1-5. その正体は(1)

          *


 目を開けると、見慣れない石組の天井が見えた。ユウキは束の間ぼうっとそれを眺め、やがて目を瞬かせる。そして、ふいに警察隊に捕まったという現実を思い出した。


 ――ここ、どこ? 今はいつ?


 警察隊に捕まったのだから、当然、ここは詰所の中にある牢屋だろう。どのくらい眠っていたかまではわからないが、少なくとも体が痛むほど長く寝ていないことは確かだ。

 無意識に起き上がろうとして、咄嗟にそれを留める。代わりに息を殺し、目だけを動かして周囲の様子を探った。


 小さな正方形の部屋だった。壁は天井同様石組で、特に土が塗られることもなく、組み上げられた状態のままむき出しになっていた。その壁の上方に小さな明かり取りの窓がついている。

 室内は薄暗いが、真っ暗ではなかった。それにより、今が夜でないとわかる。


 動かずに見える範囲の確認を終えると、ユウキは耳を澄ました。辺りはほぼ無音で、人の声や呼吸、衣擦れの音もしない。

 どうやら近くに人はいないらしいとわかり、ユウキは詰めていた息を吐き出した。そしてゆっくりと上体を起こす。


 頭がくらりとした。バランスを崩し、慌てて壁に手をつき支える。心なし吐き気がするのも気のせいではないだろう。

 連れ去られたときのことを思い出そうとすると、そのときの光景が絵のように切り取られ形で脳裏に浮かんだ。

 ユウキの腕を掴んで引きずり歩く男。振り返りながら叫ぶ自分。

 その向こうに見えるのは――。


 心臓が一つトクンと跳ねた。と同時に脳内の絵が切り替わる。

 無骨な馬車に押し込まれる自分。容赦なく閉じられるドア。

 横から伸ばされた大きな手と白いハンカチ。遠のく意識。


 このときのハンカチに意識を飛ばすような薬が染み込まされていたのだろう。そこから目を覚ますまでの記憶は一切ない。

 男たちの臙脂色の制服が脳裏にちらつく。思い出すだけでも呼吸が苦しくなった。見ずに済むならもう二度と見たくない。

 再び過去の光景が絵として浮かぶ。まだ本調子じゃないせいか、ユウキの意思とは無関係に現れては消えていく。

 今度は家の中だ。見慣れた台所。テーブルに置いたリンゴ。そして寝室――。


 ユウキはびくりと震え、体を硬直させる。一瞬、見えた光景に、慌てて首を振った。そして脳裏からその絵を消し去る。

 嫌な汗をかいていた。だが、それと引き換えにするように、ユウキを苛んでいためまいが落ち着いた。



 ユウキが寝かされていたのは思いのほかしっかりとしたベッドだった。そこからそっと足を下ろすと、ひんやりとした石に触れる。ユウキはその冷たさに驚き、すぐに足を引っ込めた。

 それから足元を探って靴を見つけたが、ユウキは釈然としなかった。


 ここにユウキを連れてきた男たちはわざわざ靴を脱がせたらしい。他に衣服の乱れがあるわけでもないため、おかしな意図があったわけではないとわかるが――。

 どうにもちぐはぐな印象だった。囚われの身にしては、さほど待遇は悪くない。個室で、そしてベッドまで用意されている。

 というよりも、このベッドこそがユウキを困惑させる元凶だった。起きて体が痛まなかったのは、このベッドがしっかりと綿の詰まったものだったからだ。これはユウキが普段使っているベットよりも質がいい。ベッドから降りて見れば、古びてこそいるが、高級品の部類に入るだろうことがわかった。


 だが、だからといってこの部屋に長々と世話になりたくはなかった。ユウキはベッドが寄せられた壁とは反対側の壁――そこにあるドアへと目を向ける。

 やはり牢屋というには少々異質だった。ドアにはのぞき窓もなく、外からは完全に見えない。部屋の出入り口はこの木製のドアだけだが、鍵はついておらず、押せば普通に開きそうだった。


