第20話 頭の中
車に轢かれそうになったこともあったんだよ。学校近くの交差点で、ふらふらと横断歩道を渡ろうとした時だよ。ちょうど傍にいたチャチャが、オレのことを呼び止めたんだ。「おい、ボケっ」てね。
信号は赤だった。赤なのは解っていたよ。でも、その時のオレは透明人間だったんだ。そうだよ、頭の中のオレが言ったんだ。「透明人間だから、轢かれない」ってね。
赤信号を渡ろうとしたら、チャチャがオレの腕を思いっきり掴んできた。その瞬間、すいっと水を掻くように曲がってきた車にぶつかってしまった。オレじゃなくてチャチャが、ね。転んだ拍子に頭を打った。ゴンって、大きな音がした。見る見るうちに、チャチャの頭から血が流れていった。
それで、やっと解った。……オレ、見えていたのな。全然、透明人間じゃなかったのな……。
何が何だか判らなくて、気づいたら先生と一緒に救急車に乗っていたよ。君、救急車に乗ったことがある? 救急車っていうのは窓が全部塞がっているんだね。外が見えないから、どこを走っているのか分からなくて、とても速く、とても揺れているように感じるんだよ。気持ち悪くて吐きそうなくらいなのに、寝かされたチャチャは救急隊員の質問にきちんと答えていた。病院に着いても、ひとりで歩こうとしたくらいさ。オレは先生にしがみついて、やっぱり泣いていたのにさ。お巡りさんが事故について質問していたけれど……ちゃんと応えられなかった。十本の指、全部の指紋を取られたことは憶えている。一本一本左右に転がすようにして、指の先、全部。
だけど、交通事故を眼の前で見たことがショックだったのか、高熱を出しちゃって、翌日から何日も学校を休んでしまったよ。チャチャのことは心配だったけどさ。
やっと会えた時のチャチャは、頭に網を被っていて、八百屋の桃のようだった。何針か縫っただけで大丈夫だったって、ケガしたことが勲章のように、クラスで人気者になっていたよ。
それからしばらく経ってから、オレはまた、交通事故を目撃した。チャチャが事故に遭った同じ場所で……。
被害に遭ったのは、毎日、下校するオレたちを吠え立てていた、近所の大型の雑種犬だ。赤いリードを引きずったまま道路を走っていたから、逃げ出してきたのかもしれない。こっちに襲い掛かってきそうな勢いだったから怖かった。みんな、今出て来たばかりの校門を引き返していたよ。
だけど、その犬は向かって来たトラックにぶつかって、空中をサッカーボールのように飛んで行ったんだ。トラックの運転手は、一度だけブレーキを踏んで窓から顔を出したけど、すぐに行ってしまった。
動かなくなった犬は、舌をべろーんとながーく出して、眼が飛び出ていた。死んだら、あんな姿になるんだね。
オレ、あの日から、車が生き物に見えるようになっちゃったんだ。生き物っていっても、象やキリンじゃなくてね……怪獣だ。眼に映るのはきちんと車の形をしているのに、イメージは怪獣なんだ。SF映画に登場する、岩のようにゴツゴツした皮膚にねばねばした粘液が糸を引いた……。いいんだよ、君が解らなくても。
そんなわけだから、オレにとっての道路はサファリパーク……じゃなくて、ジュラシック・パーク……いや、宇宙のどこかにある星かな。もう慣れてしまったけどね、あっはっは───────
レオは声に出して笑いながら、バレーボールのオープントスのように、両手を顔の前に出し、僕を引っ掻くモンスターの仕種をした。けれども僕は、こういう時にどんな言葉を返せばいいのかが分からなくて、ただ哀し気に笑ってみせることしかできなかった。
「何の話をしてんの? 楽しそうじゃん」
僕とレオは同時に振り向いた。背後には、洗濯物を干し終えたチャチャが、ビニール袋をぶらぶらと揺らしながら立っていた。
「鳥の話だよ、ほら、あれ」
レオが窓の外を指差すと、へえ、と興味ありそうな返事をしておきながら、チャチャは窓の外を見ることもなくビニール袋を窓際に置いた。パステルカラーの洗濯バサミが袋から透けて見える。
「あのさ、買い出しに行きたいんだけど……」
「オレも行く」
「おまえはここに居ろよ。また具合が悪くなると困る。俺が、困る」
チャチャはリュックサックを肩に掛けて言う。
「君が居てくれると助かるんだけど、駄目かな?」
「いいですよ……僕でよければ」
僕は、もっとレオの話が聞きたいから。
「おとなしく待っていろよ」
頭を、ぐい、と押さえられたレオは、待て、を言い渡された仔犬のように、両膝を胸に抱え、タイミングよく
「……トイレ……行こ……」
ぽそりと独り言のように呟いてから、会堂の扉へと歩き出したチャチャの後を追う。
「ありがとう、助かる」
チャチャは、僕に礼を言った後で、
「あいつの言うことは、あんまり気にしないでやってくれ」
と、前を向いた首を動かすことなく、僕にだけ聞こえる声で言った。
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