第27話 天使の抜け殻
チャチャは外側にあることを教えてくれる、唯一の人だった。
友達もたくさんいたはずだ。恋人も……。それなのに、オレみたいな奴を構ってくれる。
だから、本当に、チャチャはオレとなんかじゃなくて、片平と行けばよかったんだよ……花火。片平だよ。小さい頃によくケンカした、お世話焼きの女の子。あの子がチャチャの恋人だったんだ。
オレが働いていた所は、大通りを一本入った裏道に面していたんだよ。駅への近道だったから、チャチャと片平が仲良く通学している姿は、毎日、窓から見えた。同じ高校の制服を着て、手を繋いだり、時には自転車の二人乗りをしたり。付き合っているんだな、って分かり易かったさ。小さい頃は縦も横もでっかくて、力持ちの女番長だった片平が、思ったより小さくて華奢な女の子に成長していたよ。
チャチャは中学校の体育館でオレと再会するまで、オレがあの洗濯工場で働いていることを知らなかったから、ちょっとびっくりしていたな。それはそうだね。偶に、工場の陰に隠れて、小さなキスをしているところまで、オレは見ていたんだから。
花火大会は町の一大イベントだったから、女の子たちは浴衣なんか着ちゃって、好きな男と出かけるのを楽しみにしていたんだよ。もちろん男だって、そんな女の子を連れて歩きたくて、うずうずしていんだ。
だけど、あの夜のチャチャは、眼の前を通り過ぎて行く片平に、ひと言も声をかけなかった。片平も、友達と一緒だったから、という理由じゃなかったんだろうね。お互い、意識して眼を合わせていなかったんだもの。知らん顔してすれ違ったチャチャには、何も訊いてはいけない気がした。
片平よりオレを優先したことで、ケンカでもしちゃったんだろうか。花火を観に行こう、って誘ったのはチャチャの方だったのに……。
ずっと観に行きたかったんだ。いつも二階のベランダから見物していたから。
コバンくんの家は、見晴らしのいい坂の上に建っていて、夏はエアコンが無くても涼しいんだ。窓を開けると、ちょうど向かいの山から揚がる花火が見えるかと思ったけれど、邪魔な森のせいでちっとも見えなくて、毎年、音だけの花火大会だった。
オレはチャチャのおかげで、ようやくコバンくんと花火見物ができたんだよ。
あれほど楽しい夜はなかったなあ。花火は……最後に揚がった一番大きいものしか憶えていないのに……変だな……。どうして、あんなに楽しかったんだろう。まだ生まれる前の天使と一緒だったからかなあ。百三段ある神社の階段を上って、綺麗な花火を観ることができて、あの子は満足したのかなあ。
愛しい? あの時の三人が愛しいって? チャチャはそんなことを言っていたの?
馬鹿だなあ……チャチャは……オレなんかと一緒にいない方がいいのにさ。
あれは、花火の季節が終わり、新学期が始まって、しばらく経った頃だった……。
昼間は猛暑だったのに、急に冷え込んで、長袖を着てくればよかったな、っていうくらい涼しい九月の夜だった。満月がくっきりと見えるほど天気は良かったのに風が凄まじくて、ざあざあと川の流れる音や、ぼっさぼっさと樹の揺れる音が今でも耳に残っているよ。いつものように、仕事帰りに学校で勉強を終えたオレは、向かい風を掻き分けて、ひとり、帰り道を急いでいた。
道を塞ぐようにオレの肩を圧してくる風をくぐり、たどり着いた玄関を開けたら、いつもと違う臭いがしたんだ。まるで異次元の扉を開いたような、澱んだ空気が充ちていた。
階段を一段一段上る度に、臭いが増してくるのが不安だったけれど、二階の廊下に置かれたゴミ袋から漂ってくるのが判ったら、少しだけ、ほっ、としたっけ。朝、家を出る時には無かった大判のゴミ袋からは、中身が透けて見えた。丸まったビニールシート、濡れたバスタオル、魚の内臓や豚のレバーに似た赤黒い塊……。
開けっ放しの襖からは煌々と照明が溢れていたのに、なぜかいつものように入ってはいけなくて、部屋をそっと覗いたんだ。ベッドで寝ているコバンくんの背中が見えたから、具合でも悪いのかと近づいたら、気のせいか畳が湿っぽく感じた。
起こさないよう、静かに顔を覗き込むと、コバンくんは疲れ切った様子で眠っていたんだよ。バスタオルにくるまれた赤ちゃんを抱いて……。
どうしたの、君? 呆けたような顔をしているよ。
赤ちゃんだよ。しわしわの赤紫色をした。握り拳くらいの頭をした、小さくて可愛い赤ちゃんだよ。
あんまり嬉しくて、大声で叫びたいくらいだったけれど、青い顔で眠るコバンくんを起こしちゃいけないから、腹が減っていたことも忘れて、オレはふたりと一緒に眠ったんだ。親子で川の字なんて夢のようだった。
君、どうしてそんな顔をするの? こんなに幸せだと思ったことはなかったのに。
ひとつだけ叶わなかったのは……朝になっても、一度も、赤ちゃんの泣き声を聞くことがなかったことだけどね……。
どうやら、オレたちの赤ちゃんは、とってもいい子だったみたいだよ。人間界に降りて来る前に、天国に呼び戻されてしまったらしいから……。
オレたち、かわりばんこに赤ちゃんの抜け殻を抱っこして、ずっと部屋で過ごしたんだ。どこにも行かず、何も食べず、チャチャがやって来るまで、宇宙と地球の間でふわふわ浮かんでいたんだよ。
どのくらい部屋にこもっていたのかは、さっぱり分からない。でも、チャチャは、可愛い子だと言ってくれたよ。とても穏やかな顔でね。
ただね……「クサイ」って言うんだよなあ。オレもコバンくんも、ちっとも気づかなかったのに、チャチャは酷い臭いだと言ったんだ。
解っていたんだよ。オレたちだって、あの子が天使の抜け殻だってことくらい、解っていたんだ。それでも、少しでも長く一緒に居たかったから、抱いていたかったから……抜け殻が崩れていくことを……忘れていたんだ。
昼間の暑さで腐臭は家の外まで立ち込めていたようだけど、コバエが飛び回っていようが、誰も知りゃあしないさ。コバンくんの家の周りは、壊れかけた空き家だらけだったんだもの。
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