1-2. 少年の見たもの(2)

          *


 石畳を蹴る足音が軽快に響いていた。狭く急な下り坂を少年が勢いよく駆け抜けていく。

 生成きなり色の木綿のシャツに、麻を藍で染めたくるぶしまでのズボン。短い黒髪はつややかで、ひたいにはうっすらと汗を浮かべている。

 十六、七の小柄で活発そうな少年だった。


 少年が進む道の両脇には、真っ白な家々が建ち並んでいた。その白い壁は初夏の日差しを反射させ、家の陰で暗くなりやすい路地をまぶしいほどに明るく照らす。だが、そこに焼けるような暑さはなかった。大陸の北部に位置するチハルの夏は非常に涼しく過ごしやすい。南にある首都から避暑にやってくる貴人少なくなかった。


 とはいえ、この時期チハルが賑わうのは、夏の過ごしやすさだけが理由ではない。一番の理由は、主要な交易路が複数、この町を通っているためだ。


 その一つは、西の港町クダマから首都センリョウへ向かうための、中央の砂漠を北に迂回するルートで、主に海産物の加工品や珊瑚、貝を用いた装飾品などが運ばれる。夏場のみのルートだが、よく整備された人気の交易路だ。

 そしてもう一つは、チハルの東にある半島の国イリスから、センリョウもしくはクダマへと向かうルートで、主に翡翠や工芸品、それから火薬などが運ばれる。


 イリス国との交易は荒内海あらうちうみと呼ばれる内海を通る海路がメインだが、海路は天候に左右されやすいため陸路を利用する者も少なくない。特に個人営業の商人や旅人はその傾向が強かった。

 センリョウからイリスへは主に穀物が運ばれる。センリョウの北西には大規模な穀倉地帯があった。この一帯で採れる穀物だけで、ここ、シュセン国のおよそ八割の食糧が賄えると言われているほどだ。穀物はシュセン最大の売り物だった。


 港町クダマ、イリス国、首都センリョウという特色ある三拠点とチハルとを地図上で結ぶと、少しいびつな上矢印の形ができる。チハルはそのとがった先っぽに位置する町だった。

 北国にもかかわらず、チハルがここまで発展したのは、まさにこれら交易路のおかげだった。



 そんなチハルの中心地。時計塔のある中央広場まで来ると、少年は足を緩めた。この辺りから急激に人でごった返す。それもそのはず、この広場からまっすぐ南に市場が延びているのだ。少年の目的もまさにこの市場にあった。


「さて、まずは頼まれもんから片づけるか」


 少年――ショウは軽い足取りで市場へと足を踏み入れた。



 ショウが今、世話になっているのは大工の棟梁の家だ。四年ほど前に知り合い、今は見習いとして住み込みで働かせてもらっている。

 元々は首都センリョウの出身だが、五歳のときに母を亡くし、それ以来、父親とはうまくいかず、弱冠九歳にして家を出た。それからいくつかの町を巡り、やがてチハルへとたどり着く。


 当時の自分はずいぶんと危うい生き方をしていた。それを助けてくれたのが今、世話になっている親方だった。

 親方のおかげで今の自分がいる。実家で暮らしているときは、まさか自分が大工の見習いになるとは思いもしなかったが、ショウはこんな自分も悪くないと思っていた。


 とはいえ、親方は厳しい人だ。感謝はしているが、きついと感じることも少なくない。だから今日のような外出は特に気分が昂揚する。いつもの怒鳴り声が聞こえないだけで、いい息抜きになった。

 それに、こういうときは多少の寄り道も許されている。買うものを買ったらなるべく早く帰るよう言われてはいるが、言った方もまっすぐ帰ってくるとは思っていない――はずだ。


 ショウはきょろきょろしながら頼まれものを探し始めた。茶葉に煙草にインクに……頼まれたものは細々とした消耗品ばかりだが種類が多い。いくつかの店を回る必要があるだろう。

 そのとき、つんとシャツのすそが引っ張られた。驚いて振り向くと幼い女の子が立っていた。


「ねぇ、お兄ちゃん、これ買って?」


 女の子が腕を突き出す。その腕には籠に入れられた南国の果物があった。全く目にしないわけではないが、珍しい部類に入るだろう。


「んー……いくら?」


 ショウは買い食いが一番の浪費だと思っている。だが、今はちょうど喉が乾いていて、珍しく、たまにはいいかという思いが沸いた。


「二十メレよ」

「え、二十メレ? ちょっと高いんじゃね?」


 二十メレあったら安い古着が一着買える。珍しい果物ではあるが、十……高くても十五メレといったところか。


「……でも、おかあさんが、今は安くできないからねって」

 泣きそうな弱々しい声で女の子が答える。


 ショウは頭を掻いた。ここらの子どもはたくましい。これも売り込み戦略の一つだろうとわかっているのだが――。


「あー、もう、わかった。じゃあ、それ一つくれ」

「うん。ありがとう、お兄ちゃん」


 女の子はぱっと顔を輝かせた。その変わり身の速さにショウは苦笑するしかなかった。



 甘い果汁のあふれる赤い実をかじりながら、ショウは再び歩き出す。

 広場から離れるにつれて雑多な空気が増していった。チハルの市場は、広場から離れれば離れるほど場代が安くなる。

 ゆえに、広場近くでは大商人たちが品物を整然と並べているのに対し、市場の端では、どこから拾って来たのかというようなガラクタが積み上げられる。その店の違いが客層の違いにも繋がり、雑多な空気を生んでいた。


