第3話 チャチャとレオ

「窓際……窓際は、すきま風が……」

「き、今日は天気が良くて、暖かくて……陽も、陽も射していて……それに……それに、鍵は、僕が持っているんです。あの、だから、誰も……誰も入ってきません」

 というか、荒れた保育園は犯罪の温床になりかねないと、大人は子供が立ち入ることを禁じ、子供たちの間では幽霊屋敷と呼ばれていた。ここに近寄る人などいやしないのだ。

「鍵?」

 チャチャは、しまった、というように額に手をあてた。

「鍵なんて……俺、壊しちゃったのかな? ドアノブぶらぶらしてたし、二、三回ゴンゴンぶつけたら自然に開いた。ごめん、どうしようか」

「いえ、もう壊れかかっていたんです。気にしないでください」

「そう、悪いな。……レオ、どうする? あったかいってさ、窓際。歩ける?」

 チャチャは梟のように穏やかに言った。

「……うん……」

 胎児は重い体を起こした。チャチャが支えると、つかまり立ちを始める。

「大丈夫か?」

「うん……」

 レオと呼ばれた少年は、チャチャに手をひかれると、ダウンケットを引きずりながら、前後左右に上体をゆらして歩き出した。ダッフルコートのフードからはみ出した、たてがみのような乱れた髪に手を入れて、音がするほど掻き毟る。

 チャチャはレオが舞台の階段を踏み外さないようにと、しっかり肘を掴んでいた。スポーツバッグとリュックサックを右肩へ一度に背負い、寄り添いながらひと足ずつゆっくりと下りる。

 階段を下りきったところで、バッグの紐がずり落ちる。歩きにくそうに体を傾け、光の降り注ぐ大きな窓から見上げた空が、夜行性の生き物には眩しそうだった。

 チャチャが光に眼を細めた時、

「気持ち悪い……」

 レオはがっくりと膝から崩れ落ちた。

「吐きそう?」

 訊いた直後にレオは、うえっ、とえずく。チャチャは荷物を放り出し、椀のように重ねた両手で、うつむいたレオのくちを覆った。途端に、レオは黄色味のある透明な液体を椀の中にでろでろと吐く。

 僕は、嘔吐物を全て受け止めた両手に、顔をしかめた。

 肩をふるわせ短い息を繰り返していたレオが、ひと息つくように手を丸め、くりくりと両眼を擦ったのを見て、やっと言葉が出た。

「こ、こっちです」

 眉間にしわを寄せていたチャチャが、はっ、として僕を見た。

 入り口の横まで跳ぶように歩き、チャチャを手洗い場へと促す。できるだけ、手の中のぬるぬるした液体を見ないように蛇口をひねる。

「水も出るんだね。何度も廃屋に忍び込んだことはあるけど……どこも……電気も水も使えないから諦めていたのに……」

 網袋に入れられたレモン石鹸を泡立てながら、チャチャは言った。

「どうするつもり……だったんですか?」

「あんまり考えていなかった。でも、百円ショップでウエットティシュー買ってあるし、服や床の後始末をするより楽だろう?」

「それは、そうですけど……もし、感染なんかしたら……感染うつる病気だったら」

 幽霊屋敷に忍び込んで後片付けをして帰る奴なんて、僕はひとりも知らない。

「そうだな……その時は、その時だ。ふたりでくたばるかな……」

 チャチャは、ふんっ、と鼻息を吹き、にやりと口角を上げる。

 両手の指をぴんぴんと弾きながら、走ってレオの元まで戻ると、放られたスポーツバッグのファスナーを片手が入るだけ開き、浴場の名前が入ったタオルを出した。

「まだ、気持ち悪い?」

 チャチャが、すんっ、と拭った掌を嗅ぎながら訊くと、

「……ううん……吐いたら、楽になった」

 陽だまりにへたりこんだレオは、視点の定まらぬ潤んだ眼で、呆けたように室内を眺めて応えた。

「急に立ち上がったのが悪かったのかな。朝飯もろくに食ってないし……胃にきたのかも」

 チャチャは、レオのくちびるを親指で拭う。

「……うん……」

「水、飲む?」

「……うん」

 レオは力なく答えると、チャチャの膝に片手を着いた。チャチャはレオの顔を覗き込みながら、ファスナーの透き間に手を突っ込んだ。

「あの……吐き気がある時は、水、飲まない方がいいんじゃあ……」

「え、そうなの?」

 バッグの中をまさぐっていた手を止めたチャチャは、ぱちりと瞬きして僕を見上げた。

「は、母が……胃を空っぽにして、休ませた方がいいって、子供の頃から言っていたから……」

「ああ、そうか。脱水症状が気になっていたから……。そうだな、吐き気が完全に治まってからの方がいいよな……レオ、ちょっとだけ我慢できる?」

「……うん」

 僕の言葉を素直に信じたチャチャに対し、レオはどうでもいい適当な返事をした。だるそうに下を向いたまま、チャチャの膝に置いた手を太ももから背中に滑らせ服を掴むと、もそもそと寄り掛かる。

 レオは膝の上にまたがろうとしている。それを理解しているのか、チャチャはぺたりと胡坐を掻くと、レオの背中に両手を回して抱き寄せた。抱き寄せた指先で、とんとんと背中を叩く。チャチャの肩から、ちゅくちゅくと湿った音が聞こえた。

 もしかすると、チャチャは、この、でっかい幼虫を飼育しているのかもしれない。

 だって僕は、彼の黒いジャケットから覗くグレーのスウェットシャツの襟元が、濡れて変色していたことも、首筋に赤いアザがあることも、手洗い場で見つけていたのだから。

 母親の胸に抱かれた赤ん坊が母乳を吸うように、あるいは、幼児が指をしゃぶるように、レオはチャチャの首筋に吸い付いていた。

 これは、間違いなく、眠る前の儀式なのだ。

 

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