第13話 偽善

 卒業後の学校を訪ねるのは、懐かしいけれど気恥ずかしいんだ。昔書いた作文を大きくなってから読み返したように、なんだかとてもむず痒いんだよ。後輩たちに囲まれているのが居心地悪くて、一瞬、来たことを後悔した俺が、体育館の隅で合唱指導中の先生を待っていると、舞台端の階段に、私服の若い男が座っていることに気づいたんだ。てっきり外部講師かと思ったんだけどね……。先に気づいていたのはレオの方で、ずっと俺のことを見ていたらしい。俺のことはすっかり忘れていると思っていたのに……。

 ああ、君の記憶の一片にだって、リアルな学校というものは存在しないんだね。荒唐無稽なアニメや漫画、それに学園ドラマは全て嘘っぱちの空想さ。それでもわざわざ母校を訪ねるのは、ちょっと大人ぶって偉そうにしていれば、部活の後輩や先生に少しはちやほやしてもらえるからかもしれない。

 けれども、そんな君の自宅にも毎日クラスの誰かしらが来て、何枚かのプリントを置いていっただろう? 宿題と今日の感想と明日の予定が、欠席した児童のために書かれているプリントだよね。毎日毎日同じ内容のプリントに見る価値はないし、君のお母さんの手作り弁当のない遠足も運動会も、参加する意味がないと思っていただろうけれど、週に一度顔を見せる先生は、学校というものがどれくらい楽しいかを身振り手振りで伝えようと試みたんだろう? 

 でも君は、笑ってそれを受け流すことを覚えただろうね。目の前にいる人の眼を見ながら空想に耽ることは、簡単に時間を消費させるから。

 そうして毎日ここに来ては、オルガンを弾いていたんだね。うんうん、とても綺麗に聴こえたよ。まるで、教会のパイプオルガンのようにね。でも、ずいぶんと古い楽器のようだね。接触不良でガーガーと喚いていたもの。

 きっと、お母さんが残していった電子オルガンと幾つかの楽譜が、君の教科書の全てだったのだろう? 魔法のように踊るお母さんの指を思い出しながら、拙い自分の指使いで編み込まれた音が、耳を通して空っぽの腹を満たしていくことは、この上ない幸福だっただろうね。今は、ここが、君の学校のようなものなのかもしれないね。

 レオにとっての学校が、どういうものだったのかは、俺には判らない。せっかくの子供時代を無駄に過ごしていると、傲慢な考えを持ったこともあった。けれども久しぶりに会ったレオは、くっちゃくちゃな笑顔で近寄って来たよ。

 楽しそうに、クリーニング屋で働いていると言ったんだ。温泉施設やホテルのガウンを畳んで、でっかいローラーのような機械でプレスする仕事だそうだ。ものすごく暑くて、冬でも半袖だとも言っていたよ。

 学校行事なんか何ひとつ参加していないくせに、どんな理由があって中学校に来たのかを尋ねたら、レオは、「父親になるから」と答えたんだ。それだけでも驚いたのに相手がコバンくんだと聞いて、二度も仰け反ったさ。

 レオは、生まれてくる子供のために勉強をしたいと言った。子供に何か訊ねられた時に、少しでも応えられるように、と……。勉強を教えてくれる所、と聞いて一番に思い浮かんだのが中学校だったらしくて、校門近くをうろついていたら、英語教師に声を掛けられたそうだよ。俺とレオは同じ日に同じ場所であの歌を聴いたけれど、もしかしたらそれは、偶然ではなく運命だったのかもしれないと、今でも時々考えることがあるよ。

 先生が案内してくれた補習教室というのが、体育館に新しく建てられたプレハブ校舎で、普段は進度別授業や保護者会に使われていたらしい。その時は、まだ十人程度の生徒しかいなかったけれど、夏休みが終わって秋になると、教室に来る生徒が一気に増えるのだと言っていたよ。

 たぶん、そこに居た中学生たちには、レオが指導者の立場に見えたと思う。あの時のこいつは、九九だって覚束なかったのにさ。だけど、掛け算や割り算が怪しい子供は思っていたよりも大勢いた。だから先生たちは、小学校の低学年用のプリントまで用意していたよ。

 それからのレオは、乾いた砂に水が染み込むように、与えられた知識をどんどん吸収していった。人はそれぞれ歩く速さが違うけれど、その一歩は確実に前進していると、レオが教えてくれたようだった。

 ……これは嫌だな。いかにも親切そうに、俺は、与えてやったという自己満足な態度で、レオと接しているのかもしれない。きっと君は、そういう偽善者面した奴は嫌いだろう?

 解ることが増えてくると楽しくなったのか、レオは熱心に勉強するようになったよ。そうして、バイトの合間に顔を合わせる俺に、コバンくんのことをたくさん話してくれるようになったんだ。

 

 

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