1-1. 革小物屋(2)

          *


 ユウキがアキトと別れた数時間後。まだ人の多く残る市場に、重い足取りで歩くユウキの姿があった。


 アキトと話していたとき、辛うじて保たれていた笑顔は暗く沈み、通りを行き交う人々が怪訝けげんそうな顔をしてユウキをけていく。よく晴れた日であるからなおのこと、暗い表情のユウキは周囲から浮いていた。

 そんな人々の反応にユウキは気づいていなかった。耳をつんざくような市場の喧騒も、今のユウキの耳には届かない。


 ユウキは今、ジャンのことで頭をいっぱいにしていた。胸の内は不安にあふれ、ジャンの姿を思い浮かべるだけで、心臓がぎゅっと強く握られたように痛む。

 ジャンの容態は日ごと悪くなっていた。チハルに移り住んでからずっと頼りにしてきたアキトにさえ、詳しい病状を話せないほど。


 今朝まで降り続いていた雨がいけなかった。家の中にいるジャンが直接雨に濡れる事はなかったが、湿度や気温の急激な変化は弱った体には大きな負担となった。ジャンが床についたのは一週間前のこと。この雨が降り始めて間もないころのことで、それ以来、微熱や関節痛が続き、ジャンは起き上がることすらままならなくなってしまった。


 今日の売り物とて、よく売れたから残りが少なかったのではない。ジャンが新たな革小物を作れなくなって、単に売れるものがなかっただけだ。

 明日はもう一つもない。でもそれでよかった。これでようやくジャンのそばにいられる。


 本当は、今日も昨日もその前も、ずっとジャンのそばにいて看病していたかった。けれどジャンはそれを許さなかった。

 ジャンは言う。自分の面倒は自分で見れる。だから、お前は働け、と。


 ジャンはとても頑固だ。無理にユウキが家に残ったとしても、何一つとして面倒を見させてはくれないだろう。むしろ、一人で大丈夫なことを証明しようと無理をして、病を悪化させてしまうかもしれない。

 それくらいなら、多少でも収入を得て、薬代の足しにした方がいい。そう思ってユウキは市場に出た。

 けれど、来てすぐに後悔した。もしかしたらジャンは一人で困っているかもしれない。熱が上がって苦しんでいるかもしれない。何もできなくてもそばにいれば気づいてあげられるのに、どうしてそばを離れてしまったのだろう、と。

 仕事中は考えないようにしているからまだいい。けれど帰る頃になると、また別の不安が頭をもたげた。


 ――もし家に帰って、ジャンが冷たくなっていたら。


 それはとてつもない恐怖だった。けれどそんなことを想像してしまうほどジャンはやつれていた。太くたくましかったジャンの腕は骨と皮だけになり、目のまわりも落ちくぼんで、顔立ちまで変わってしまった。

 今だって、早く帰ってジャンの顔を見て、早く安心したいと思っているのに、怖くて足が進まない。もしジャンを失ってしまったら――ユウキはもうどうやって生きていけばいいのかわからない。

 ジャンはユウキにとって唯一の家族だ。血は繋がっていない。けれど自分を育てたのも、一緒に暮らしてきたのもジャンに他ならず、かけがえのないたった一人の祖父だった。



 ユウキがジャンに拾われたのは四歳のときのこと。

 ジャンが暮らしていたのは、人里から遠く離れた荒野だった。人が訪れることなど皆無に等しい極北の辺境の地。その岩場の陰に小屋を建て、ときおり近くの――といっても日帰りでは行けないが、村へと行って生活に必要な物を得る。その暮らしはユウキが来たあとも変わらなかった。


 ジャンが本当の祖父でないことはほとんど初めからわかっていた。それでもユウキは幸せだった。獣を狩り、皮を加工し、革小物を村に卸して……そんな平穏な日々を繰り返していた。

 こうしてずっとひっそりと暮らしていくのだと思っていた。ジャンは自分よりも先にくだろうけれど、その頃にはユウキは大人になっていて、きっとちゃんと見送ってあげられるだろうと思っていた。


