第一章

1-1. 革小物屋(1)

 大陸の北部に位置するシュセン国が、「非人道的国家」という烙印らくいんを押されるきっかけとなった荒内海あらうちうみの大戦がとりあえずの終息を見せてから十五年。人々は、特に大人たちはわだかまりを抱えたまま、けれど決してそれを表に出すことなく日常を過ごしていた。


          *


 爽やかな夏の日が降りそそいでいた。一週間近く降り続いていた雨はようやく上がり、この瞬間を待ちわびていた人々がわっと町へと繰り出した。


 シュセン国北部の町、チハル。ここでは毎年夏の間、大規模な市が開かれる。特に今日は久しぶりの晴天とあって、市場は大勢の人であふれかえっていた。その店々はというと、多くは地べたに敷物を敷いただけの簡素な店で、果物や野菜などの食料品をはじめ、日用品、工芸品、異国の芸術品などが売られている。中には用途のわからぬ怪しげな物体もあり、一部の蒐集家しゅうしゅうかたちの目を引いている。


 国中からありとあらゆる物が集まる市場。それを毎年見ているこの町の住人の目は肥えていた。少しでも粗悪品が混ざっていればたちまち店の評判は地に落ちる。そのため毎年、わずかな失敗に足を救われ、その年の商売を棒に振ってしまう新参者たちがあとを絶たなかった。


 そんな厳しい市場の中に、熟練の売り手に混ざる若い少女の姿があった。

 肩よりも短いくせっ毛に白い肌。耳にはあわい水色の真珠のピアスしており、それだけを見ればこの場に似つかわしくないお嬢さんのようにも見えた。

 だが、よく生地の馴染んだ木綿のシャツにズボンという出で立ちで敷物の上に胡坐をかいている姿が先の印象を打消す。一目で労働者とわかる姿だった。


 その少女が扱っているのは革小物だ。小銭入れや革財布、キーホルダーなどが目の前の敷物に丁寧に並べられている。それは少女の祖父、ジャンが作ったものだった。

 とそのとき。ふいに少女が膝立ちになった。その視線の先にいるのは少女よりだいぶ年上の青年だ。


「ね、ね、そこのお兄さん。そう、お兄さんだよ」


 少女は青年と目が合うと早速売り込みを始めた。


「この革財布とかどうかな? お兄さんにぴったりだと思うの。これ、作りがすごくしっかりしてるから、長持ちするよ」


 青年はその言葉につられて少女の手元を覗き込む。少女がその革財布を手渡すと、青年はじっくりと眺めたあと、確かに、と頷く。


「ね、いいでしょう? 一つ買っていってよ」


 そこから値段交渉が始まる。市場ではこんなやり取りもお客の楽しみの一つだった。青年は少女の押しの強さに苦笑しながらもその革財布が気に入ったようで、ほとんど値切ることなく買っていった。


 その後も一つ、二つと商品が売れ、やがて日が頭上へと達した。

 この日差しで地面も随分と暖められたのだろう。地表近くでは水分が湯気のように立ち昇っている。少女はそこから上へ、見えない蒸気を追うように空を見上げ目をすがめた。

 空は青く澄んでいた。空気が雨に洗われたためか、いつもより青い。だが、これもしばらくすればかすみがかってくるだろう。午後は少し蒸すかもしれない。そんなことを少女――ユウキは考えた。


「そっか、もうお昼なんだ」


 早朝から店を開けていたユウキは、これまでほとんど休憩をとっていなかったことを思い出し――それに気づいた途端、どっと疲れを感じた。じんわりとにじんだ額の汗をぬぐいながら、休憩にしようと後ろに置いていた水筒へと手を伸ばす――。


「なぁーこれいくらー?」


 ユウキはびくりとした。その勢いで水筒を倒し、けれど、何ごともなかったかのように取り繕い、姿勢を正して客へと笑顔を向ける。


「いらっしゃいま――」


 客を見たユウキは目を見開いた。すぐに胸の内から喜びが込み上げる。接客用の笑顔など一瞬で吹き飛んだ。

 そこには客のふりをした知人がいた。してやったりという顔をしているところがまたこの人らしく、ユウキは満面の笑みを浮かべる。


「よっ」

「アキトおじさん!」


 ユウキはぴょんと立ち上がり、そのままアキトの太いしっかりとした首に抱きついた。アキトも慣れた様子でその背を支え、一度軽く抱き上げてからすとんと下ろす。


「おぉ、おぉ、元気そうで何よりだ。お前さんは変わらんなぁ」

「アキトおじさんも」


 アキトは四十を過ぎたくらいだろうか。ユウキが十五であるから、知らぬ人は親子だと思うかもしれない。

 ユウキは少しだけ照れながらアキトから離れ、それから口をとがらせて文句を言う。


「でも、せっかく同じ町に住んでるんだから、もっと会いに来てくれてもいいんじゃない?」

「悪い悪い。おじさんは夜のお仕事だからなぁ」

 昼間は起きられないんだよ、といつもと同じ言いわけを繰り返し、くしゃっとユウキの短いくせっ毛をかき回す。


 アキトはいつもこうやってはぐらかすのだ。夜のお仕事と言えば女の子はみんな恥ずかしがって黙ると思っているのかもしれない。一度反論してやろうと思っているのだが――ユウキはなでられる手のくすぐったさに目を細め、ついされるがままになってしまう。


