二十四 ツバン
一週間遅れで渚のカッカブ第二話を公開したが、第一話ほどの反響はなかった。
「かみさんも出してもらって、申し訳ないね」
ウェーブチェイサーの目加田(めかた)は、天衣の努力が実らなかったことに同情しつつも残念そうだった。
第三話で同じ轍(てつ)を踏めない。
今度は神取(かんどり)の地元だし、星崎観光ホテルとささやの社長は彩智(さち)もよく知っている。彼らの期待を裏切りたくない。
下町キャンパスの管理等で、彩智がこのことで思案に暮れる中、久しぶりに金田亜沙妃(あさひ)が尋ねてきた。
「石川さんって凄いのね。あれが石川ラボね。彼、独身?」
「そうよ。亜沙妃さんってミーハーね。
新聞に載ったから、石川さんに興味、持ったんでしょ?」
「違うわよ。青年部へのお誘いよ。彩智さん、妬いてる?」
心の奥までを見透かすような亜沙妃の鋭い目つきにも、彩智の表情は変わらない。
彩智は沈黙で亜沙妃のツッコミを返した。
「まっ、いいわ。でも彩智さん、羨ましいわ。
独身男性に囲まれて。
私なんか、父よりも年上の人ばかりよ。工務店に出入りする業者さんって」
彩智は青年部で聞いた亜沙妃の噂を思い出した。
「若い男性が集まる新しい異業種交流会に熱心って聞いてるわよ」
「あれね。ちょっと食傷気味なのよ。
金銭欲だけならまだしも、性欲ギラギラの男どもには飽きちゃった」
「ハーレムが好きだったんでしょ」
「ハーレムって、いい男を侍(はべ)らしておく宮殿よ。
イケメンってレベルじゃなく、水もしたたるいい男」
「で、石川さんを亜沙妃ハーレムに連れ込もうと?」
「ちょっと有名だからねぇ、青年部に入ってもらうと盛り上がるかなって」
「彼、そういうこと苦手みたいよ。
学究肌っていうのかな。
部屋に籠もっているタイプ。
気心知れた人としか話さない、人見知りするタイプなの。
青年部の雰囲気には合わないわ」
「いいわ。私のダイナマイトボディーで勧誘してみせる」
「それを自分で言うかな?」
確かに亜沙妃はグラマラスだ。彩智から見ても眩しく見えることがある。悔しいけど。
下町キャンパスの入居者勧誘と渚のカッカブの再生回数の二つのプレッシャーで息苦しさを感じていた彩智には、青年部活動にも積極的な亜沙妃が羨ましい。
彩智の見立てどおり、亜沙妃の数回に渡るアタックにも祥馬(しょうま)は首を縦に振らなかった。
祥馬攻略に亜沙妃が苦戦しているのを密かにほくそ笑む彩智だった。
そんなある日、飯島が管理棟を訪ねてきた。
「石川さんもいらっしゃるんですね。丁度いい。皆さんに朗報です」
Eメールをそのまま印刷した数ページの資料を仁(ひとし)、彩智、祥馬の前で広げた。
「下町キャンパスの重点研究テーマに石川さんの研究が選ばれました」
極秘と書かれた研究テーマ一覧表に載っている、五件の一つが祥馬の研究だった。
「応募総数二十二件。
愛知県では石川さんだけです」
仁も彩智も、思わず祥馬とハイタッチして、ハグした。
「おい祥馬!けど、今日は許す」
彩智が祥馬とハグしたことに、仁が努めて寛大さを装った。
祥馬は頬が緩み、まんざらでない風だ。
仁の嫉妬を面白がって、彩智は祥馬の左腕に抱きついたりもした。
「私、ドキュメンタリー番組みたいな技術開発競争の現場にいるのね」
「その言い方、開発競争はモノが並ぶ現場で起きているって口ぶりだね」
仁が彩智に絡んできた。
「私、テレビで見てる範囲でしか知らないから」
「開発競争はある意味、机の上で起きている」
「会議室ではないのよね」
彩智のツッコミに仁が返す。
「そりゃぁ、刑事事件じゃないから」
祥馬はこのやり取りに割って入れないことが悔しい。
「でも石川さんを見ていると、ここ(管理棟)で管撒(くだま)いているから、マイペースで仕事する人かなって思っていたけど、実は時間との勝負だったのね」
「研究開発で人より遅いマイペースなんてないよ。
ライバルを出し抜くスピード感のマイペースはあるけど。
石川の凄さを見直したでしょ。
それを分かっている僕も凄いけど」
