第31話 アダムの林檎
レオは携帯電話を僕の鼻先に突き出した。
「他にも、ほら」
近すぎて焦点の合わない携帯画面は、ぼんやりと白く、何も映っていないように見える。レオの手から携帯電話を受け取ってよくよく見ると、電車の窓から撮ったと思われるプラットホームが佇んでいた。
「駅?」
「駅が映っているね。でも、そうじゃないよ。それよりも、その向こう側。駅の向こうにある、海の写真だよ」
電車の窓枠がフレーム効果を醸し出しているものの、吹きさらしのプラットホームが、灰色の空と海を背景に、ただ横たわっているだけの写真だ。
「コバンくんがいなくなって、初めて届いた写真なんだよ。何のメッセージもなかったけどさ。でも、柱に駅の名前が見えるでしょう?」
「う……ん……」
ぼやけてつぶれた駅名は、文字数だけが確認できて、まったく見当もつかない。僕の手の中を覗き込んだレオは、握られた携帯電話をそのまま操作する。
「もうひとつ、あるんだ」
あかぎれだらけの指が、風景写真とは言えない、とても中途半端な海の一部を映す。
「岩? 崖の上から海を覗き込んだみたい。上下がよく判らないし……どんな恰好で撮ったんだろう」
「ねえ、近くだよね。海の近くに居るんだよね」
「これを見て、彼女さんを捜しに?」
「チャチャが言ったんだよ、捜しに行こうって。この写真を見せたら、急に思い立ったようにさ。チャチャが、ここじゃないか、って言う駅に当たりを付けて。片っ端からね」
「それで、ここまで来たんですか」
「でも、お金が無いから交通費は節約。できるだけ歩くようにしてる」
レオは旅のよすがの写真をしばらく眺めると、満足した顔で充電中の携帯電話を置いた。そして、痩せた肩を上下させ、大きなくしゃみを三度続けると、両腕をさすりながら舞台を飛び降り、小さくなった陽だまりに駆け込んだ。
「あの……」
僕が、舞台の上からレオに言う。
「あの、しばらく居てもいいですよ。ここ、僕しか来ないから」
「本当?」
ミーアキャットのように窓に張り付いて、両手を広げたレオは応える。
「何か、ありますか? その、何か欲しい物……食べたい物とか」
僕は、何かをしたくなっていた。レオのために、僕が出来ることを。
「おにぎり」
「おにぎり?」
「おにぎりが食べたいな。コバンくんが作ってくれる、梅干とじゃこのやつ」
「じゃあ、明日……」
「あ、帰って来た」
僕が言い終わる前に、レオは広げた手を振りながら叫んだ。窓を叩くと、チャチャは両手に提げていたドラッグストアーのビニール袋を片手にまとめ、ペットショップの商品を撫でるように、ガラス越しにレオと掌を合わせた。
それから荷物を置こうと中腰になりかけたけれど、足下に広がる雪解けの泥を見て腰を起こし、きょろりと後ろを振り返る。そこには箱型のぶらんこがあった。
腐りかけた木の床板にビニール袋を置き、リュックサックを肩から降ろすと、固定されたロープが緩み、ぶらんこは、きぃ、と軋む。
「おにぎり、明日持ってきます」
レオに伝えたけれど、僕の声は届いていなかった。「ストーブ使ってください」と言っても、窓の外に眼を向けたままだ。
僕は脱ぎっぱなしのジャケットを掴み、わざとあらましな音をたてて舞台を飛び降りた。だん、と床を踏み鳴らし、きゅっきゅ、とスニーカーを鳴かせて歩き、大きな鳥のように耳障りな声を上げる会堂の扉を開く。けれども、レオは酷い雑音にも振り返ることは無かった。
「やっぱり、脱水機にかけていないから、そうそう乾きやしないよな」
びちゃびちゃと深い
僕たちの会話がレオに聞こえはしないかと、あの大きな窓を見た。汚れたガラスに亡霊のような白い影が浮かび、ゆらゆらと小さな塊となっていく。抱えた膝に頭を埋めるレオには、他人の話の内容など興味の対象外なのかもしれない。
「このまま干しっぱなしにしたら、明日あたり、凍ったりすんのかな」
湿ったシャツを触りながら、背中越しにチャチャは言う。そよぐ風が、ぶらんこの座席の背もたれにぶらさがる袖を揺らす。
「ありがとう、悪かった」
