第5話 幼虫

 胸に脱力した体が伸し掛かるので、急に重くなった石を抱えたように、後ろに重心が傾いた。チャチャはバランスをとって堪えている。

「この歌、知ってる?」

 チャチャは訊ねた。

「……はい……」

 少し考えてから僕は応えた。

「学校の合唱大会か何かで?」

「……はい……」

「へえ。こんな歌、合唱大会で歌う学校が、まだあるんだね」

「シュ、シューベルトの〝菩提樹〟ですよね。お、音楽の先生が、お……おじいさんだった……から」

 僕は予測できなかった質問にどぎまぎしていた。

「そうか。俺は最近……去年の夏ごろに知ったばかりだよ」

 チャチャは膝から滑らせるようにレオを降ろすと、彼の頭を片手で抱えて枕替わりのスポーツバッグにのせた。すぐに横を向いて、また胎児のように丸くなったレオにダウンケットを掛けると、陽の光を遮るよう、コートのフードを深く被せる。

 レオは、昼間出歩いたことがないような白い顔をしていた。それが、元々色白だからなのか、病気のせいだからなのか、僕には判らなかった。その顔を覆うように伸びた髪の間から、いくつもの湿疹が血を滲ませているのが痛々しい。

「昨日の温泉、肌に合わなかったのかな。ああ、また、こんなに掻き毟って」

 大きめのコートの袖に隠れた、すぼまったレオの指を開き、チャチャは赤い血の埋まった爪の先を撫でると、リュックサックのポケットからキーホルダーの付いた携帯用の小さな爪切りを出した。

「あの、寒くなったらストーブ使ってもいいですから。それと……鍵も開けたままでいいですから。朝まで……いえ、具合が良くなるまで、居てもいい……」

「帰っちゃうの?」

 ふたりに背を向けかけた僕に、チャチャは言った。

「……あ……はい……」

「でも、オルガンを弾きに来たんでしょう?」

「あ……ええ……でも、楽器だったら家にもあるんです、もっと、新しい機種のが。ただ、家だと大きな音が出せなくて……いつもヘッドフォンをするのが嫌で、それでここに来ていたんです。だから……別に、いいんです。いいんです……」

「ねえ君、時間、ある?」

 チャチャは、笑顔を作る僕を不思議そうに見上げると、指に挟んだ爪切りを握り直し、

「もし、よかったら……よかったらでいいんだけど、もう少し、話し相手になってくれないかな? スーパーやドラッグストアーのレジもマニュアル通りの対応しかしないから、客がくちを開かなくても買い物はできるだろう? 昨夜行った温泉だって、入り口の券売機で料金を払ったら、受付で券とタオルを交換しただけで、誰とも喋らずに入浴できた。もっとも、時間が遅かったせいか、客なんて俺とレオのふたりしかいなかったけどね。俺……もう、何週間も、レオとしか喋っていないんだぜ」

 半分笑いの交じった小さな溜め息をついた。その場を立ち去ろうとしていた僕は、しばらく経ってから、諦めたようにしゃがみ込み胡坐を掻いた。ダウンケットに潜り込んだ幼虫は静かな寝息をたてている。

「あ、あの……普段……何をしているんですか?」

 幼虫を起こさぬように、心なしか密やかな声になる。

「学生だよ」

 チャチャは安堵した様子で、リュックサックから出したポケットティシューを一枚広げると、レオの手の下に敷いた。

「今は、長い春休みの真っ最中さ」

「春休み?」

 僕は、昨日まで、確かに雪が降っていた窓の外を見た。

「大学の春休み、長いんだよ。まだ、こんなに寒いのに」

「ああ……大学生なんですか」

「こいつは、小学生の頃からの幼馴染み。同級生なんだ」

 華奢なレオが、僕には子供に見えていた。てっきり兄弟だと思っていたことが顔に現れていたのだろうか。チャチャは薄っすらと笑っているようだった。

「よく、兄弟に間違われる」

 どきりとした。

「そ、そうですか……友達なんですね」

 僕が言うと、チャチャは爪切りを持つ手をふっと止めて、

「……友達?」

 と自分に訊ねるように言った。そして、

「……レオを友達だなんて思ったことは、一度もないよ」

 謀るように笑うと、健康な若者の張りのある手が、小さな銀色の爪切りをパチンパチンと鳴らした。

「旅……しているんだ。長い春休みを利用して。貧乏旅行さ。だからお金がなくて、時々こうしてあばら屋を見つけては忍び込んでいる。けっこうあるんだぜ、昔、栄えていた峠の連れ込み宿とかドライブイン。明らかに人が出入りした気配のある所は、ヤバそうな奴らが来そうだから止めておくけど……」

「ヤバイ?」

「こういう人たちに、遭遇するかもしれないだろ?」

 チャチャは爪切りを持つ手を頬にあて、小指の先で傷を描く。

「ああ、そうか……」

「寂れた住宅街にある、家主のいなくなった空き家とかさ。中には、鍵も掛かっていない、ちょっと地震でもきたら崩れてしまいそうなボロ家もあって。こっそり一晩だけ拝借したりね」

 チャチャの手は、とても器用そうだった。けれども、触れているのは、陽を受けて輝くコガネムシの艶々した背中ではなく、しわだらけの五匹の幼虫そのものだった。レオの手は、あかぎれだらけで酷く荒れており、ふたりの手だけを見ていると、自分で爪を切ることのできなくなった老人と、その人を介助する若者のようなのだ。

「痛そうですね」

「うん、子供の頃から皮膚が弱いんだよな。夏の強い陽射しは苦手だって言っていた。プールの授業の時なんか、首から下が赤い点々だらけだったな。……でね、海パンの中もそうなのかと思っていたら、腰のところから太もものところまで、きっちり線を引いたみたいに白くなってんの。まるで、白い海パンでもはいているみたいでさ。陽にさらされたところだけ湿疹が出るみたいなんだよ。今は冬だけど、冬は冬で乾燥するからね。かさかさして……かわいそうだよな」

 チャチャはレオの爪にヤスリをかけ、息を吹いた。レオが引きつったように手首をぴくりと曲げると、丸めた指の関節から血が滲んだ。

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