口元は布で覆われていて見えないが、その意味すらないほどの爆笑だった。


「くっくっくっ……はっ、お前、なか…なかなかやるじゃねぇか」


 どこで見ていたのか、褒めるような言葉を口にする。だが、アキトの笑いは収まらなかった。腹を抱えて笑い続けている。

 最初こそあっけにとられたショウだったが、それはすぐに別の感情に取って代わった。ショウは固く拳を握り、表情を改める。


 だが、文句を言おうとした口は、まるで縫いつけられたかのように開かなかった。

 黒づくめの案内人と別れてから、ここに来るまでの道すがらずっと、アキトに会ったら一言いってやろうと思っていた。ここが闇市であることも知らされなかった上に、すぐにわかる場所にアキトの姿はなかった。そのせいで目をつけられたというのに、こちらの思いなど露知らず、今、大爆笑している。


 文句の一つや二つ言って当然だ。下手をすれば怪我どころではなかったのだから。

 だが、そんなショウの脳裏にちらつくのは先ほどの出来事だ。ショウの目的がアキトだとわかった瞬間、意味深な笑みを見せた大男。あっさりと道を開けた客たち。

 それらの行動が示しているのはアキトの格の違いか。

 アキトの客であれば例外が許され、招かざる客であったとしてもアキトなら簡単に片づけられる。だから、自分たちが手を下す必要はない、そう彼らは皆承知していた。

 ここに、昼間ショウが会ったアキトはいなかった。ここには闇屋のアキトしかいない。


「あまり子どもをからかわないでくれ……」


 ショウは力なく言った。自分らしくない気弱な発言。口にしてさらに落ち込んだ。

 アキトはあっさりと笑いを収め、ショウに視線を戻す。


「よく言うぜ。とうに子ども心なんて捨てたお前がな。――ヤガミ ショウ君?」


 ショウは息を飲んだ。大工見習いのショウ。それが今の自分だ。ヤガミなどという姓は知らない。

 アキトを見れば、アキトはいつの間にか闇屋の顔をしていて、何かを量るようにショウをまっすぐに見ていた。それに気づいた瞬間、ショウは目線をそらした。


「だ……誰かと、間違えてないか……?」


 姓は一部の上流階級の家にしか与えられていない。一般的には親の名前や職業名を姓の代わりに名乗る時代であるから、姓を名乗った時点である程度の素性が割れる。だからショウは家を出てから一度たりとも姓を名乗ったことはなかった。

 そう、ヤガミというのはショウが捨てたはずの姓だった。


 何も言わないアキトに焦れ、上目遣いで窺う。アキトの顔には迷いも動揺もなかった。そこには確信した静かな眼差しだけがあった。


 ――敵わない。


 お手上げだった。これではどんな口達者な人でも考えを変えさせることなどできないだろう。それだけアキトは自分の仕事に自信があるということだ。

 ショウは小さく息を吐いた。どんなに不快であったとしても、自分がその家の生まれであることには違いない。認めるほかなかった。でなければきっとこの男は話を進めないだろう。


「――調べたのか」


 苦々しく言い捨てる。ようやくアキトが反応した。ゆっくりと足を組み直し、体の重心を前に傾ける。


「顧客情報は正確じゃないと駄目だろう。闇屋……いや、情報屋だからな」


 そこは言い直す必要があるのかと疑問に思ったが、尋ねる間もなくアキトは続けた。


「さて、本題に入ろうか。ユウキちゃんを救いたいって話だったな?」

「あぁ」

 ショウは表情を引き締め、頷く。


「昼間にも言ったが、ユウキちゃんは警察隊に扮したとある富豪の……あれは私兵って言って差し支えないな。そいつらに連れ去られた」

「富豪?」

「そうだ。南方との交易で家を大きくしたっていう富豪でな。そいつには年上の妻と十代の娘が一人いて、妻子は首都センリョウにいる。チハルに滞在しているのは当主だけで、それも毎年、夏の間だけだ。目的は東のイリス国の商人との取引だな」

「イリスにまで手を広げているのか。――で、あの子はどこに? その富豪の屋敷にいるのか?」

「あぁ、確認した。その後の出入りもないから、今もそこだ。ってことで、この通り見取り図も押さえてやった」


 よかったな、とまるで他人事のようにポンポンと図面を叩く。――図面のたぐいは高価なのに、と反射的に顔をしかめた。


 それはさておき、これは厄介だ。

 町の外に連れ出されなくてよかったというのが半分。屋敷に籠られて救出が難しいというのが半分。お金持ちの家ほど警備は厳重になるものだ。富豪というからにはそれも相当なものだろう。


