風捕りの娘

露木佐保

序章

* 天の遣い

 長い冬が終わろうとしていた。

 てつく大地の上を駆け抜ける、刃のように鋭かった風が、いつの間にか柔らかく湿気を帯びたものに変わっている。

 老人は青く澄み渡る空を見上げた。


 ――間もなく嵐の季節がやってくる。



          *


 例年より少し早い嵐がやってくる。

 老人がそれに気づいたのは今朝のことだった。この辺境の地にやってきてはや数年。勘……いや、体が嵐の到来を察知するようになった。

 嵐がくれば一週間は雨風に耐えなくてはならない。老人も、老人が住むこの小屋も。

 「春の嵐」と呼ばれるそれは、春という言葉から連想されるような生易しいものではなかった。

 夏の長雨は恵みの雨だが、春の雨は破壊の嵐だ。木々をなぎ倒し、あられを降らし、激しい雷をいくつも落とす。そして冬のすべてを否定するかのように大地を蹂躙じゅうりんし、寒い冬を耐え抜いたありとあらゆる生命を奪っていく。

 そんな嵐であるから当然、嵐の最中に外出などできない。そのため毎年、事前に小屋の補強や食料の確保などをしておく――のだが、今年はまだだった。

 老人は自分の読みの甘さに舌打ちした。だが悔やんでいる時間すら惜しく、飛び出すようにして小屋を出る。


 外に出ると途端にやいばのように鋭い風が吹きつけた。極力肌が露出しないようにしていても完全には防ぎきれず、切れるような痛みを感じる。この地の冬は厳しく、大地は完全に凍ってしまうが、乾燥しているためか雪は降らず、周囲は荒涼とした景色を見せていた。

 取り急ぎ窓だけは割れないよう外から木材を打ちつけ、そして出発する。

 老人の背にあるのは猟銃。食料を確保するため、普段狩りをしている森へと足を向けていた。

 冬の終わりのこの時期、食料になりうるのは森の獣たちだけだ。といっても多くは冬眠しているため、数は非常に少ない。そのため毎年、老人と獣との間で命を懸けた厳しい戦いが繰り広げられていた。


 かなりの距離を歩いて、老人が狩場としている森にたどり着いたとき、そこはしんと静まり返っていた。

 嵐の到来は老人ですらわかるのだ。感覚の鋭い獣たちが気づいていないはずがなかった。当然、周囲に獣の姿はなく、その気配を感じることもできない。

 だが、あきらめるわけにはいかなかった。冬前から用意していた食料は、おおむね春の嵐の到来に合わせて尽きる。今、小屋にある食料は今以上に節約しても三日分にしかならなかった。よしんばそれで嵐の間を耐え抜いたとしても、嵐が去った頃には動けなくなっているだろう。そうなるともう猟にも行けず、食料確保の手段が絶えてしまう。

 独り身の老人だ。食料すらない状況で動けなくなるということは、そのまま死を意味する。老人に選択肢などなかった。

 静まり返った森の中を、老人は忍耐強く捜し歩く。

 獣たちが普段移動に使っているけもの道。獲物を狙う獣がよく待ち伏せをしている茂み。夏になると水飲み場と化すれ川。

 いずれの場所においてもかなりの時間待ち伏せたが、獣が姿を見せることはなかった。

 そして、ただ時間ばかりが無為に過ぎていく。



 半日近くが経過しても、状況は変わらなかった。

 ここまでか、と絶望が老人の胸をめる。これが天の意思だというのであれば、素直に受け入れようと老人は思った。

 そんなとき、薄暗い森の奥で何かが動いた。目を凝らしてみれば、そこに覚束ない足取りの小鹿がいた。

 老人は息を詰めて身を隠す。咄嗟のことに動揺しつつも銃を構え、かじかんだ指を引き金にかけた。

 小鹿はまだこちらに気づいていない。その無防備な肢体を老人の前に晒し続けている。

 老人は引き金を引いた。大きな銃声が鳴り響き、弾は吸い寄せられるかのように一直線に小鹿の元へと飛んだ。

 小鹿が地面を蹴ると同時に振り返る。その視線が一瞬、老人とかち合った。

 だが、もう遅い。もう弾は小鹿の目前に迫っている。

 弾が命中した。

 小鹿は体を大きくのけぞらせ、そのまま木の根の間に埋もれるように倒れた。

 再び森に静寂が戻る。老人はゆっくりと息を吐いて銃を下ろした。

 思いのほか緊張していたようだ。引き金から指を外すだけでも一苦労といった状態で、そんな自分に苦笑した。

 だが、これで食料の心配をせずに済む。そう胸をなで下ろし、そのとき初めて周囲の様相が激変していることに気づいた。

 もともと薄暗かった森であるが、今は夜のように暗い。風もまた木々がさえぎってくれているにもかかわらず、老人のマントを大きくはためかせていた。


「しまったな。無事に帰り着ければいいが」


 木々の隙間から見える小さな空を見上げて独りごちる。分厚い雲で覆われた空から察するに、雨もまた家に帰り着くまで持たないだろう。

 老人は捕えた小鹿を板に乗せて引きずりながら帰路につく。簡単には去らないとわかっている嵐に対して、雨宿りをしたところで一時しのぎにすらならない。むしろ身動きが取れなくなり、より一層危険な状態におちいることがわかりきっていた。