 しばらく歩いているとふっと、果物の甘い香りがただよってきた。さっきの女の子の店かな、と思って目を向けると、人混みの向こうから何やらもめるような声が聞こえた。


「そんなのおかしい。だって、一昨日はこれで買えたでしょ?」


 決して大声というわけではない。ただ、若い少女の声だからか、よく通る。ショウは野次馬気分で人垣の後ろから顔を覗かせた。


 何やら訴えているのは明るい茶髪の少女。ショウと同い年か少し下といったところか。

 少女の服装は麻のベストにスカートというごく一般的なものだが、その裾に朱色の刺繍が入っていておしゃれだ。布地のくたびれ具合から貧しい家の子なのだろうと窺えるが、くしゃりと癖のついた短い髪はふんわりと軽く、よく手入れされている。そんな姿にやっぱり女の子なんだなぁと無駄に思考を巡らす。


 対する店主とおぼしき男は四十歳くらいの親父だ。厳ついという言葉が似合う男で、この二人だったらどうしても少女を味方したくなるが――。


「だからー、この前の雨で駄目になったんだって」


 こんなやり取りをもう長いことやっているのだろう。店主はうんざりとした様子だ。


「だとしても、三日で倍の値段っていうのはひどいんじゃない?」


 ショウの目からしても、少女の態度は価格交渉の域を越えて必死に見える。このまま続けば警察沙汰になりかねない。警察隊の人たちは態度が大きいことが多く、あまり関わり合いになりたくないが。


「あのなぁ、嬢ちゃん。これからもっと値があがるぜ。これでも良心的な値段だと思うがね」

「でも」

「一つで二十メレ。二つで三十五メレ。これ以上は負けられないね。それが嫌ならよそ行きな。うちじゃ売れねえよ」

「そんなっ」

 少女は店主の言葉に大げさなほど肩を落とした。


 少女が買おうとしているのはリンゴだ。この辺りでも収穫できる果実のため、それほど値段の高いものではない。確かに店主が口にしたのは普段の倍の値段だが、雨で果樹園に被害が出ているというのならあり得ない価格ではなかった。


「――じゃあ、これを代わりにできない?」


 少女が懐から小さなサイコロ状のものを数個取り出した。半透明で、水色や黄色、黄緑などの淡い色がつけられた可愛らしい見た目をしている。


「なんだそれは」

 店主がいぶかしげな顔をする。


 だが、ショウは違った。少女がそれを出した瞬間から、それに目が吸い寄せられる。

 ショウはこれが何であるか知っていた。


「風の実って言うの。こうするとね――」


 少女はそれを一つ摘まむと指先に挟んで力を入れた。そして間もなく、パチンと小さな音を立てて弾ける。

 その途端、風が沸き起こった。

 ショウはとっさに手で顔を覆う。突風とまではいかないが、衣服の裾が大きく舞い上がる。風は渦を巻くように周囲の人々の裾をもてあそび、やがて通り抜けて行った。


「おおっ!」

 どこからともなく歓声が上がった。


 何も知らなければショウも一緒に歓声を上げていただろう。だが、それどころではなかった。ショウは手からかじりかけの果物が落ちたことにも気づかずに、その少女に見入っていた。


 ――まさか、この子が……?


 風の実――それはショウがずっと探していた特殊能力者たちにしか作れないものだった。使うだけなら誰でも使えるが、この稀少な風の実を複数持っているということは、この少女が作り手である可能性が高い。

 ショウは自分の目で見たものが信じられなかった。


「こんなふうに風が起こせるの。……これじゃあ駄目?」


 少女は得意げになるでもなく淡々と言った。一方の店主の親父はというと、逃げ腰で青ざめた顔をしていた。


「お、おま…お前は――」


 店主は何かを言いかけ、だがすぐに言葉を飲み込む。代わりに吐き出されたのは拒絶の言葉だった。


「――ど、どっか行ってくれ!」


 店主は店からリンゴを二個取って少女に押しつけると、お金も風の実も受け取らず、少女を押し返す。


「それやるから早く! それでもう二度と来ないでくれ!」


 少女は押されるがまま、店から離れる。そして店主の手が離れると呆然と立ち尽した。

 少女の視線は押しつけられたリンゴと目を合わせようとしない店主との間を行ったり来たりして、やがて周囲の注目を集めていることに気づくと慌てて踵を返した。

 一度は歓声を上げた周囲の人々も戸惑い気味に眺め、少女が人混みにまぎれると店を離れていった。



 一連の騒ぎの間、ショウは微動だにできなかった。鼓動は早鐘を打ち、頭はパニック状態だ。

 実家を出て八年。ずっと探していても見つけられなかった風を扱う特殊能力者、風捕かぜとり。その風捕りとまさかこんな普通の場所で出会えるなど、誰が予想しただろうか。

 この出会いは奇跡だった。


 ――どうしてここに? 今までどこに?


 何もわからない。だが、一つだけ確かなことがあった。このチャンスをのがしたらもう二度と出会えないかもしれないということだ。


 ショウははっとして少女のあとを追う。少女の消えた人混みを見れば、少し先の所にわずかな空隙が見える。あまり背の高くない少女の頭上の空間がそう見えているのだろう。時々、明るい茶髪が見えるから間違いない。

 ショウは足を早めた。たびたび背伸びをして、少女がいると思しき場所を確認しながら人をかき分けていく。

 だが、市場には人があふれ返っており、追いかけるのは至難の技と言えた。



 ショウはこのチャンスを逃してなるものかと必死に追った。

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