「それで、いい加減教えてくれ。その富豪っていうのは誰のことなんだ?」

「なんだ、これだけ教えてわからなかったのか? そいつは――」


 そうして告げられたアキトの答えにショウは声を失った。それはチハルに住む者であれば誰もが知っている大富豪だった。

 警備は厳重どころではない。果たして助け出すことはできるのだろうか。


「……自分が行くことには何の疑問も持たないんだな」

「ん?」


 夢中で考えているところに話しかけられ、ショウは聞き逃す。すぐに尋ね返すがアキトは首を振った。


「いや、いい。警備体系についても一通り入手してるから見てくれ。だが……これはお前さんでも厳しいかもな」

「やっぱりそうな――」

 聞き流しかけ、ぎょっとする。今、あり得ない言葉を耳にした気がした。


 実はショウは長いこと泥棒稼業についていた。つまり、忍びこむことと逃げ足には少なからぬ自信を持っていた……のだが、問題はそこではない。アキトの言ったお前さんでも、という言葉だ。それはアキトがショウのかつての稼業をも知っていたということに他ならない。

 アキトと出会ってまだ半日。アキトはこの短時間で、過去に自分がしていたことまで調べあげたというのだろうか。いくら情報屋といえどもただの人間には不可能だ。


「アキトさんって……もしかして遠目とおめ遠耳とおみみの持ち主?」


 数ある特殊能力の中でも有名なのがこの二つだった。本来であれば見ることのできない遠くを見ることができる遠目。通常の聴覚では聞き取れない遠くの音を拾える遠耳。

 どちらも決して使い手の多い特殊能力ではないが、軍や政界で重用され、史書にも多くの記述が残されているため、よほど無学な人でなければ知っている。さらに発力者が遺伝によらないため、見つかるたびに話題になることも知名度を高めている一因だった。


「さぁな。よく言われるのは確かだが」


 かわすような答えを聞いてショウの興味に火がついた。身を乗り出すようにしてさらに尋ねる。


「よく言われるってことは違うってことか? じゃあ一体何の……」

「おい。――いいのか?」


 トーンダウンしたその声に、さっと血の気が引いた。先ほど抱いた恐れがぶり返す。

 一気に冷え込んだ室内に体が震えた。ショウはアキトが大変な大物だと理解したばかりだったはずだ。にもかかわらず、本人の能力を暴こうとするかのような発言はあまりにも軽率だった。気さくに見せていても、それだけの人物ではないというのに。気づいたときには頭と胴が切り離されていてもおかしくない、そういう相手であることをショウは失念していた。

 真冬の夜のような沈黙が落ちる。ショウは肩を縮めて断罪されるのを待つ。


「――愚か者が」


 吐き捨てるように言ったあと、アキトはやれやれと首を振った。途端に、直前までの触れれば切れそうな、張りつめた空気が緩む。

 ショウはゆっくりと息を吐き出した。だが、背中を伝う汗は冷たく、しばらくの間、引きそうになかった。


「まぁ、可愛いユウキちゃんのためだからな。全面的にバックアップはする。潜入と脱出はお前に一任するってことでいいな? 見張りと多少の情報操作は受け持ってやってもいいが」

「あ、あぁ。……はい。お、お願いします」

 ショウはギクシャクとしながら頭を下げた。



 それから細部を詰めにかかった。アキトはすでに状況のほとんどを掴んでおり、その詳細を聞くにつれてショウの顔が強ばっていく。


 正直なところ、ショウは今日このまま救出に行くぞと言われることも覚悟していたが、少女を取り巻く環境はそんな生易しいものではなかった。これには相応の準備が必要だ。ショウはそれらを素早く計算し、段取りを組んでいった。

 その最中、ふいにショウはこれが闇屋への依頼であるという事実を思い出す。


「あ……その、お代はどうすればいい?」

「あぁ、それは――いずれ」

 アキトがにたりと笑った。


 かの有名な闇屋の値段が安いはずなどない。ショウはぶるりと体を震わせ、先のことは考えないことにした。どちらにせよ、すでに手遅れだ。



 作戦の決行は明日の夜。

 夜が更けるまで話し込み、そしてショウは難しい顔のままアキトと別れた。

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