二十五 3Dスキャナ騒動

「こんにちわ」

 中年女性が下町キャンパス管理棟にやって来た。

 彩智(さち)は、首に掛けているネームプレートの紐を見て、保険の外交員かと思った。

 狩宿商工会議所の飯島が、この女性の後ろに控えていた。

「加藤さん、ご無沙汰です」

 仁(ひとし)がその女性に挨拶した。

「ご無沙汰ねぇ。今日は大切な話があってきました」

「加藤さん、こちらが相原彩智さんです」

 仁が口を開く前に飯島が彩智を紹介した。

「本日から下町キャンパスを担当する加藤瞳です」

 情報リークした商工課長は中央市民センター次長に異動、次の定期異動まで経済産業振興部長が商工課長を兼務する人事が発表された。

 経済産業振興部長は下町キャンパスの担当を商工課の中堅、加藤に変更した。

 彩智は後で知ったが、加藤は見かけよりずっと若い。

 彩智の母よりも一回り年下だ。

「相原彩智と申します。宜しくお願いします」

「前任者の鈴木がご迷惑をおかけして、まずはお詫びします」

「加藤さんに担当していただいて、嬉しく思います」

 前任者より、ずっと話しかけやすい、彩智の第一印象だ。


 そんな時、一通のeメールが届いた。


 中小企業向け証券市場、青葉市場に登録した、彩智の一号案件の会社の社長からだ。

 人体用三次元スキャナを開発している会社で、青葉市場へ登録する頃には試作機ができていた。

 人体用三次元スキャナの意義や価値を金融機関が理解を示さず、融資してもらえなかった。

 資金調達で苦労していたタイミングで彩智が訪問して、とんとん拍子にクロージングできてしまった。

 青葉市場で五千万円の資金調達に成功すると、出資希望者がどんどん名乗りを上げてきた。

 彩智のアドバイスで少人数私募債を使って八千万円の資金を集めた。

 一億三千万円の資金調達を目の当たりにした都銀から信金までの金融機関が、融資の提案に日参するようになった。

 ある信金が提案した、六千万円の借り入れで青葉市場の登録を廃止して登録コストをゼロにする資金計画に賛同した。

 彩智が提案した資金調達スキームどおりの展開だ。

 彩智のセールストーク、青葉市場を梃子に更なる資金調達ができる、は現実のものとなり、青葉市場にとどまる理由はなくなった。


 その三次元スキャナが商品化され、彩智を発表会に招待する旨の文面だ。

 添付ファイルは二次元バーコードつきの招待状だ。


 発表会当日。

 彩智が受付でバーコードのスキャンを受けると、少しお待ち下さいと、商談ブースに案内された。

 五分ほど待つと、少し頬が痩けた懐かしい顔が現れた。

 小さな会社だ。

 これだけの発表会は、全社一丸となって準備したことは彩智も容易に想像つく。

 社長といえども、準備の采配を振るだけでなく、現場作業にも携わったこともだ。

「立派な発表会場ですね。

 さぞかしご苦労されたのでしょう。

 でもお元気そうで何よりです」

「相原君も息災で何よりだよ。

 よく来てくれたね。

 早速だが、案内させてもらうよ」


 会場の入り口から少し奥に、女性の立体模型が展示されている。

 実物大模型、二分の一模型、十分の一模型の三体である。

「社長、この模型の女性は?」

「間もなく会えるよ。

 来場者にとっては3Dスキャナ以上の主役かも知れないけど」

「マスコミの方だけじゃないですね」

「会社のホームページに告知しただけなのに、いわゆるカメラ小僧がやって来てねぇ、冷たくあしらえばブログで何を書かれるか分からないし、仕方なく、メディアの取材の後で撮影時間を作るということで納得してもらったんだ」