「……いいえ、楽しかったです。こんなに人と話したのは久しぶりで……」
「君くらいの歳の方が、話が合うのかもな。あいつの相手は疲れただろう?」
チャチャは、たくし上げた袖を直しながら言う。左腕の大きな傷が隠れる瞬間、スウェットシャツに着いた赤茶色のシミが、やけに印象深く心に焼き付いた。
「……そんなことは……。あの人は、僕が思っていたより、ずっと……」
「ずっと……何?」
チャチャは、半分だけ後ろに顔を見せた。
「あの……ずっと、記憶力がいいような……」
「わけの分からないことばかりだったろう? 言ったと思うけど、あいつの話は適当に聞き流してくれ」
僕の視線の行方に薄ら笑いを浮かべながら、故意に服の上から左腕を撫で、脇腹に押し付ける。
「その傷……まだ、痛むんですか?」
「……いいや、たいしたことはない」
試される事を事前に知っていたかのように、平坦で感情の無い声で応えると、やっと僕に向き合った。僕は咄嗟に眼を逸らす。
「これはね、グレープフルーツの棘でやったんだよ」
「棘……? 棘で、そんな大きな傷がつくんですね。まるで……まるで……ハ、ハサミで……切りつけたみたい……な……」
努めて平静を装っているのに、どうしても声が震えてしまう。
「死んだ猫を埋めた時にやったんだよ。グレープフルーツの樹って、すっげえ長い棘があるんだぜ」
脇腹に傷痕が無いことを証明したいのか、スウェットシャツをめくり上げたチャチャは、あたかも洗濯物で濡れた手を拭うような真似をしてみせる。チャチャの眼に射抜かれた僕は、その場に立ち竦んでうつむいた。海風が、沈黙の隙間を通り抜ける。
「帰んの?」
「……は……い……」
ぼそりと小声で応えた僕は、ぴちょぴちょと小股でチャチャの横を通り過ぎた。鼻先で嗤う顔を眼の端に映した瞬間、なぜか哀し気な表情に移り変わった気がした。
「ぼ、僕は……」
風に騒ぐ松林が、破裂しそうに膨れ上がった胸に共鳴している。
「……どうすれば……いいのですか……」
足を止め、背中から言った。
「何のこと?」
「……猫……」
「死んだ猫を庭に埋めたこと? それが?」
「本当に……猫……なんですか?」
「猫さ。金色の眼、鼻の先と足先が白い、黒猫さ」
「でも……あの人は……」
泥濘に落していた僕の眼が、ぐい、と無理やりに方向を変えられる。一瞬、体の浮いた感覚がした。
「猫にはさあ、出生届も死亡届もいらないんだぜ。勿論、埋葬許可書だって必要ないんだ。どこで産まれて、どこで死のうが自由なんだよ」
冷たい指が顎の下に掛かり、僕を持ち上げようとする。猛禽類の眼光が、何度となく僕の額を貫く。
「あいつが何を言ったのかは知らないが、誰も、何も、悪いことはしちゃいないんだよ」
心臓がくちから飛び出すのを抑えるように、チャチャの親指が喉をなぞる。
「ここの骨ってさあ、座禅を組んでいる仏像に似ているらしいね。火葬しても残らないくらい柔らかいんだってさ。英語では〝アダムの林檎〟って言うらしいよ。エデンの園にある禁断の果実が、喉に詰まった痕なんだってさ」
くりくりと撫でまわし、鎖骨の間で動きを止める。窪みに、親指の腹が食い込む。
「君には、どんなふうに見えた? あいつは、どんな人間だった? ほんの数時間で、あいつの何が解った?」
「……あの人は……とても……純粋な人だ……と……」
僕の心臓が爆発する手前で、チャチャは手を放した。ごほごほと咽ると涙が滲み、堪え切れずにぽろりと流れる。
「そう……」
ぜいぜいと息を整え見上げると、まつ毛を伏せた瞳から鋭い光が消えていた。
「は……儚くて……上手く……言えないけど……」
「そうか……」
チャチャは、僕の体を引き寄せ肩を抱くと、
「ねえ、もう一晩、泊まってもいいかな?」
耳元で言った。
「どうぞ……いくらでも……何拍でも……」
「ありがとう。よかった……君で……よかった」
僕の肩を軽く叩いたチャチャは、ほう、と緊張から放たれたような深い溜め息をついた。
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