第30話 生きていくのは面倒だ

 僕が塵になっても、誰も困ることは無いだろう。そうなったら、泣いてくれる人はいるだろうか、と胸の奥に留め置いた。

「もしも夢なら、今までの事が全部、夢ならいい。生まれてきてから今までのこと、全部。君と、今ここで、こうしている事だけが現実ならいいのに。これから始まる事だけが現実ならいいのに」

「猫や彼女のことも、夢なんですか? 夢で、いいんですか?」

 レオはじっと動かずに黙り込む。すんっと鼻をすすり上げる音だけが聞こえる。

「クックは、コバンくんがひとりで赤ちゃんを生んだ日から、姿を見せなくなった。猫って死ぬところを飼い主に見せない、ってチャチャが言っていたけど、本当なのかな。どうして、みんないなくなってしまうんだろう。赤ちゃんもクックも……。オレの前から……」

 皮膚を伝わるレオの声が再び喉に詰まる。僕は仔犬の頭を撫でるように髪にふれた。指に絡んだ髪の毛から、メントールの香りがほのかに漂う。

「赤ちゃんがいなくなってから、コバンくんは、また前のように、すっかり喋らなくなってしまった。ベランダからグレープフルーツの樹を眺めながら、毎日泣いていたよ。チャチャは、忙しく日々を送っていれば、そのうち、嫌な事は忘れてしまう、と教えてくれた。だから、オレは、朝になると仕事に出るんだ。チャチャが一番いい方法だと言うから……。

 それなのに、それなのに、コバンくんがいたから、護りたかったから……それだけなのに……あの子まで……。クリスマス・イブだったんだよ。仕事が終わってから、商店街のケーキ屋さんで、小さなケーキをふたつ買って帰ったんだよ。ちょこんとサンタクロースがのっかってるだけの、イチゴのショートケーキだよ。コバンくんを最後に見たのは、ふたりでケーキを食べた、あの夜だ……。ケータイ握って、街の中、ぐるぐる回って、捜して捜して、一日中…………」

「……帰って……こなかったんですか……」

 レオがずるりと鼻をすすり上げると、かすれ声に鼻水が混じる。

「もう子供じゃないから、ってチャチャは言ったよ。雪が降り始めて、心配していたのに、チャチャはそんなことを言った。枯れ草だらけの庭に突っ立って、グレープフルーツの樹を見ているだけだった。コバンくんがいないのに。どうしていいのか分からないのに。だから……だから、ずっと部屋で待ち続けたよ。コバンくんの帰りを」

「ひとりで……部屋に籠っていたんですか?」

「他にどうしろっていうの? 同じなのに。チャチャだって同じなのに。チャチャだってオレと同じように、どうしていいか分からなかったんだよ。きっと、そうなんだよ。だってオレは、チャチャがいなかったら、とっくに死んでいたんだから。

 ううん。チャチャが、部屋に籠っているオレを見つけた時には、もう死んでいたのかもしれない。……オレは、多分、天国には行けないんだね。ちっとも良い人間じゃなかったから。きっとオレは、チャチャが来るまで、地獄の門の前で、じっと待っていたんだろうね。門が開くのを……。

 生きていくのは面倒なことばかりで、オレにとっては地獄の方がよっぽど良い所かもしれないのに……。どうしてチャチャは連れ戻しにきたんだろう。オレなんか、放っといてくれてもよかったんだ」

「……そうですね……面倒だ」

「そうだろう? 生まれた時から、もう死ぬことは決まっているのに、何のために生きているのか……」

「それは……分かりません……僕には……」

「あの日から、チャチャは毎晩顔を見せた。一歩も家から出ないで、コバンくんの帰りを待つオレのために、いつも食いもん持ってさ。いつ帰ってきても寂しくないように、コバンくんがやっていたように、蒲団にくるまって庭を眺めてばかりいるオレのためにさ。

 何もしていないのに、ただコバンくんと過ごした日々を思い返していたら、知らないうちに時間が経つんだよ。気が付くと、おせち料理の詰まった重箱を持ったチャチャが、部屋に居たこともあった。曜日も日付も分からなくなっているオレに向かって、ひとりで喋るだけ喋って……」

「……あの……仕事は?」

「仕事? ああ……忘れていた。どうなったんだろう……オレ、毎日毎日、死んだようにぼけっとしていたから。でもね、チャチャが傍にいると、少しは人間らしい生活ができるみたいだ。シャワーを浴びたり、飯を食ったり、そんなあたりまえのことができる……」

 そこでレオは、探し物でも見つけたように、「あっ」と声をあげた。思わず僕も、「え?」と訊き返す。

 僕の胸を押し退けたレオは、枕替わりにしていたスポーツバッグに跳びかかり、バッグを開こうとした。乱暴にファスナーを引っ張るので、スムーズに開かない。「そうだ、そうだ」と呟きながら、半分だけ開いたファスナーの中を掻き回す。

「ねえ、これ、充電させて」

 レオは充電器がぶらさがったままの携帯電話をバッグから出すと、両手に持って僕に見せた。

 僕はレオを舞台に上げ、さっきまで電子オルガンのプラグが差さっていた延長コードを指差した。レオの手元で光が点る。

「ここ、知ってる?」

 差し出された画面には、灰色の絵の具で塗りつぶされた空と、赤いとんがり屋根が写っていた。屋根の先に何かが出っ張って見えたけれど、画面に入りきらなくてよく判らなかった。

「教会?」

「……に見える? この建物にちょっと似てない?」

「そう言われてみれば……」

 旅の目的地は、この教会なのだろうか。

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