 ユウキはコクンと唾を飲み込んだ。

 音をたてないように静かにドアに向かう。そして、ゆっくりとノブを回し――ため息をついた。


「開かない、か」


 内鍵はなくとも、外からは鍵がかけられているのだろう。予想はしていたが落胆するのは止められない。

 ユウキはあきらめてベッドに腰かけた。わざわざ騒ぎ立てて人を呼ぶまでもない。向こうが連れてきたのだから、待っていればそのうち誰かがやって来るだろう。

 ユウキの所持金はリンゴの一つも買えないわずかな金額だけだ。罪状が何かはわからないが、たとえ無実を証明できたとしても、この金額で、お金でしか動いてくれない警察隊は動かせない。しばらくここから出られないことはほぼ確定していた。


 ――ここにアキトおじさんがいてくれればよかったのに。


 詮無せんないことを考え、肩を落とす。アキトとはつい数日前に会ったばかりだから、またしばらくは会えないだろう。

 アキトはいつ気づくだろうか。ユウキが家にいないこと、それからジャンが――。

 頭の中で何かがはじけた。それ以上考えるなと、もう一人の自分が警告する。


「あ…あっ……」


 だが、容赦なく記憶が蘇る。家の中、寝室のベッドに横たわる――。


「――っ、嫌!!」


 ユウキは両耳をふさぎ、飛び跳ねるように立ち上がった。そして、ドアへと駆け寄り、強く叩く。


「誰か! 誰かいないのっ!! い、いるんでしょ! 出てきなさいよっ!!」


 見張りくらいいるだろうと声を張り上げたが反応はない。ユウキは泣きそうになりながら何度も何度も叫んだ。


「ねぇ! ねぇ、誰か……お願い……」

「――なんと騒がしい娘でしょう」


 ようやく返された声は年配の男性のものだった。丁寧でありながらもさげすみを隠さない無礼な口調。

 だがそんなことなどどうでもよかった。声が聞こえただけでほっとした。ユウキは今、どうしても一人でいたくなかった。


「お願い、開けて! 出して!」

「はいはい、開けますとも。開けますから、少し静かにしていていただけますかね」


 間もなく鍵が回され、静かにドアが外側へと開く。ユウキは一も二もなく飛び出した。

 それを止めたのは体格のいい二人の男だった。男の太い腕が馬柵ませのようにユウキの腹部と肩をしっかりと押さえている。そのユウキの正面には、白髪混じりの痩身の男性がいて、ユウキに冷めた眼差しを向けていた。


「このような娘があの能力者とは、分不相応な」


 急に頭が冷えた。男たちにしっかりと囲まれた状況に、何かを間違えた気がした。

 ユウキは一人が嫌だった。だが、こんな状況を想定していたわけではない。ましてや――。


「――誰?」

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。わたくしはこの屋敷の家令にございます。主人の元にご案内いたしますので、お話はそちらでお尋ねください」


 ユウキは気づいてしまった。この三人の服装は、ユウキが二度と見たくないと思ったあの臙脂えんじ色の制服ではなかった。痩身の男はかっちりとした茶色の上着を羽織り、ユウキを押さえている左右の男たちは、濃い灰色の揃いの上下を着ている。制服なのだろうが、ユウキには見覚えのないものだった。


 ――警察隊じゃ、ない。


 天地がひるがえるかのような衝撃だった。先程の部屋も牢屋に見えないと思っていたが、警察隊に捕まっているということに関しては疑いもしなかった。

 痩身の男が家令を名乗り、屈強な男たちは見知らぬ制服を身にまとう。

 ユウキは理解せざるを得なかった。ここは、警察隊の詰所などではない。ここは、上流階級に属する者の家だ。


 ユウキは蜘蛛の巣に絡め取られた虫であるかのような錯覚に体を小さく震わせた。

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