「平野さん、そこで自分を褒めなきゃ、ハイスコアを維持していたのに」
「えっ、石川に負けた?」
「初めから勝負になってないのよ」
皆、屈託のない顔だ。
こんな場が彩智も仁も、祥馬も楽しい。
「基本となるシミュレーション手法は学生時代に論文を書いたんだけど、実際に計算できたなんて、スーパーコンピュータを使えたお陰です」
「よく分からないけど、石川さんって優秀なのですね」
「茶化さないでください。
学位論文をまとめたとき、学術的にはやれることはやったのですが、社会でいつ日の目を見るのかなと思ったとき、自分でやらなきゃ、と思って、やっとそれができつつあるんです」
「難しい話はわかりませんが、五件の中に入ったってことは石川さんの研究は下町キャンパスでも最高ランクということですよ」
飯島は、最高ランクを強調した。
彩智の瞳が潤んだ。
最高ランクの響きが彩智の涙腺に共鳴したからだ。
下町の商店街に最高ランクの研究がある。
彩智もそれに関わってることに心が揺さぶられて、歓喜の涙が湧いてくる。
それを悟られないように努めて明るい声で号令した。
「じゃぁ、これからも最高ランクに挑戦しましょ」
仁が音頭を取った。
「最高ランクの前祝いで乾杯」
「明後日は、第三話の公開よ。その前祝いね」
渚のカッカブ第三話は、美塩市旅館組合や観光協会、商工会議所と青年部が事前に告知してくれたことから、公開初日から再生回数は順調に伸びていった。
それを見届けた新聞記者が、多分、明日の地域面の記事になります、といってくれた。
翌朝、朝刊を持って仁よりも早く管理棟に出勤してきた彩智は、高知新報の記者と名乗る男から声を掛けられた。
「朝早くに申し訳ございません。
トライアローの相原彩智さんはこちらだと聞いたもので。
実は、御社や美塩市が使われている『プロジェクト臥龍』が商標権を侵害しているとの話を聞きまして伺った次第です」
『プロジェクト臥龍』とは、臥龍プロジェクトで発売される商品の統一ブランド名で、このプロジェクトに関わる企業が販売する関連商品に使う。
「お話が飲み込めないのですが?」
寝耳に水だ。彩智は努めて平静を装って聞き直すのが精一杯だった。
「ある会社が『臥龍』の商標権を取得していて、その会社が警告文を発するそうです」
「当方に届いていませんけど」
「何か、コメントをいただきたいのです」
「よく聞く言い回しで申し訳ありませんが、その文書が届いていないのでコメントのしようがありません。
あの、決して、悪いことはしていません」
「そんな。犯罪者だなんて、言ってませんよ」
記者は笑いながら去った。
神取に連絡すると、内容証明郵便を受け取ったばかりとのことだ。
「送り主は高知県の株式会社ツバン、マーケティングとプロモーションの会社。
社長は内山晃芳、元サークレットのマーケッタだ」
「私もサークレット時代の内山さんの名刺を持っています」
青葉市場のエージェント時代、サークレットへ何度も出入りしている間に何人かのマーケッターと名刺交換する機会があった。内山もその一人だ。
彩智は、前からの疑問を神取に投げかけた。
「内山さんが退職されたのは、方針の違いとかの仲間割れですか」
「そうじゃないけどね。
この件はサークレットがらみなので、僕が対処するから、心配しないでくれ」
今後の取材は自分に回してくれと、神取は彩智に指示した。
翌朝、高知県の地方紙に掲載されたニュースを根拠に、何人もの記者が下町キャンパスを訪れたのだが、この場にいない神取を取材するよう説得した。
次の日、主要紙の地方面に『プロジェクト臥龍』の商標問題が取りあげられた。
ツバンとサークレットの言い分を列挙する程度で新聞は沈静化した。
数日後、名古屋の放送局が制作したビジネス番組が、中小企業が考えるべき商標や意匠、インターネットで使うドメイン名などをテーマにした。
事例の一つとしてサークレットとツバンを取り上げた。
参考映像で動画『渚のカッカブ』の最新作、第三話の冒頭が使われたことから『プロジェクト臥龍』の知名度は一気に広がった。