 けれど転機は思いのほか早くやってきた。

 いつものように狩りに出かけ、いつものように仕事をして、近くの村へと品物を卸しに行こうとしたとき――突然、ジャンが倒れた。


 小屋の入り口で、ジャンは胸元を固く握りしめ、横たわった状態で背を丸める。口からは低い呻き声が漏れ、額には汗が浮ぶ。苦痛にゆがんだ顔には跡が残るのではないかと思うほど深いしわが刻まれ、肌は赤黒く変色していた。


 咄嗟とっさのことにユウキは全く動けなかった。ただジャンの傍らに膝をついて、自分の両手を握り締める。震える指先からは感覚が失せ、冷えきっていた。

 目の前の光景がとても信じられなかった。ユウキはずっと、ジャンだけは病にかからないと思っていた。体格がよく腕力もあり……ジャンを前にしたら病など裸足で逃げ出すと思っていた。ジャンだけは絶対に病気にならないと思っていた。


 それが単なる思い込みに過ぎなかったのだと、このとき気づかされた。同時に、ジャンは自分が思っているよりもずっとずっと早く逝ってしまうということにも。

 幸い、このときの発作は休むことで治まり、大事には至らなかった。だが、また同じことが起らないとも限らず、そして、次も無事だという保証はどこにもなかった。


 一般に六十まで生きれば大往生だと言われるこの時代。ジャンはすでに六十を過ぎていた。それはいつ亡くなってもおかしくない年齢だということでもあった。

 この日から、ユウキの中に拭いきれない恐怖が巣食い始めた。自分が大人になるより早く、ジャンは逝ってしまうかもしれない――。


 当時、ユウキたちが住んでいた小屋は、一番近い村からでさえ一週間ほど歩かなくてはならない辺鄙へんぴな地にあった。助けを呼びに行っても間に合わないのはもちろんこと、たとえ間に合ったとしても、そこに医者はおらず、村人の知恵を借りるのがせいぜいだった。

 だからこの辺りの人々は皆、病にかかった時点で死を覚悟する。それを当たり前のこととして受け入れていた。


 けれど、ユウキには無理だった。ジャンが死んでしまうかもしれないと考えることすら耐えられなかった。

 ユウキはジャンに頼み込んだ。どうか医者のいる町に引っ越してもらえないか、と。

 当然ジャンは渋った。こんな辺境の地に住んでいる時点でジャンもただ人ではない。こんな場所に暮らすのは世捨て人か何かだ。これまではっきりと聞いたことこそなかったが、そのことはユウキも肌で感じ取っていた。だからジャンに、この地に骨を埋めるつもりで暮らしてきたから無理だ、と断られても驚きはしなかった。


 だからといってユウキがあきらめることもなかった。ジャンに一人きりでの外出を許さず、付きまとい、事あるごとに町に出ようと訴えた。ジャンはジャンで頑固で、決して頷かず、いつもユウキの訴えを聞き流した。

 だが、そんなジャンの態度がある日、突然、変わった。ちょうど村に品物を卸した帰り道だった。


「……そうだな、ユウキ。あと一度だけ村に品物を卸したら、町に行こう」


 いぶかしんだのは一瞬で、すぐに喜びと安堵あんどが込み上げる。これでジャンをちゃんと医者に診せてあげられる、と。

 そんなユウキをジャンは複雑そうな、けれども優しい眼差しで見つめていた。そしてその翌月、住み慣れた北の辺境の地を離れ、そこからかなり南下した先の町、チハルへと移り住んだ。シュセン国でもまだ北に位置する町ではあったが、これまで暮らしていた場所に比べればはるかに過ごしやすい環境だった。


 それが一昨年、ユウキ十三歳、ジャン六十二歳のときのことだった。



 ジャンの突然の心変わりは、ユウキを思っての決断だったのだと今ならわかる。まだ若いユウキに、自分と同じ世捨て人のような生活を送らせてはかわいそうだと考えたのだろう。


 あのときは頭がいっぱいでそんなジャンの考えには気づけなかった。けれど、それでもよかった。ユウキにとってはただ医者がそばにいるということが重要だった。

 今もその気持ちに変わりはない。町に出てきてよかったと思っている。けれど、初めに想像していたような安心感はなく、むしろ恐怖は増していた。

 天はユウキに厳しい現実を突きつける。



 町に出てきたからといって、時が止まってくれるわけではないのだ。

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