 しばらく歩くと森の外に出た。この先には、夏には湖沼こしょうとなる荒野が広がり、さらに先にある岩場のそばに、老人の住む小屋はあった。

 荒野に足を踏み入れてすぐ雨が降り出した。ほぼ真横に降る雨はまださほどひどくはないものの、風のせいでたたきつけられ、むき出しの肌が痛む。老人はすぐに顔を伏せ、身を小さくして進んだ。


 荒野の半ばあたりまで来たところで老人は足を止めた。

 呼吸が乱れていた。真冬にもかかわらず、こめかみを汗が伝う。風にあおられながら、少なくとも二十キロはあるだろう小鹿を引きずって、道なき荒野を歩いているのだ。疲労を感じるのも仕方のないことだった。

 だが、老人が足を止めたのは休むためではない。老人が無意識に張っていた警戒の糸に触れるものがあったためだ。

 老人は注意深く辺りを見回し、警戒を深めた。

 轟々ごうごうと吹き荒れる風の音や、激しく地面を打つ雨の音。その中に、つい先ほどまではなかった風を切るような高音が混ざっている。それはまるで誰かが笛を吹いているかのような音だった。

 ごくまれに耳にする音ではある。だが、突然の変化だったことが気にかかっていた。突風が吹き抜けるか、風向きが急変するか、いや、例年のことを考えるならば、ひょうや霰が降ってくることを警戒したほうがいいかもしれない。

 しかし、しばらく待つもののそれ以上の変化はなかった。気にするほどのことではなかったかと思い、再び前を向き――顔を歪めた。

 老人の向かう先、十メートルほどのところに白く丸い塊が落ちている。強まった雨が視界をかすませるものの、老人の目にはそれが人、それもかなり幼い子どものように見えた。

 まさかと思いつつも老人はその白い物体に駆け寄る。

 幼い少女だった。

 白い服に身を包み、枯草の上に横たわる少女の表情は穏やかで、ウサギのぬいぐるみを抱いてすやすやと眠っている。老人は少女を抱き起そうと手を伸ばし、触れる直前でその手を止めた。

 えも言われぬ違和感が老人を襲う。眉をひそめ、少女を見直し、そしてその原因に至る。


「なんと……」


 老人は目を見張った。少女が横たわるその一帯だけ風がやんでいた。雨もまた、少女を避けるように流れていき、それが普段と違う音を生んでいる。風の音が変わったのもこの影響だろう。

 非常に不思議な光景だった。まるでそこに見えないまゆがあって、それがゆりかごとなって中の少女を守っているかのようだった。老人が伸ばした手も、その中にある部分だけは少女と同じように雨風の影響を受けていない。

 まれに、特殊な力を持った子どもが生まれるという話は老人も聞き知っていた。この少女もそうなのだと考えれば別段不思議なことではない。だが、この誰もいない、何もない荒野に、ぽつんとこの少女がいた。そのことが奇妙……いや、奇跡のようだった。

 老人の心が粟立った。捨てたはずの過去が襲い来る。

 老人は天を仰ぎ問うた。どうして自分の前にこの少女が現れたのか。この幼い少女は天が老人につかわせたものなのか、と。

 天は老人の罪を知っているだろう。老人と少女、未来を生きる命。未来を創る命。これほど自分と似つかわしくないものはない。それを知ってなお自分の前にこの少女を遣わしたのだとしたら――。

 老人の老い先は短く、もういつ生を終えてもいいと思っていた。それなのに、天は老人にまだ生きよというのだろうか。

 老人は深くため息をついた。

 たとえ天の加護があろうとも、幼い少女をこのままにしておくわけにはいかないだろう。マントを屋根のように広げて、少女を自分の胸に抱き寄せた。その小さな体は体格のいい老人には簡単に抱えられたが、少女を抱えた状態で獲物まで運ぶとなると少々厳しい。

 老人は抱き寄せた少女を背中に回した。マントからは手足どころか顔も出せないが、この雨である。少女にとってはむしろこのほうがいいだろう。

 片手で少女を支え、それとは反対の手で獲物を引きずり、老人は再び歩き出した。

 先ほどより強まった雨風が容赦なく老人を襲う。その風にたたらを踏みつつ、しかし、少女が冷え切る前に小屋にたどり着かねばと老人は足を急がせた。


 ――特殊能力者か。


 老人は顔をいびつにした。一見、嫌悪のように見えるその表情は、深い悔恨の念に染まっていた。


 ――何もこんな罪人の元に来なくともよかろうに。



 大陸の北部。ここは人が住むには厳し過ぎる環境だった。冬の寒さも、春の嵐も、もしかしたら、夏の長雨でさえも。

 そんな過酷な地に、老人は住んでいた。

 けれどこの日から、老人は一人ではなくなった。

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