テレビでこの動画を始めて見た若者が皆、第一話から第三話までをネット検索するや、一気に拡散した。
「彩智さん、トライアロー設立以来の大成功ですよ。一時間に千回を超える再生回数ですよ」
仁が興奮気味に話す。
動画の再生回数は、分かり易いマーケティングデータだ。
「やっと、渚のカッカブがムーブメントになりつつありますね」
相変わらず管理棟に居座っている祥馬が、それでも成功の気配を称えた。
「ツバンのことで、スポンサーさんから叱られっぱなしだったから、これも怪我の功名っていうのかしら」
彩智が商標事件と呼ぶ、ツバンからの一方的な通告は解決していないが、これに便乗して注目されている状況を大いに利用したい。
彩智がその旨、神取に電話で報告した。
「……ということで一日に二万回を超える再生です。
ネットで見ていると聖地巡礼のムーブメントが起きつつあるようですし、実際、あかば屋さんとウェーブチェイサーさんにはカッカブを見ての来客があるそうです。
それに、アフィリエイトプログラムの収入も期待できます」
「アフィリエイトか。
彩っちゃん、アフィリエイトのビジネス本が書けるね」
「まだ一週間ですよ」
「もう暫く続くだろ。
これで相原彩智は時の人さ。アフィリエイターに稼ぐことを伝授するって大上段に構えれば、構えるほど、本は売れる。
冗談はこれくらいにして、よくやってくれたね。それと、マスコミ対応、ご苦労さま」
「これも先生のお陰です」
神取は窓の外を見ながらの彩智との通話を切り、振り返った。
「というのがトライアローの現状だ。
内山君、落としどころをどう考える?」
「神取さんにおいしいとこ、取られちゃいましたね」
パーティションのない二十坪ほどのツバンのオフィスでは、二人のスタッフが固唾を吞んで成り行きを見守っている。
地元新聞がツバンが愛知県の会社を商標権の抵触の可能性があると通知したことを記事にした。
まだ裁判沙汰にしていないのだが、ツバンのシンパサイザーの住民は訴えたと誤解している。
スタッフにも応援が寄せられている。
目の前に相手方の社長がいる。
自分たちの社長に会いに来たのだ。
対峙している二人は、一触即発の予想を裏切り、雰囲気もない。
内山が急に標準語を話すことにスタッフは違和感を抱く。
だから、二人に土佐清水市特産の柑橘を絞ったジュースを出すスタッフの手が震えた。
ジュースを飲む間の静寂。
「さっきの話、神取さんのナビ、間違った案内しましたよ。
地図の上では遠回りでも足摺スカイラインを通るのが正解なんです」
高速道路のサービスエリア、一般道のコンビニ、道の駅、物産販売所、町並み、……現地に行かなければ見落とすことは多い。
だから移動時間に余裕があるなら、神取は長距離でも車を運転する。
ツバンまで車で移動した。
前日、愛知県からひたすら走り、高知県に入った。
足摺岬までナビの案内どおりに進んだら、とんでもない経路を案内した。
事前に経路の概略を確認しなかった自分がいけないのだが、車一台がやっと通れる狭い道を示したのだ。
それでも国道だ。旧道なのだろう。
「だから、帰りはそのスカイラインを通ったよ」
「行き(往路)の、狭い道、途中に集落があったでしょ?
その中に私の家があるんですよ」
「で、実家に帰って地元活性化ということか。思い切った決断だね」
「神取さんだって、同じでしょ」
「君のように実家に戻るって決心はまだしていないよ。
そうした知人(牧原のこと)がいるけど、彼は両親の介護がきっかけだから」
スタッフはいつ本題に入るか、聞き耳を立てている。
「まぁ、愛知の人は東京と日帰りで往復できるから」
内山がこう切り出すと、神取も切り返す。
「高知県からだって、飛行機に乗れば東京までの時間は(愛知県からと)変わらない」
「生憎、ここから(高知龍馬)空港までは三時間かかるんですよ。
東京はまだいい。
十便あるから。
名古屋(便)は一便ですよ。
飛行機で日帰りできないって記者に嫌み言われましたよ」
いよいよ本題だ。スタッフは鼓動が速くなるのを感じた。
「その記者かな?