 ビジネスの発表会なのに、ラフな格好の若者や中年が、後から、後から、やって来る。

 どうやらネットで情報を共有しあっているらしい。


「3Dスキャナもすごいですけど、この精巧さはどうやって作られたのですか?」

「高精細光造形だよ。

 この装置は市販されていて、自動車や航空機、造船業界で使われているんだ。

 相原さん、是非、もっと近くで見てみなさい」

 この模型は展示用ケースに入っておらず、できるだけ近くで見て下さいと掲示してある。

「マネキンに化粧を施し、モデルと同じ服を着せ、モデルと同じカツラをすれば、生き写しになるが、このスキャナは髪の毛も服も忠実に再現している。

 それだけに彩色が大変なんだ」

「服って、ボディースーツにしたのはモデルさんの体のラインを強調するためですか?」

「それもあるけど、むしろ彩色の難しさが理由だよ。

 肌って、微妙に色が違うでしょ。

 それを忠実に再現できないんだ。

 このレベルまで再現すると、些細な違いが重大な欠点に見えてしまう」


 ペイントの妙もあるが、服の縫い目やシワ、髪の毛や眉毛の一本一本までが再現されている。

 近くで見れば見るほどその精巧さに驚く。

 社長のプレゼンの要旨によると、ヒトを初めとする動物を三秒以内でスキャンすることで、ほぼ静止状態の三次元データを高精度で取り込め、手作業でデータ修正することなく後工程に使える、とのことだ。

