第28話 猛獣の飼い方

 チャチャは、を提案した。それは、コバンくんが、最後まで天使の抜け殻を抱いて離さなかったからだ。

 ゴミの保管されたダンボール箱が、うずたかく積まれた台所に入ったチャチャは、食器棚の引き出しをガチャガチャと探り出した。引き出しの奥から、錆びて黒くなったドライバーを取り出し、握り締めると、独り暮らしが使うような、古くて小さな冷蔵庫の前に立ったよ。

 ふう、と肩で大きく息をして、思い切った様子で冷凍庫を開け、しゃがみ込むと、ドライバーを振りかざし、冷凍庫にびっしりくっ付いた霜を削りだしたんだ。ガチガチと氷を砕く音だけが響く台所で、オレは、ただ黙って、それを見ていたけれど、奥からカチカチに固まったマーガリンが出てきた時は、なぜか笑ってしまったよ。

 霜が取れて広くなった冷凍庫を見せると、コバンくんは、抱いていた天使の抜け殻を頭まで丁寧にバスタオルで包んだ。

 チャチャは、その子を冷凍庫にと言ったよ。「会いたくなったら、ここを開ければいいから」って……。

 それから、オレとコバンくんは、日に何度も冷たい赤ん坊を冷凍庫から取り出しては、ふたりで抱いていたんだ。それは、それは、僅かではあるけれど、満たされた時間だったよ。

 何日もしないうちに、大きな台風がやって来るまでは……。

 家が揺れて軋んだ音をたてることも、停電で真っ暗になることも慣れていたけれど、冷蔵庫が壊れてしまうことは想定外の出来事だったよ。気づい時には、既に、冷蔵庫の中が水浸しになっていたんだ。

 赤ちゃんはバスタオルごとぐちょぐちょに濡れていたから、コバンくんは慌てて乾いたバスタオルに包み直していたよ。

 だけど……それを見ていたチャチャは……「もう、やめよう」って……コバンくんの腕から赤ちゃんを引き離そうとしたんだ。

 細くてひょろひょろのコバンくんに、こんな力があったのかと思うほど、赤ちゃんを抱いて離さないのに、それを毟り取ろうとしているチャチャは、コバンくんを虐めているようにしか見えなかった。

 だから……オレ……オレ……つい……やってしまったんだ。

 流し台に置いてあったハサミで……チャチャを刺してしまったんだ。握ったハサミが脇腹を通過していくような感じがしたよ。

 「ううっ」という呻き声に、はっ、とした。チャチャが着ていたスウェットシャツの脇腹を見ると、赤く染まっていた。

 ああ、オレは、また、やってしまった……。

 床に点々と落ちた血を見て、頭が真っ白になったよ。どうして、あんなことをしてしまったんだろう……。

 ……ねえ君、大丈夫? 張り付いた粘液に絡まれた、砂のような声で咽ているよ。喉かカラカラに渇いているんじゃないの?

 どうしたの? どうして睨むの? 睨んでいない? うそだ、睨んでいる。

 オレ、何も知らないのに。気がついた時には朝になっていたのに。コバンくんとふたりで、庭に立っていたのに。

 見てない。見てない。

 気がついた時にはグレープフルーツの樹をぼんやり眺めていたんだよ。

 何も見ていないのに、どうして、そんな眼をしてオレを見るの? ──────






 レオは大きく眼を見開いて立ち上がった。

 うーおーうーうーうーっうううっ…………どん、どん、どん、どん…………

 僕の知らない世界の言語で唸り、髪を振り乱しながら、その場で足を踏み鳴らした。崇高な何者かに抱かれた民が、生贄を捧げるダンスをするように、頭を大きく揺らす。

「知らない、知らない、知らない! 天国に行ったんだ。チャチャが、そう言ったんだ。そう言ったんだ、そう言ったんだ! あああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ……」

 会堂に響き渡る叫び声と狂気の舞に、戸惑いよりも、出会ったことのない恐怖を覚えた。僕の体は反射的に逃げ出そうとする。

 猛獣……。

 チャチャの言葉が頭を過る。僕はレオから離れるために床を這い、ぺたりと腰を抜かすと、動けぬまま狂気の舞に身を委ねるレオを見上げた。

 突然、脱魂状態から醒め、床を踏み鳴らす音がぴたりと止むと、

「……ごめんなさい……」

 レオは体中の力が抜けたようにしゃがみ込み、両腕で顔を覆いながらえんえんと声をあげた。

「ごめんなさい、もうしませんから……。ごめんなさい、本当に知らないの。憶えていないの。ごめんなさい、もうしないから、もうしないから……」

 対処方法が分からなかった。無視を決め込んで、ここから出て行く考えが、僕の頭に浮かんだ。じりじりと少しずつ、腰を後退させてみる。

 だけどレオは、まるで尻尾を丸めた仔犬のように、顔を隠し丸くなって泣いている。きりきりと胸が痛む。ここで見捨ててはいけない、逃げてはいけない、と背後から囁かれた気がした。僕はそろそろと這い寄って、レオの髪に手を伸ばした。

 噛み付く様子は無さそうだ。と思った瞬間、床から跳ね上がったバスケットボールと同じくらいの勢いで、レオは体ごとぶつかってきた。

 しまった。

 僕の背中に両腕をまわし、痛いほど締め付けたレオは、全ての体重をかけてくる。体をねじって抗ってみる。引き剥がそうと床から手を離した途端に、バランスを崩し、押し倒された。レオは僕の胸に顔を埋めたまま腕を弛めなかった。

 会堂の天上を見上げた僕はすっかり諦めていた。ケンカのやり方を知らない僕に、勝ち目など無い。

 陽だまりに温められた床から、じわりじわりと後悔が襲ってくる。真上より少し西に傾いた太陽が眩しい。抵抗が無駄だと解り、何もかもどうでもいい、と体から力を抜いた。

 くうぇっ……くうぇっ……

 また、妙な呻き声が聞こえる。乳の匂いを嗅ぎまわる仔犬の鳴き声のようだ。

 はああ……と溜め息をついてしばらくしてから、僕は、体の中心に響くその声が、レオの嗚咽だと気づいた。

 泣きすがる背中を恐る恐る撫でながら、僕のくちからは、なぜか、「すみません」という言葉が出た。そのまま、ひとしきり咽び泣くレオの気が済むまで、僕は背中を撫で続けた。

 ようやく体を起こしたレオの鼻は赤く、泣かないようにと見開いた眼からは、それでも涙が溢れていた。

 そうして僕は、レオが〝得体の知れない恐怖を抱えながら生きてきた〟ということを〝どうにか理解できる気分〟になれたのだった。

 レオは起き上がった僕に頬をすり寄せ抱きついて言った。

「……チャチャみたいだ……」

 チャチャに教わった取り扱い方法が、間違っていないことを確信した。


 

 

 

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