第21話 ジャングルジム
「……夢……の話……に付き合わせて悪いけど……。それと、知らない土地で何度か迷子になった事がある。だから……頼む……」
出て行くチャチャの後ろ姿を横眼に流し、僕は手洗い場の扉を引いた。けれど、用を足すことはしなかった。振り返ると、じっと同じ恰好で佇むレオが居る。ちんまりとお座りをして、ガラスの向こう側から手を振るチャチャに、にこりと歯を見せながら片手を挙げた姿を見て、彼を独りにしてはいけない、と確信を持つ。
「具合は……どうですか? 寝ていてもいいですけど……」
レオの少し下がった口角が、今にも泣き出しそうだった。よっこいしょ、と声にして、僕はレオの傍に腰を下ろす。
「うん、大丈夫だよ」
そうしてレオは、残像でも追うように、誰も居ない園庭を黙って見続けていた。長い沈黙が穏やかに流れる。
「ここには、ジャングルジムは無いんだね」
レオがそっとくちを開く。
「……そう言えば、そうですね……気づかなかった。まだ小さな子供たちだから、大きな遊具は置かなかったのかな……」
独り言のように、僕はぽつりと言う。
「そうか……そうだね…………あ、でも……」
レオは頷いたあと、はっとして眼を開いた。
「でも、鉄棒、錆びてた。錆びて穴が開いてた」
「保育園が潰れてかなり経つんです。え……と、二十年以上は経っていると思います。だから、何もかもがボロボロなんです」
気づいた時には幽霊屋敷と呼ばれていた、と僕は笑って言った。
「二十年。オレが生まれる前だ。だから、あんな変わったぶらんこがあるんだね」
レオは、ロープで固定された箱型ぶらんこを指差した。
「錆びているから危ないですよね。野良猫が棲みついちゃって、砂場も糞だらけなんですよ。不衛生だし、危ないし……。ケガなんかされたら困るから、門には鍵を掛けていたんですけど……立ち入り禁止の看板も掛けていたのに……。全然、効果が無くて……」
「オレらのこと?」
レオは眉根を寄せてぶらんこを睨む。
「あ、いや、時々……年に一度くらい……。花火の燃えカスが散らかっていたりするんです。……か、火事になったら……いけないと思って……」
余計なことを言ってしまったかと、僕はうつむいた。レオが指の関節を爪先で掻いているのが眼に入る。換気していない室内の、澱んだ空気の透き間を縫う乾いた風のように、「ごめんね」という声が微かに聞こえた。
「……近くにね……ネットカフェも無くて……駅の待合室で我慢していたんだ……けど……頭が痛くて、痛くて……我慢できなくなって……ここに来たんだ……ごめん」
「あ……はい……いえ……」
「でも、見つけてくれたのが君でよかった。だって、音楽……聴かせてくれた……」
僕の胸の奥が、異様にむずむずした。
──────ジャングルジムは、よく飛び降りて遊んでいたんだ。小学生の頃。
学校の隣の家には大量の雀が留まっている樹があったんだ。それは本当にものすごい数で、周りの音が何も聞こえないくらいチュンチュンとうるさかったの。それを覗いてみたくて、オレは、よくジャングルジムの天辺に登っていたんだよ。少しでも高い所からなら、隣の塀の向こうが見えるんじゃないかと思って。あの雀の樹をゆさゆさゆさ揺すったら、百羽くらい落ちてきそうだったから……。
馬鹿だよね。雀は落ちたりなんかしない。飛んで行っちゃうのに……。でも、人は飛べないんだ……知っていたよ、そんなことくらい。なのに、どうして、オレは、あの時飛んでしまったんだろう?
ああ、そうだ、あの時のオレは、自分が雀だと思い込んでいたんだ。ここだ、このこめかみから声が聞こえたんだよ。いつものように……。
もうひとりのオレが、あの樹に集まる雀たちこそが、本当の仲間だと言っていたんだ。だから、一斉に飛び立った雀たちに、必死に追い着こうとしたんだよ。「飛べ飛べ、早くしないと置いていかれる」と、オレはオレを急かしていたんだ。
こんなふうに両手を広げると、信じられないくらい気持ちよかった。飛んだ瞬間、ああオレは鳥だったんだな、っていうことが解ったんだ。ようやっと、本物の自分になれたと思ったんだ。
その瞬間は、とても穏やかに流れていたよ。ゆっくりと上下した翼がふわふわと浮かんで、眼に映る青空が近かった。いつまでもこうしていたいと思ったんだ。
でも、気が付くと、生えていたはずの茶色い羽が無くなっていた。手羽先の唐揚げの残りかすが、ちょこんと背中にくっ付いているようだった。
あれ、おかしいな、と思っていたら、腹の下から呻き声が聞こえた。チャチャだった。チャチャの呻き声だった。オレ、チャチャの上に堕っこちてた……。
チャチャは後ろに倒れ込んで、両手でぎゅうぎゅうとオレの体を締め付けていた。空に向かってぎゅっと眼を真ん中に寄せて、剥き出した歯をぎりぎり食いしばっていたんだ。泣いてはいなかった。泣けないくらい痛かったのかもしれないけど……。
救急車に乗ったのは二度目だった。
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