「少し痩せたか?」


 しばらくすると心配そうな口調でアキトが尋ねた。ユウキはそれではっと我に返る。それから慌てて首を振った。


「そ、そんなことないよ。アキトおじさんが久しぶり過ぎて忘れてるんじゃない?」


 確か前回、顔を見せてくれたのは二か月ほど前だ。十分通用する言い分だろう。

 だが、アキトは怪訝けげんそうに顔をゆがめた。その様子から、誤魔化せなかったかと焦るユウキだが――。


「んな馬鹿な。ほんの二、三週間で顔忘れっかよ」


 その答えにユウキはがっくりと肩を落とした。アキトの体内時計ではその程度の感覚らしい。


「……もう二か月だってば」

「え? そうだっけか。あー、まぁ……うん。それより調子はどうだ。売れてるか?」


 ごまかすように頭を掻きながらアキトは話題を変える。アキトだから仕方ないと思いつつ、ユウキはその話に乗った。


「うん、順調。見てのとおりよ」


 両手を広げて敷物を示す。残っている商品はもう数個しかない。


「ん、よかったな。――じゃあ、今日は早く帰ってじいさんの面倒をみてやるんだ?」


 ユウキはドキッとした。市場に出ている間、考えないようにしていた祖父のこと。

 ユウキの祖父、ジャンはもうだいぶ前から胸の病にかかっていた。


「――うん」


 不安をこらえながら何とか返事をする。だが、アキトが眉をひそめた。

 すぐに答えられなかったのは失敗だ。口を開きかけたアキトを見て、ユウキは慌てて言葉を挟む。


「ねぇ!」

「う、うん?」


 アキトは驚いた様子で体を引いて、目をしばたかせる。


「どうした?」


 尋ね返されてユウキは焦った。続きなど何も考えていない。何も聞かれたくなかったから、さえぎっただけだ。ユウキは思考を総動員させる。何か都合のいい話題はなかっただろうか――。

 と、そのとき、ひらめいた。アキトに相談するいい機会かもしれない。ユウキには数か月前から考えている計画があった。


「ねぇ。アキトおじさんって本当は何の仕事しているの? 娼婦さんたちのお店を経営してるってわけじゃないんだよね?」

「ちょっ、ま、待て。こんなところでそんなこと……」


 アキトが焦った様子で左右を見回す。ユウキは構わずに続けた。


「私、アキトおじさんの仕事、手伝えないかな?」


 アキトの表情が途端に強張こわばった。それから複雑そうな眼差しをユウキに向ける。

 また失敗した、と思うもののもう遅い。おそらくアキトはその言葉の裏に気づいてしまった。ユウキは顔をうつむかせる。


「ユウキちゃん……」


 アキトはユウキに座るようにうながし、自身もすぐ横に腰を下ろした。ユウキの店に割り当てられた区画は狭く、二人並んで座ると肩がぶつかってしまう。硬くがっしりとした肩に触れ、幼い頃、自分を抱き上げてくれたジャンの腕を思い出して切なくなる。


「じいさん、そんなに悪いのか?」


 あまりにも率直な問いにユウキは苦笑する。

 もうほとんど確信してしまっているアキトであるから、いまさら嘘をついても意味がないかもしれない。それでもユウキは正直に認めることができなかった。精一杯の笑みを浮かべて首を振る。


「ううん、おじいちゃんは相変わらずよ。そうじゃなくて、ほら……おじいちゃんが元気になったら、私、この仕事、お払い箱にされちゃうかもしれないでしょ? だから、ちょっと違う仕事も考えてみようかなって」


 アキトがじっと探るようにユウキを覗き込む。その視線にいたたまれなくなるが目をそらすわけにはいかなかった。それこそ嘘を言っていると明かしているようなものだ。

 やがて、アキトはあきらめたようにため息をついた。


「そっか」


 とても納得しているようには見えなかった。だが、それ以上聞かれずに済むことにほっとする。アキトにはこれ以上、心配をかけたくなかった。

 ジャンが病であることはアキトも知っていた。今、ジャンを診てくれているのはアキトが紹介してくれた医者だ。その医者はよく診てくれている。それだけで十分だった。


「それで、アキトさんのところだったら、おじいちゃんも反対しないと思ったんだけど……」

「んー、ユウキちゃんの頼みなら聞いてやりたいんだが……俺の仕事はユウキちゃんにはちょいと無理だなぁ。ユウキちゃんならどっかいいとこの家に仕えるとかそういった仕事のほうがいいんじゃないか?」