ウチの相原がストーカーと思って、怖い思いしたそうだ」
「そうですか。記者が、訴訟を起こさないのかって催促してくるんですよ。
裁判沙汰になるのを期待しているんですね」
「ところで川崎君はどう」
「彼、虎視眈々と神取さんを狙っていますよ。私も、ですが」
「ほう」
内山は神取の相槌で一呼吸おくと、話を続けた。
「私や川崎の処は、観光資源として神取さんの処よりも優れています。
売れさえすればリターンは大きいと期待したいところですが、経済環境は神取さんの愛知県に遠く及ばない。
凄く恵まれているから、トライアローにもっと頑張ってもらって、トリクルダウンを期待しているのですけどね」
「トリクルダウンか」
「うまくいっているみたいですね。
プロダクトプレイスメント」
「まあね」
「経済力の底力の差を感じますよ。
地元企業なんでしょう?スポンサーは」
「皆が皆、スポンサーになれる程、潤っているわけじゃない」
「ウチでは地元企業がスポンサーになる余力がない。
お金を持っているのは他所から来た企業なんですよ」
渚のカッカブ第五話を公開する頃には、彩智は美塩市と狩宿市で少しばかり知られた顔になった。
新聞記者の取材記事が地方版に掲載されたり、ケーブルテレビの対談コーナーに出演したりしたからだ。無料で配布されるタウン誌も競って、彩智をインタビューした。
俵市の聖地巡礼は明暗が分かれた。
あかば屋は聖地巡礼の起点として、集客できたが、宿泊増に繋がっていない。
記念撮影とキャラクターグッズ目当ての客ばかりだ。
人気を博したのがウェーブチェイサーである。
車やサーフボードに貼る、ウェーブチェイサーのオリジナルステッカーは好評で、これに乗じた小物も売れた。
それ以上に、第二話で登場した目加田夫妻と一緒の写真を撮りたくて来店する者が多かった。
マリンスポーツ以外の客が増えたことから、新たに聖地巡礼用の小さな店舗を建てたほどだ。
権利の侵害を警告された俵市の印刷会社、椰子の実ハウスに対しては神取が弁護士を通して賠償を求めた。
それでも、のらりくらりと躱す相手に、訴訟を起こした。
「彩智さん、見たわよ」
狩宿商工会議所青年部の例会で、扇屋の総子が声をかけてきた。
総子が見たのは、地元ケーブルテレビの対談コーナーに登場した彩智の姿だ。
狩宿市や美塩市など六つの市を営業圏とするこのケーブルテレビのニュース番組が、遅ればせながら渚のカッカブを取りあげることになった。
トライアローの顔として彩智が出演したのだ。
狩宿商工会議所と美塩商工会議所の両青年部は会員に放送スケジュールを伝えた。
「ねぇ、スタジオってどうだった?
私、お店でインタビューされたことはあるけど、スタジオでのインタビューの経験はないの」
総子は興味深そうに彩智に効いた。
「社会見学で見た、放送局のスタジオの、本当にミニチュアって感じでしたよ」
「三津屋さんってどんな感じ?」
三津屋冴子は名古屋の大学で准教授として教鞭を執る傍ら、経済番組を幾つも抱えている。
公共放送や民放、近隣のケーブルテレビ局に出演し、ローカル番組ながら、経済番組の花形キャスターだ。
「三津屋さんって話を引き出すのが上手よ」
「何となく分かるわ。彩智さん結構喋ってたものね。
時々、三津屋さんが制していたでしょ」
総子はそこまで見ていたのだ。
「そう。自分では言い足りないから喋っていたけど、三津屋さんが話題を変えたりして、やんわりと制していたのよね。
後でビデを観て気がついた。あぁ、恥ずかし」
この番組がきっかけで、彩智は取材を受ける機会が増えた。
駅や飲食店に置かれているフリーペーパーだったり、月一回新聞に折り込まれる地元情報紙だったり、と。
名古屋市内。
「彩っちゃん、いつの間にか有名人だね」
こう言われると照れてしまうのだが、大輝商会の輝本にいわれると名誉挽回できたようで、素直に嬉しい。
「ありがとうございます。
少しご無沙汰して、申し訳ございません」
「君に引き合わせたいのが彼、矢田君だ。
チタン用バイトのセールスエンジニアだ」
矢田の名刺にはドイツDDAMG社日本法人のセールスエンジニアとある。
「チタン……バイト……のセールスエンジニアですか?」