「あの試作品とは比較にならない性能ですね」

 彩智は当時を思い出し、この会社の開発力に惚れ直したのだが、すくっと笑った。

「まだ青葉市場に登録していたら株価が高騰していただろうに、と思いまして。

 浅倉が地団駄踏む姿を想像すると、笑えてしまって」

 彩智は、浅倉の悔しがる顔を見たかった。


 放送局のカメラが実物大模型に張り付いて離れない。

 いいアングルで撮影するため、放送局の行列待ちができるほどだ。

「今日の夜か、明日の朝には放送されるのですね。

 これはすごい反響になりますわ」

 こういった彩智は、カメラ陣の向こう側で見え隠れしている人物に気づいた。

「あら、噂をすれば陰、ですわ。社長」

 浅倉だ。

 他の男性と話しているようで、彩智に気づいていない。

 本当に浅倉がいるとなると、彩智は今度は顔を合わせたくなかった。気づかれないよう、少しずつ場所を変えた。

「じゃあ、私はあちらに用があるから」

 指さしたのはステージの方角だ。


 程なくして、ステージではデモンストレーションが始まった。

 実物大模型のモデルが、模型と同じボディースーツ姿で登場した。

 これには拍手喝采だ。

 始めて見る女性だが、見ず知らずの他人という気がしない。

「模型だけど、胸やおしり触ったから初対面という気がしないよな」

 近くで、男性同士が冗談を言い合っている。

 そして、やはりボディースーツ姿のもう一人のモデルが登場した。


 最初のモデルがスレンダーで清楚な雰囲気なら、二人目のモデルはグラマラスで艶やかな雰囲気を漂わせている。

 二人目の方が拍手が大きいように彩智は感じた。


 拍手を制して社長が説明を始めた。

「ノイズをカットするために暗室型のスキャンボックスを使いますが、デモ用に半透明のボックスを用意しました。

 通常のスキャンは三秒以下ですが、より静止した状態のデータを取得するために、五秒から十秒間スキャンを三回繰り返し、その中の一番良いデータを選びます」

 二人目のモデルがボックスに入った。

 ポーズを取って、信号音が数秒鳴る。信号音の間にスキャンが終わる。

 これを三回繰り返した。

「データ量が大きいので市販のパソコンですと画像が表示されるまで三十分、ベクトルデータに変換するのに二十時間かかります。

 デモ用に用意したのは、高性能のグラフィックス・ボードとCPUを積んだワークステーションで、こちらの使用をお勧めします」

 デモンストレーションに協賛したコンピューターメーカーのパソコンを紹介した。


 開発秘話を披露しながら五分過ぎたところで、大型ディスプレイにモデルの映像が表示された。

 モデルのいろんな部位を表示したが最後の拡大映像に会場がざわめいた。

 それはモデルの指輪の拡大映像である。

 指輪に刻印された文字の溝に入っている付着物までが鮮明に表示されていたのだ。

 数秒の全身のスキャンで、ズーム撮影のような高精細のデータを作りだしたのだ。

 スキャンの速度とデータの処理速度に、取材陣は唸った。

 彼らは技術が分かる記者で、それを高く評価したのだ。


 今度は最初のモデルのスキャンが始まった。

 実物大模型を見ているのでディスプレイに表示しなくても成果は分かる。

 ところが、今度はボックスに四十秒入っていた。

「先ほど、五秒から十秒と申し上げたのは形状データのためのスキャン時間ですが、色まで取り込もうとすると二回スキャンします。

 先に形状データを取ってから、色彩データのスキャンをします。

 こちらは倍の時間がかかります。

 形状データの時と多少ポーズが違っても色彩マッピングしますので、ほぼオリジナルの色彩配置を再現します」

 二人目のモデルの画像は彩色されておらず、白色のマネキン人形のようだが、今度は生きているヒトの画像に見える。


「展示してあります実物大模型はプロにペイントしてもらいましたので、とても見栄えする色合いだと思います。

 現時点でプロに及びませんが、造形・着色型の三次元プリンターでしたら、本物にそっくりの模型ができるでしょう」

 彩智も熱狂した。

 お披露目会は大成功だ。

 平野を誘えば大喜びしただろう。

 来場者には一人目のモデルを根付けにしたストラップが渡された。

 彩智やマスコミの招待客には、十分の一スケールの、展示されていた模型のデータが渡された。三次元プリンターで印刷してくださいという意味がある。

 お披露目会の様子は、各種プロモーションに使うため主催者もビデオに収めていた。

 しかしそれより早く、来場者が動画サイトに載せたら、夜のビジネス番組で紹介される前に一万回を超える再生があった。


 後日、この再生回数に仁は切歯扼腕(せっしやくわん)し、彩智は宥(なだ)めるのに苦労した。

「ハイテクの実物とネット動画では勝負にならないわ」

「渚のカッカブが一万回越すのに何日かかったことか。

 たかが模型に数時間で負けるなんて」

「平野さん、私達とプロモーションのお金のかけ方が違うのよ。

 百万円使ったそうよ。たった一日で

 そして社長を含め二十四人の人達がふた月かけて準備した。

 その人件費を含めれば一千万円近いんじゃないかしら」

 動画サイトやビジネス番組を見て、八百万円を超える価格でも早速、注文が入った。

