第4話 コバンくん
「ごめんね。邪魔しちゃったよね。君、演奏続けていいよ」
「あ、いいえ……具合が悪いのに、そんなこと……」
「平気さ。こいつ、花火大会の最中でも、妙な恰好して平気で寝ちゃう奴だから」
チャチャが言うと、レオは喉を鳴らして笑いながら、
「……あの時は……最後の一発しか……観られなかった……オレ。……コバンくんとチャチャと……三人で……」
と、首筋の赤いアザにくちをつけたままで言う。
「本当、せっかく観に行ったのにな。……ああ……コバンくんっていうのは、こいつの彼女でね、本当の名前は、小畠リサ、っていうんだよ」
チャチャは、所在無げに彼らを見下ろす僕に向かって言う。
「小学校の女友達が、みんなそう呼んでいたんだよ。何でそう呼ばれていたのかな? コバタケだから? それだけ?」
「どんぐり……みたいだからじゃない? ……あとは……おいなりさん、とか……」
レオは頼り無い笑い声で応えた。どんぐり、ならば少しは想像できる。でも、おいなりさん、は無理だ。
「はは……レオの喩えは解りにくいな。まあ、小柄で子供っぽい容姿が、どんぐり、と言えば、どんぐりかも……ん? どんぐりと、おいなりさんって、似てるか? 髪の毛をいつもショートカットにしていて、子供の頃は男なのか女なのか判らなかったよね。だから、少年っぽいって言ったら、そうなのかもしれないけれど、でも、どうなんだろう? コバタケ君っていうのが、縮んだんだろうな」
「……コバンくんは、コバンくんだよ……」
「そうだね、そうだね」と幼児をあやすようなくちぶりのチャチャは、僕に、見も知らぬ女の子のことを話す。
「俺、彼女の声を聞いたことがないんだよね。小さな頃から、くちを巾着袋みたいに閉じて、ひと言も喋らないどころか、給食だって、ひとくちも食べようとしないし……。じっと黙って先生の言うことをきいているだけだった。おとなしくて……なんとなくイジメてはいけない存在だったな」
すると、眼を閉じたレオは、また赤い首筋を舐めながら言った。
「コバンくんは……緊張すると、くちが開かなくなるんだよ……」
「あの子、レオとだけは喋るんだよね」
チャチャはリズミカルに動いていた指先を伸ばし、レオの背中を下から上へと撫でる。
「俺たちの田舎にある神社は、百四段の階段を上った所にあってね……」
「……百……三段……だよ……」
眠りたいのを我慢しながらレオは言う。
「ああ、そう、百三段になったり百五段になったり……上り下りする度に、なぜか数が変わる石段の上に神社があって、そこから更に坂を上った所に広いグラウンドがあるんだ。毎年、八月の第一土曜日に花火大会があってね、あの日は、場所取りのために明るいうちから三人でレジャーシートを広げて、暗くなるのを待っていたんだよ。それなのに、レオときたら、花火大会が始まる前から居眠りなんかしやがって……。俺とコバンくんに挟まれて、右や左にしなだれかかってさ……な?」
「……そう……だった……かな……」
「だけど、本当はね……破裂音を響かせて、火の粉が夜空から降ってくるのを避けるように近くで観るよりも、海沿いの国道に架かる陸橋から見物するのが、一番、綺麗に観えるんだよ。鎮守の杜から光の花が咲いて見えるのを、みんなは知らないんだよな」
そう言って、チャチャは僕を見上げた。もっと大人だと思っていたのに、逆光に浮かぶ面差しは、警戒の色を解いた雛鳥のように映った。
「……あの、どこから来たんですか?」
この町からほとんど出たことのない僕には、彼らの言う田舎の花火大会の情報が、どこのものなのか判らなかった。けれども、チャチャは海の方向を指差して、
「あっち」
と言うだけだった。
「……ざっくりした……言い方……だな……」
チャチャのジャケットの襟の中に顔を埋めたレオは、噛み切れなくて、いつまでもくちの中で弄ばれた安い肉のように、スウェットシャツに染みた唾液を吸いながら言った。時々、食感を変えるように首筋を甘噛みする。傾けた頭で、それを受け入れるチャチャは、傾けた頭のまま鼻から息を吹いて笑った。
そして僕に、おかしいだろう? という眼を向ける。僕は仕方なく顔の半分を歪めて不自然な笑いを作る。
「……歌って……」
レオは言う。
「……いいよ……」
……ずみに……て……る……いじゅ……ゆきて……
チャチャが、レオの耳元で、内緒話を囁いているように見えた。が、そのくちから零れる音は、紛れもなく、僕が扉の透き間から聞いた、古いトイレの換気扇の音だった。
現実と夢の狭間をうつらうつらと漂い、暗闇に堕ちる恐怖を払拭するために、レオは子守歌をねだっていたのだろう。寝ぐずりする彼のために、チャチャは小さな低い声で歌っていたのだ。
「また……その歌……」
「しょうがないだろ。他に、子守歌っぽいもの知らないんだから……」
……今日も……よぎりぬ……暗き……さよなか……
歌に合わせてチャチャの体が前後に揺れていた。
「それ……歌の意味が……全然……解らないよ……」
「でも、好きだろ?」
「……判らない……好き……なのかな。……ねえ……オレの……子供にも……歌ってやって……よ……」
僕は耳を疑った。
今にも消え入りそうな声で、「オレノコドモ」と言ったことが、聞き間違いなのだと思った。幼虫は幼虫のままで、いくら脱皮を繰り返しても、サナギになり羽化しない限り、卵を抱くことなんてできやしないから。
「……そうだな」
チャチャはこの上なく優しい声で応えた。
やがて、チャチャの背中にしがみついていたレオの両手は、握り締めていたジャケットを離すと、ぱたりと床に落ちた。
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