第29話 現実が夢

 涙の粒を喉に詰まらせ、レオは言う。

「寒くて……旅の途中はいつでも寒くて、怖くて……。でも、そんな時は、チャチャが抱いて眠ってくれるんだ。今の君みたいにさ。冷たい風が防げれば、どこで眠ったっていいんだよ。できるだけ、人目につかない、落ち着いた処を探してね。

 季節外れの海の家は、ちょっとだけ安らげたよ。清んだ夜空は星がたくさん輝いていたからね。潰れた店や工場を見つけた時は、ガラスの割れた窓や、穴の開いた錆びたシャッターを探して、こっそり忍び込んだよ。雨や雪に当たらなくてすむように、と。

 だけど、怖かったな。全部が……体に張り付く空気でさえ怖かった。怖くて、怖くて、狂ったように叫びたくなるのを我慢して、泣きながら、一生懸命に眠ろうと努力していたら、こんなふうに、チャチャは抱きしめてくれた。それだけで、オレは眠りにつけるから。

 チャチャはコバンくんとは違うんだ。ふたりともオレの大事な人だけれど……。コバンくんとオレとは半分こなんだ。ふたりでやっとひとり分……ううん、ふたり合わせてもひとり分に足りないかもしれない。だから、離れられない大切な人。

 チャチャは違う。もっと大きな、全身を温かく包んでくれる人。抱きしめてもらうと、いつの間にか、チャチャの体の中に、この手や頭が、ずくずくと融けて入っていくように感じるんだ。どこに自分の眼や鼻があるのか、判らなくなってくる。まるでチャチャに混ざってしまったようにさ。それが気持ちよくて、オレは眠れるんだ」

 レオは僕の背中に回した腕をきゅっと締めた。

 僕の触る物は、どれも冷たく硬く、眼を刺激する光を放ち、時折、熱を発していた。感情の無いそれらに逃避行すれば、一瞬の間に百年が過ぎてしまいそうだけれど、一度だって、気持ちいい、と思えたことはなかった。

 それなのに、腕の中にいるレオは、静電気を起こしながらベッドの上で纏わりつく化繊の毛布よりも、数十倍気持ちよかった。

「遅いな……」

 帰りの遅いチャチャを心配したのだろうか。トラックに轢かれて眼玉の飛び出した犬を思い出したのだろうか。また、レオは切れ切れの涙声になる。

「すぐに帰ってきますよ。あの人、頭いいみたいだし、強そうだから」

 幼い子を慰めるように、レオの背中をぽんぽんと叩くと、

「そうだね……チャチャは、どんなことがあっても、泣かない子だったから……」

 レオは鼻の奥に流れた涙をごくんと飲み込んで、じりじりと僕の胸に体を合わせてくる。

「子供の頃から、一度だってチャチャの泣き顔は見たことはなかったんだよ。だけど……昨日のチャチャは……いつものチャチャじゃなかった……どうしたんだろう」

 僕の首筋からレオの声が響く。

「いつもネットカフェやコインランドリーのシャワーで済ませていたんだけど、オレたち雪の中を歩いて寒すぎたんだよ。だから、偶々見つけた海沿いの温泉が我慢できなかったんだ。一緒に入ったのは、心底温まりたかったから、というのが一番の理由だけど、それ以外にも、オレは確かめたいことがあったしね。見たかったんだ。オレの刺した傷痕を……。

 でも……びっくりした。オレ夢でも見ていたんだと思った。だって、その時、裸になったチャチャの脇腹には、ハサミで刺した傷が何も残っていなかったんだもの」

「何も?」

「何にもだよ。シャツにシミができるくらい血が着いていたのに、脇腹を触ってみても、刺し傷なんてないんだ。くすぐったい、って笑うチャチャを見て、夢だと判ったよ」

「夢?」

「夢だよ。チャチャを傷つけたのは、夢の中のオレだったんだ。喉につっかえていた物が取れたように、ほっ、としたよ。それで、温泉を出た後、誰も居ない駅の待合室でゴロゴロと寝っ転がっていた」

「風邪、ひきますよ」

「本当、その通り。そのうち、頭がずきずきして、体中が痛くなってきた。ふらふらして、ぼうっとして……。そうなると、今度は、夢だと思っていたことが現実で、現実だと思っていたことが夢だと思えてきた」

「夢が現実?」

「そう、どっちがどっちなのかが判らない。だから、これは、オレの見間違いかもしれないけど……」

 レオは、頭の引き出しから何かを引っ張り出しているかのように、しばらくの間、僕の首に額を擦りつけた。

「夜中なのに、あちこち探し回って、チャチャはここを見つけてくれた。崖の上に建っている、赤い屋根の教会だって」

「教会じゃありません」

「ああ、そうだった。残念だったな」

「残念?」

「でも、吹きっさらしの駅の待合室よりは、ゆっくり眠れるでしょう? そう思ったから、すっかりぐしょぐしょに濡れた靴で、雪の積もった石段を上ったんだよ。チャチャが懐中電灯で照らしたとんがり屋根は、教会のように見えたし……。ただ、オレらには広すぎて、どこで眠ればいいのか迷ったな、はは……。舞台の裏はちょうどいい広さだったから、よかったよ」

 レオの言う「残念」の意味に少し考えを巡らせてから、彼が走り回る度にさえずっていたスニーカーに眼を落す。濡れているようには見えない。

「ようやく安心して、舞台の裏でうとうとしていたら、オレの体を温めるように抱きしめていたチャチャが、突然、おでこをくっ付けてきた。こっつんと、おでことおでこを合わせてさ。熱でも測っているんだろうと思っていた。

 だけど……ぼたぼたと……ぼたぼたと……熱いモノが落ちてくるんだよ。顔の上にさ。『泣いているの?』って訊いてみたけど、うわ言にしか聞こえなかったみたい。何も応えてくれなかった。チャチャは、このままオレが、死んでしまうと思ったのかな。もし、そうなら、嬉しい。オレが死んで、泣いてくれる人がいるなら、とても嬉しい。それがチャチャなら、もっと、ずっと、嬉しい」

「それも、夢なんですか?」

「だって、泣いていたんだ。あのチャチャが……。オレのために泣くなんて、考えたこともないのに。もし、あれが夢でないのなら、きっと、見間違いだ」

 レオは、すんっと鼻をすすり、また額を擦りつけた。

 

 

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