 そのうちの一台は新人女性を水着姿で売り出す芸能プロダクション、もう一つはファッション・デザイナーのスタジオだった。

 幸先のいいスタートだったが、出鼻をくじくような事件が起きる。


 開発中にスキャンしたモデルの三次元データが流出したのだ。

 無名のモデルだが、流出した三次元データでフィギュア作りがネットで話題になるや、彼女の名前やプロフィールも広まった。

 精巧なフィギュアの顔と全国のモデル事務所が公開しているモデル一覧を照合すれば、マリコという名前をすぐに探し当てた。

 マリコはモデル派遣会社に登録するモデルで、折り込みチラシや通販雑誌のモデルの仕事がたまに入る程度のランクに過ぎない。

 そんな無名の彼女に、いつもと違う仕事が与えられた。

 モデルのアルバイトとしてよくある、人体測定である。

 しかし、秘密保持契約書に署名捺印したのは初めての経験である。


 初日は、クライアントの会社の隅で、移動式パーティションで囲まれた狭い空間でスキャンされた。

 絵画教室のモデルのような、立ちポーズで動いてはいけない。

 このアルバイトの初めの頃は、スキャンに五分もかかり、当然、五分間動いてはいけない。

 楽なポーズでも、五分間は高度に訓練されていない一般人には無理だ。

 海外旅行で直立不動の衛兵を見たとき、抱えている銃も相当な重量であることを知り、どうして姿勢を保っているのか不思議だった。

 さて、その会社に何度も通ううち、急ごしらえの暗室でスキャンされるようになり、スキャン時間は目まぐるしく短縮化されていっった。

 暗室はだんだん小さくなり、スキャンボックスと呼ばれるようになった。


 そして商品発表のお披露目会を迎えた。

 この日を境に注目された。

 マリコ本人でなく、マリコの身体を記録したデータに。

 まだ無名のモデルでノーガードの彼女に、ストーカーの影がちらつくようになった。

 ネットでは、無断で彼女のフィギュアが製造・販売された。


 三次元データにはメーカーが保有する著作権と肖像権がある。

 しかし、権利の主張をしても、その侵害を防ぎようがない。

 モデル事務所としても由々しき問題だが、プロモーションに長けた彼らはこの現状を利用して、ローコストのメジャーデビューを図った。

 マリコがネットの動画情報番組にゲスト出演するようになると、マリコの三次元データを使ってアニメーションを作るムーブメントが起きた。

 マリコのデータは、水着姿なのだが、これに自作の服を着せた三次元データを作るファッション専攻の学生もいた。


 芸能プロダクションは、このトレンドを確実にキャッチアップした。

 タレントを水着のグラビアでなく、三次元データでデビューさせるのだ。

 無名のタレントを売り込む新しい方法が確立したかに思えたが、週刊誌を賑わす事件が起きる。


 水着姿のフィギュアから水着に相当する部分を削り取った、全裸のフィギュアがアダルトサイトで出回るようになった。

 削り取るは二通りある。

 一つは、工作機械で削り取る方法。

 もう一つはデータを加工して水着のない姿にしてしまう方法である。

 自分を売り出すための水着姿の撮影くらいに思っていたタレントの卵たちは、ショックで再起不能に陥る者が出た。

 かといって体のラインが分からないような服でのスキャンデータは見向きもされない。

 データでなくフィギュアでデビューさせるという手法に落ち着いた。

 この騒ぎは、下町キャンパスの管理棟でも話題になっている。


 経緯をよく飲み込めていない仁は、詳しくフォローしている祥馬(しょうま)に尋ねた。

「データは3Dプリンター用に変換されたものが流出したのか?」

「変換前のベクトルデータなんですよ。

 だから加工が楽なんですよ。専用ソフトさえあれば」

「服をなくしたり、羽根を生やしたりもできる訳だ。

 でもデータの出所はどこだ?」

「データは相原さんも持っていますよ。

 そんな人達から流出したんじゃないですか?

 でも、データを加工するにしても、服の下がどうなっているとか、羽根の付け根がどうなっているとか、想像力が試されますね」

 彩智が座っている隣で、仁と祥馬はこの話題に興じている。

「今の会話、セクハラですよね?服の下とか」

 彩智の警告は彼らの頭上を飛び越したのか、相変わらずマリコの3Dデータの加工に夢中になっている。


「彩智さん、見て下さい。この完璧なデータ」

 祥馬が彩智の方に向けたモニターには話題の三次元データが表示されていた。

 三次元データといっても、小さな文字で数値が並んでいるが、その背後にはデータから創り出した三次元モデリングのグラフィックスが描かれている。

 数値を非表示にすれば、どこから見てもマリコのセミヌードだ。

「都度、再計算しているから、当然といえば当然ですが、これだけ拡大してもCGはぼけない」

 三次元データの精緻さから、コンピュータグラフィックスのどの部分を拡大してもマリコの肉体を忠実に再現している。

「毛穴まで再現するなんて、スマートフォンの解像度と遜色ないな」

 画像データなら、解像度を超えた拡大をするとモザイク状に像がぼける。

 ベクトルデータなら、画面が単一色になってしまう。

 このデータを見ながら二人でまじめな議論をしていた。不謹慎な雑談を交えながら。彩智は机を蹴飛ばした。

「だから、こういうのをセクハラっていうのよ、分かる?