「それは……使用人ってこと?」

「そ。なんだかんだ言ってこの町には成金が多いからな。どっかしら募集してんだろ」

「うん……。でも、使用人って文字書けたり刺繍できたりしなきゃ駄目なんじゃ――」

「刺繍っ!」

 アキトが言葉の途中で噴き出した。ユウキは驚いてアキトを見る。


 アキトは口を覆って肩を震わせていた。その様子に恥ずかしくなったユウキはそっと顔を背けた。

 刺繍は高貴な女性の嗜みの一つだと聞いていた。いい家に仕えるなら必要な技術かと思っていたのだが――どうやら違ったようだ。


「くっ…あぁ、悪い。し、刺繍はできなくても問題ないだろう。……でも、そっか。お前さんもジャンも読み書きは駄目なんだっけか。計算はできんのに」

「やっぱり、読み書きは必要だよね……」

「いや、大丈夫じゃないか? 仕事は大体、掃除とか洗濯とかそんなんばっかだと思うぞ、おじさんは」

「そうかな?」

「そうだとも」

 アキトは大きく頷いた。ユウキは少しだけほっとする。


 この辺りでは、裕福とは言わないまでも並み以上の家庭ならともかく、貧しい家の子どもたちは文字を学ばない。お金持ちの人たちと契約をするときに名前を書く必要が出てくることがあるため、名前くらいは書けるように努力するが、そこ止まりだ。

 ユウキも名前こそ書けるが、他は読むことすらできなかった。


「ユウキちゃんもちょっとは考えたことあるみたいだな。どっか心当たりでも?」

「うん、少しね」

「どこだ?」

 アキトがすかさず聞き返した。


 ユウキが考えている仕え先は何故か余所より給金が高い。そこが引っかかっていたためはぐらかそうとしたのだが、まるでそれを察知したかのようにアキトが追及してきた。それも興味本位ではなく、ユウキを心配してのことだとわかるから余計困る。

 アキトはユウキが二年前にこの町に来てからずっと、娘か妹のように面倒を見てくれた。その厚意を無碍むげにはしたくない。


「マカベ様のお屋敷。この前来たお客さんが教えてくれたの」


 するとアキトはあごをさすって考え込んだ。ユウキはその横でびくびくとしながら答えを待つ。


「マカベ様のお屋敷ねぇ……正直、あまり賛成はしたくないなぁ」

「……どうして?」

「んー、ちょいとよくない噂が――」


 そこでアキトがはっとしたように言葉を切る。それからユウキを見て、手でひたいを覆った。

 当然、そんなところで言葉を切られて気にならないわけがない。ユウキがじっと続きを待っていると、アキトはあきらめとともにため息をついた。


「まぁ、あるんだよ、そういう噂が。いわゆる金の亡者ってやつでな。お金のために結構危ない橋を渡っているって話だ」

「それは……犯罪に手を染めてるってこと?」

「そこまではわかんねぇけど」

 アキトは断言しなかった。アキトが言葉を濁すのは珍しく、ユウキは眉を顰めた。


 アキトはかなりの事情通だ。だから言葉を濁したのは真偽がわからないからではなく、ユウキを気遣ってではないかと疑う。

 ユウキがちらりとアキトをうかがうと、アキトはアキトで心配げにユウキを見ていた。


「――もし本当にそこで働きたいなら、俺がついてってやるから声をかけろよ。文字もろくすっぽ読めねぇのに、一人で契約なんかすんじゃねぇぞ」


 アキトに反対されてまでマカベ家で働きたいとは思っていない。ユウキの耳に届いていないだけで、使用人の募集は他でもしているだろう。また時間があるときに探してみればいい。アキトもきっと探してくれるだろう。


「うん。わかった」


 それからしばらくアキトがいなかった間の出来事を話したり、アキトが見つけた珍しい売り物の話をしたりと他愛のない会話を続けた。市場の喧噪にまぎれて、時折ユウキやアキトの笑い声が響く。

 そのうちに、ユウキの店を覗くお客が現れた。アキトはすばやく立ち上がるとユウキの元を辞す。


「あ、アキトおじさん。次はもっと早く来てね」


 お客の横をすり抜け、人混みの中に消えていく背に向かってユウキは叫んだ。アキトは片手を上げて了承の意を示すが、ユウキはそれを信用しなかった。次は今回より一週間でも早く来てくれればいいのだが――。


 人混みの隙間から見えた空にはいつのまにか霞がかっていた。

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