第12話 菩提樹

 本屋でバイトしていたんだよ、俺。

 町の中で一番大きな本屋だったから知り合いにもよく会った。中学時代に担任だった英語の女教師には、度々話しかけられもした。客だからと愛想よく振る舞っていたら、去年の六月の終わりに、「手伝って欲しい」と言われたのさ。

 何を手伝うのかって?

 世間ではね、本当かどうかは知らないけれど、小学校で三割、中学校で五割の子供が、授業についていけないと言われているんだよ。因みに、高校では七割だ。でも、授業は予定通りに進んでいくわけだから、解らない事が解らないままで、おいていかれる子供がたくさんいるんだ。

 つまずいた所に戻って理解してからでないと、なかなか先には進めない。だから先生は、学習に不安を抱える生徒のために、放課後の補習教室を開いていたんだよ。それを手伝って欲しいってことさ。もちろん、無償で。

 金にもならないのに、そんなことをする奴がいるものかと思いながら、先生には適当に笑って誤魔化して、その話しは終わりにしたつもりだったのに……なぜか、ふっと中学校を訪ねたくなった。あれは……梅雨の晴れ間の蒸し暑さにキレたせいかもしれない……。

 君、退屈じゃない? 話し相手なんて迷惑だったかな? 凍りつきそうな海と降り続く雪の中を旅していた俺の舌が、今日の暖かさに溶けてしまったみたいだよ。

 中学校を卒業して四年も経っていたのに、学校は何も変わっていなかったよ。海沿いの小さな無人駅を降りると、線路に沿って数百メートル続く街路樹の先に校門が見えた。春、ピンク色のトンネルをくぐるように通っていたのを思い出したけど、あの日の桜は、わさわさと緑の葉を茂らせていたっけ。その代わり、正門前の文具店の庭には百日紅さるすべりの樹が赤い花をたくさんつけていたよ。

 校門を入る前から、まるで出迎えてくれるようにブラスバンドの音が聴こえ、校庭では大勢の生徒が汗を流していた。砂埃の臭いに懐かしさを覚え、ちょうど見頃の大輪の百合が咲く中庭を通って体育館を覗くと、バスケ部の喚声に交じってピアノの音と歌声が聴こえてきたんだ。そう、俺がレオに聴かせていた子守歌だ。

 十人いるかいないかの合唱部を指導していたのが、例の英語教師だった。指導の合い間に歌詞の意味や作曲家のことを話して聞かせていたよ。

 そうさ、ショーベルトのことさ。シューベルトは『菩提樹』を作曲した頃には、既に不治の病に侵されていたようだね。まだ二十代なのに……。それに、ピアノどころか住む家だってないくらい金に困っていたようで、友情と僅かな作曲料を頼りに友人の家を渡り歩いていたそうだよ。そのせいか、自分で作った曲なのに満足に弾けるピアノの腕がなかったと、先生は言っていたよ。

 君も知っていると言っていたね、『菩提樹』のこと。君の音楽の先生は、話して聞かせてはくれなかったのかい? ああ、そうか……君の音楽の先生というのは、君のおじいさんのことだったのか。君のお父さんが、病気のおじいさんのために、枕元でCDを聴かせていたというんだね。「ほら、好きだった歌だよ」と。

 けれども君は、そんなものは既に聴こえていないだろうと、冷やかな眼で、君のお父さんと、家に住みついた知らない女と、ちっとも可愛くない赤ん坊を見ていたというのか……。嫌なことを思い出させただろうか……わるかったよ。

 

 泉に添いて 茂る菩提樹

 したいゆきては うまし夢見つ

 みきにはえりぬ ゆかし言葉

 うれし悲しに といしそのかげ


 今日もとぎりぬ 暗きさよなか

 まやみに立ちて まなこ閉ずれば

 枝はそよぎて 語るごとし

 来よいとし友 ここに幸あり


 おもをかすめて 吹く風寒く

 笠は飛べども 捨てて急ぎぬ

 はるかさかりて たたずまえば

 なおもきこゆる ここに幸あり ここに幸あり            

       (『菩提樹』 詞 ヴィルヘルム・ミュラー  訳詞 近藤朔風) 


 体育館で初めてこの歌を聴いた時、「ここに幸あり」という歌詞が耳に残ったものだから、俺はてっきり祝福の歌だと思ったんだ。君も、そうは思わなかったかい?

 けれども、あれは、主人公の〝僕〟に囁く〝菩提樹〟のことばだったんだね。「君の安らぎはここにしかない」と菩提樹が言っているんだ。

 歌の主人公である〝僕〟は失恋のショックから立ち直れずに、彼女が住む町から旅に出るんだよ。傷心を癒すために真冬の荒涼たる原野に身を置いて、現実を直視する旅だよ。

 だけど、旅の途中に人恋しさのあまり立ち寄った町で、人々の匂いや泉の流れ、泉の傍に立つ菩提樹のそよそよと揺れる葉に心を囚われて、つい、彼女と過ごした甘い日々の回想に耽ってしまったんだ。嬉しい時も悲しい時も、何度も菩提樹の傍らに来ては、愛の言葉を刻み込むことに没頭したのさ。

 けれども、生きるためにそこに留まっていられないと気づいた〝僕〟は、想い出からも旅立つことを決意したんだよ。真夜中に眼を閉じて、今までの事を思い出しながら、〝僕〟は菩提樹に別れを告げたんだ。

 すると、突然、暗闇の中で菩提樹は囁いた。「ねえ君、いつものように、ここで休んでいかないか。君の安らぎは、ここにしかないんだから」とね。

 どうだい? まるで、樹が主人公を誘惑しているようだろう?

 そうだよな。甘い夢は居心地がいい。きっと醒めない。菩提樹は恋人との想い出で旅は現実だ。夢に浸ってばかりいると、やがて捕らえられ、逃げる気力さえ失ってしまう。あのままでいたら〝僕〟は、樹の下で死んでしまうだろう。悪夢にうなされるよりも、甘い夢を見ながら死んでいけるなら、その方が楽だ。悪魔というのは、人の弱い部分をよく知っているよね。

 それに、シューベルトが生きていた時代のヨーロッパというのが、産業革命の進展した時代でね、工場で機械が製品を作るようになったんだ。それまで、職人を育てる徒弟制度によって、修行を積んでは各地を遍歴していた若者は、立派な職人になるという夢を奪われてしまったんだよ。もしかしたら、菩提樹の囁きは、時代に取り残されても夢を追い続けた若者の声なのかもしれないね。

 どうして、こんな歌を子守歌にしているのかって? だって、レオは、俺と一緒にこの歌を聴いていたんだもの。あの日、俺が中学校を訪ねた日にね。

 

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