 女性のセミヌードはここの仕事と関係ないわ。

 私が不愉快に感じたらセクハラよ」

 彩智が蹴るときは危険水準だ。仁も祥馬も首をすくめて大人しくなる。

「(彩智の蹴りは)震度2くらいかな」

「耐震ジェルはモニタを支えきりました」

「当然だろ」

 仁と祥馬は話題を変えたのだが、彩智の怒りは納まっていない。

 仁はすぐに画面を切り換え、祥馬は逃げるように自分のラボに戻っていった。

「あれはセミヌードじゃなくって、水着姿なのに」

 祥馬は呟いた。

 祥馬のラボでは、恩師からeメールが届いていた。


 eメールのタイムスタンプは、ほんの少し前。

 彩智に叱られていた頃だ。

 研究室を辞めてから初めて届いたeメールの内容は、狩宿市の特許宣言騒動が研究室にも飛び火してきたので、明後日の午後二時に来いというものだ。

 狩宿市の当時の商工課長、鈴木が祥馬の研究途中の発明を特許出願するとフライングした件だ。

 こっちの都合を聞かず、一方的に明後日だなんて、と独り言を呟いたが、それを断るだけの予定は祥馬にない。

 それに、顔くらい出したいと思いつつも、古巣の敷居が高いと感じている祥馬にとって、来いといわれるのは渡りに船だ。

 飛び火で迷惑をかけたのだろうから、叱られに行くようなものだ。少し気が重かった。


 その日、東海道新幹線から見る富士山は稜線がくっきりして、山頂もはっきり見えた。

 心の重さを抱える者の、滅多に見られない絶景の富士は、それだけで嬉しかった。

 研究室に、よぉ、と挨拶して土産だけ置いて、恩師の部屋の前に立った。

 教授 寺岡剛。

 ドアをノックすると懐かしい女性秘書が満面の笑みで迎えてくれた。

 下腹部の、幸せそうな脹らみ。

 臨月に近い女性とは違う、突き出たような脹らみだ。

「野村さん、ひょっとして」

「石川君でも分かるわよね、このお腹」

「野村も、とうとうお父さんですか」

「彼、頑張っています」

 そう言いつつお腹を撫でる彼女の左手には指輪が輝いていた。


 指輪の送り主は祥馬の後輩。

 博士後期課程の祥馬が研究の面倒を見ていた博士前期課程の学生、野村だ。

 当時、田宮姓だった女性秘書は研究室のマドンナ的存在だった。

 研究室の学生は互いに牽制して手を出せなかったのだが、そんな事情に臆することなく、宮田嬢と婚約発表した野村は、彼女より三つ年下だ。

 野村は彼女と結婚するため、博士前期で修了して就職した。

 何よりも悔しいのは、一緒に研究してきた野村が田宮嬢と親密な関係だったことに、婚約発表まで気づかなかったことだ。

「どうだ、時の流れを感じるだろう?」

 奥から恩師の声がした。

 嫌みが入った口調に祥馬の心の古傷が疼いた。


 彼女が新卒で恩師の秘書に着任したのは、祥馬が大学院に進んだ年だった。

 だから彼女は、祥馬の顚末をよく知っている。

 恩師と初めて見る二人の男性が応接椅子に座っていた。

「先生、その節は大変御迷惑をおかけしました」

「君も苦労したようだね。いい顔つきになってきた」

「苦労といえるか?相変わらず、世間知らずって笑われるので」

 常識がない訳ではない、と祥馬は昔を思い出す。

 ノリが悪いのと愛想笑いができないだけだ。

 場の空気は読めるから、雰囲気を壊すような言動はしない。

 ただ、雰囲気に溶け込めない。


「その若さだ。世間知らずと自覚する方がいい」

 全くの世間知らずじゃない。祥馬の心は平静ではいられない。

 祥馬が静かに深呼吸している間に、寺岡は二人の男を紹介した。

「こちらは防衛大学校で特殊航空機を研究されている下田さん、そして統合幕僚監部

の大野さんです」

 下田護と名乗るやや恰幅のいい男性は、航空工学専攻の工学博士で五芒重工の航空宇宙部門を経て防衛大学校の教官にスカウトされた、と寺岡はプロフィールを簡単に述べた。

 下田より一回り若い大野卓也は、明言を避けているが情報分析が仕事らしい。

 つまりは諜報活動だ。

 自衛隊の諜報活動なんて、渚のカッカブの世界じゃないか、奇妙な符合に、祥馬は内心苦笑した。


 二人の紹介が終わったところで、祥馬は秘密保持の誓約書に記名捺印させられた。

 大野は、それをアタッシュケースに収めたうえで、祥馬を呼び出した経緯を説明した。

「話は、石川さんの学生時代に戻ります。

 寺岡教授との連名で米国の権威ある雑誌に掲載された論文がありますね?」

 後輩や企業からの研究生など総勢六人の名前が並ぶが、中心となって研究に取り組んできたのは祥馬だ。

「英文のできが悪くて、先生にご迷惑おかけしましたね」

「そうそう、私は研究の指導をしたのか、英語の指導をしたのか?

