第6話 入学式で

 背中を丸めて床に膝を着いていたチャチャは、爪の切りカスが散らばったティシューを小さく折り畳んだ。リュックサックのポケットに爪切りと一緒にそれをしまうと、ペットボトルのキャップをひとまわり大きくしたような白い容器を取り出した。蓋を外して中の軟膏を指先に取る。

「ステロイドって即効性があるけど、あんまり使わない方がいいって聞くよな。アルメタ、アズノール……副作用、平気なのかな? こいつ、べたつくのを嫌がるんだよな」

 容器の裏に書かれた小さな文字を見てから、チャチャはレオの手に軟膏を擦り込んだ。それから、耳の裏と額にかかる髪の生え際まで入念に指先で擦り、顎の下を撫でた。

「君は、いくつなの?」

 レオの手をコートの袖に突っ込んで言う。

「十六です」

 袖口からレオの指先だけが覗いているのを見て、僕は膝に置いた両手を眺めた。綺麗な手だと思う。僕が一番好きな自分だった。

「じゃあ、高校生なのかな?」

 この質問の答えは、常時幾つも用意してあった。相手を見ながら一番適当な答えを探すために。

「……ええ……まあ……いや、高校には行っていません」

「ああ、そう」

 チャチャはあっさりと、ダウンケットに包まれて、鼻と閉じた眼だけを出したレオを見て言った。

「こいつは、していない。なあんにも……ね」

 そんな気はしていた。レオは、きちんとしていれば、たぶん、女の子が放っておかないような整った顔立ちをしていた。けれども、あまりに個性が強すぎて、特定の人にしか受け入れられそうになかった。それが、僕を生ぬるいミルクに浸かった気分にさせる。

 チャチャは、フードの上からレオの頭を撫でながら話し始めた。  






 ───俺がレオと初めて会ったのは、小学校の入学式の時なんだ。

 そんな小さな頃のことを、まだ憶えているのか、って思うだろう? そりゃあ、強烈だったからね。

 真新しいランドセルを背負った俺たちは、廊下で一列に並んでいたんだよ。なんだかとっても大人に見える六年生が、胸に赤い花をつけてくれるのをちょっと緊張した顔で待ちながらね。

 そうしたら、後ろから、俺のランドセルをぎゅうぎゅうと押してくる奴がいたんだよ。最初は、ただふざけているだけだと思っていたさ。だって、一年生だから。みんな不安と期待が入り交じって、そわそわしていただろうからね。だから、俺も笑いながら、「やめろ、やめろ」なんて言っていたのさ。

 だけど、何度「やめろ」と言っても、そいつはちっともやめなくて…………俺は、とうとう怒って振り向いたんだ。

 そこにいたのが、レオだったのさ。

 ちょっと前まで幼児だったから、きっと、俺も、他のみんなも、うんと小さかったと思うけど、レオはまだ小学校に上がるのは早すぎるんじゃないかっていうくらい、特に小さな子供だったよ。

 それなのに、俺よりもずっと小さいくせに、あの時のレオには、マジで凍りついたな……。だって、こんなふうに……こんなふうに、カッターナイフを握り締めて、俺に突きつけていたんだから。

 ごめん、ごめん。君の腹に拳を押し付けてしまったね。大丈夫、俺はカッターナイフなんて持ってやしないから。だから、そんなに驚かないでくれよ。

 ああだけど、本当に怖かったのは、カッターナイフを持っていたことじゃないんだ。ガキだった俺は、そんな小さなナイフで、人は傷つかないって思っていたからさ。俺が一番震え上がったのは……何だと思う?

 顔さ。顔。レオの顔。

 レオはね、カッターナイフを俺に突きつけているくせに……笑っていたんだよ。楽しそうに、にこにこと……。

 そのうち、恐怖は怒りに変わったけれどね。

 初対面で妙な悪戯をされて、ものすごく頭にきたんだ。それに、だんだんと笑っている顔にも腹が立ってきた。

 だから、俺は、レオを押し倒して、殴りつけたんだ。

 レオは殴られっ放しだったよ。体格差がありすぎたんだな。俺が馬乗りになったら、レオは身動きが取れなくて……持っていたカッターナイフで、必死に応戦していたよ。

 ほら、見てみなよ。今でも残っているだろう? 俺の、右手の拳。人差し指から小指にかけて、定規で線を引いたような、真っ直ぐな傷痕。レオが振り回したカッターナイフで付いた傷だよ。

 何年経っても、消えやしない。

 だけど、不思議なことに〝痛い〟という記憶が無いんだ。痛いというよりは熱かったように思う。

 俺、子供って、あんまり痛みを感じないようにできているんじゃないかって思う時があるんだ。色んなものが未発達だからね。

 今の方が、ずっと痛みを感じる。心にも、体にも。

 ああ、君、そんな顔をしないでくれ。君が怪我したわけじゃないんだから……。

 結構なやんちゃだった俺でも、こんな奴は初めてだった。

 だけど、血を見て驚いたのは、俺じゃなくてレオの方だった。レオはぎゃーぎゃー声をあげて泣き出したんだぜ。ははは……おかしいよな、血だらけなのは俺なのにさ。

 しかも、小さい頃にありがちな〝泣いたもん勝ち〟っていうのかな? 先にケンカを仕掛けてきたのはレオなのに、俺の方が悪い、ってことになってんの。事の成り行きを見ようとしない奴らなんて、みんな勝手なことばかり言うものなんだな。

 結局、カッターナイフを持たせた親が一番悪いだろうって、俺の親が学校側に噛み付いたんだ。

 だから、入学式の集合写真、俺は包帯を巻いて写っているんだよ。それも、レオの隣でさ。

 なあ? 忘れられない出会いだろう?


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