 自分は英語教師なのかと錯覚したくらいだよ」

 寺岡が豪快に笑って場を和ませた。

 僕にはこれができない、と笑いながらも祥馬は改めて悟った。

「米国防省はB+の評価をつけていたのです。

 それと他の学術誌に掲載された論文も」

「えっ、何のことです?」

 寺岡は、なぜ防衛省関係者が来訪したのか、詳しくは知らないようで、評価の事情を飲み込めていない風だ。


「どの国でも諜報活動をしています。

 それは軍とは限りません。

 静的な諜報活動は世の中で生みだされる情報を分析することです。

 当然、学術論文も含まれます。

 学術論文はその内容よりも、その先にある未来の予見が分析の重要テーマです」

「確かに、論文が世に出た段階で、もう古い事実ですからね」

 当然というように寺岡がいう。

「米国内の大学では、B評価で追跡開始、B+が共同研究の候補、Aで資金の一部補助、A+で委託、つまり相当額の資金提供となっています。

 ちなみに、日本の大学に米国の軍事予算を使う訳にはいかないので、その研究者を米国に招致するか、民間企業と共同研究するか、となります」

 ほぅ、と寺岡は頷いた。


 大野は寺岡の相づちを横目で確認しながらも翔馬から目を離さない。

「実は、寺岡研究室は長年B評価なので、論文は米国の軍や諜報機関が、全て精査されています。

 石川さんと共同執筆した論文は、初めてのB+です」

「実用的な研究だからB+ということですかな」

 工学部の教授だが、寺岡は基礎理論を重視し、自分の研究が実用的と言われるのは好きでない。

 だから、B+の理由が気になる。

 祥馬は学生時代に四本の論文を作成したが、指導教官の寺岡が権威ある学術誌に投稿してくれたのは一本だけ。

 三本は実用面に偏っているので審査に通らないと判断して、もう少し審査の甘い学術誌に投稿した。

「私達、防衛省も同じ評価でした。

 ただ彼らと違うのは、私達はその後の石川さんの学位論文まで追っていますので、(一連の研究は)石川さんの仕事だったと理解しています。

 だから石川さんの動向は把握していました」

 石川の仕事ということばに少し不満そうな表情の寺岡をちらっと見て、大野は話を続けた。

「石川さんが研究室を出られて、B評価に戻って、それだけの話だったはずが、おかしな事になってしまいました」


 祥馬の怪訝そうな顔は、まだ話の先が見えないからだ。

「ほら、狩宿市の下町キャンパス発表事件ですよ。

 下町キャンパスの共用サーバーがロックされたでしょ。

 組織名は明かせませんが、サイバー攻撃の狙い撃ちだったのです」

「そんな凄いことが起きていたのですか?」

 映画さながらの諜報活動が起きていたことに祥馬は驚いた。

 サイバーテロも、渚のカッカブに登場する。

「あなたの名前と特許、この二つのキーワードがあれば、諜報機関は『要調査』で動き出しますよ。あれはそのうちの一つだったのです」


 これって、大野の揺さぶりかな、そんなことを考える、自分の余裕に、祥馬は少し驚いた。

「まだ実感ないですけど」

「君の研究データを国が取りあげたのは、君を守るためでもあったんだよ。

 これで君はターゲットでなくなる」

「だんだん私を怯えさせていませんか?」

「これは失礼。私は前座のようなものですから。

 ここからは本題です。下田さん、お願いします」

 ようやく下田が口を開いた。

「唐突だけど私の古巣である五芒(ごぼう)重工で君を引き取るよう調整しているところだ。

 航空宇宙研究所はどうかね」

 それって、名古屋にある事業所?

 造船や発電所など多角的に事業展開していて、航空宇宙分野では業界トップ。

 航空宇宙研究所は寺岡研のOBが何人もいて、祥馬の面倒を見てくれた先輩もいる。

 大学の教員として研究室に残ることを希望しなければ、自分もここを就職先に選んでいただろう。


 実用研究志向で研究室に残ろうという考えは、恩師の指摘どおり間違っているかもしれない。

 企業にいくべきか?

 しかし企業では、研究テーマを自由に決められない。だから、……。

 かつては、逡巡している間に全てのチャンスを失い、仁の世話になることになった。

 五芒重工から声を掛けてもらえるのは、千載一遇のチャンスなのかもしれない。

 ひょっとして、宿命?

 だからこの話が巡ってきたのだ。

 今回は自分に吹く風に乗ろう。

「はい。寺岡研OBの名に恥じぬよう、頑張ります」

 寺岡が拍手してくれた。

「野村君、ちょっと来て」

 寺岡が秘書を呼んだ。

「石川君が五芒重工に行くことを決めたよ」

「まぁ、おめでとうございます。野村(夫)も喜びますわ」

 彼女が満面の笑みで祝福してくれただけでも、ここへ来た甲斐があった。

 でも、後輩の野村への嫉妬はまだ消えない。

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