彩智が分からないのも、然もありなんという風で輝本が矢田の紹介を補足した。
「分かり易くいえば、航空機で使うチタン材を切削加工する時に使う刃物、一般にバイトというのだけど、これの商品知識や加工ノウハウに詳しいんだ」
「電話で仰っていた下町キャンパスの入居者って矢田さんのことですか?」
彩智の質問に、矢田が口を開いた。
「社長、ここからは私から。
社長からお聞きしたんですよ。下町キャンパスも入居者を増やすのに、研究開発に拘っていないと」
「そうだよね、彩っちゃん」
飯島は入居者が増えないことに焦り始め、入居のハードルを下げた。そのことを彩智は輝本に話したことがある。
「はい……」
「営業は駄目って顔だね。
大丈夫。矢田君はただの営業じゃない。
セールスエンジニアの肩書きは伊達じゃない。本当はウチに来て欲しい人材なんだよ」
「社長、買い被りです」
「でもチタンって難しいんですよねぇ?」
「ご存知なのですか?」
彩智にチタンの知識があることに矢田は驚いた。
「父が言ってました。俺の経験でも思い通りにならないって」
「なるほど。相原さんのお父さんはジソーの技術学校出身なんだ」
「じゃあ、あの技能オリンピックの」
父の経歴を肯定的に捉える矢田に彩智は好感を抱いた。
「そう。案外、相原さんのお父さんと君とは、話が合うかもしれない」
「御縁があれば、是非」
「彩っちゃん、DDAMG社はウチも販売代理店している工具メーカーで業界内では世界トップだ。
難加工材の切削工具では二番手よりも五年くらい先を行っている。
その分、値段も張るけど。
で、彼はDDAMGのチタン用バイトのエキスパートなんだ。
加工ノウハウにも精通している」
「凄い方なのですね」
工具の業界のことは分からないのだが、輝本が力説するのだから、凄いのだろう。
「この度、DDAMG日本法人の出資を受ける形で独立することになりまして、尾張・名古屋は大輝商会さんがカバーされていて、三河もカバーされているのですが、失礼ながら、まだ十分に手が回ってないのかな、と」
スピンアウトなんだ、と彩智は感心した。
出資してもらうという点では私も同じだけど。
「そう。(大輝商会は)大手はカバーしているけど、中堅中小は手が回ってないんだ。
そこを矢田君と一緒に展開していきたい。
そのオフィスを下町キャンパスにしたいんだ」
「そうです。下町キャンパスを三河のチタン加工の拠点にしたいのです」
「話が大きくてついていけないような」
「念押ししておきたいことが二点。
まず、彼は営業でなく、加工方法の開発をするために入居すると考えて欲しい。
実際、彼はクライアントと一緒に加工方法を編み出して、クライアントさんとDDAMGとの共同特許を幾つか取っている」
「きっと、飯島も平野も、矢田さんを大歓迎です」
「(入居は)当確かな。じゃあ、二点目」
「はい?」
「彼は四十三歳、独身。離婚歴なしの真っ白だ」
「って、輝本社長、それが何か?」
彩智は少し動揺し、顔が火照るのをなんとか抑えた。
「君の知り合いで、よさそうな人がいたら紹介してもらえないかなって。
ここで身を固めてもらわないと、どっかへ行きかねないからねぇ」
「社長が私にお節介を焼くのも、大輝さんを辞退している理由なんです」
慣れているのか、矢田は涼しい顔していう。
下町キャンパス管理棟。
彩智のイメージガール的な側面だけに憧れて、下町キャンパスやトライアローの就職を希望する女性が時々現れるようになった。
下町キャンパスもトライアローも、人を雇う余裕がなく、断っても面接だけでもと引き下がらない希望者に、断ること前提に話を聞く。
「働く人の気持ちは分かります。私の経験を入居者の皆さんに役立てて欲しい」
大手企業勤務時代の自分の活躍ぶりを聞いて欲しい専業主婦の動機だ。
「入居している人の技術を世界に広める、そんな橋渡しの仕事をしたいです」
グローバル企業の採用試験に全敗した学生の動機だ。
ある学生は狩宿市議の父を伴って来た。
「私、人と人を橋渡しすること得意なんです。
ここにいらっしゃる技術者の方をもっとうまく世の中に出せる自信があります」
一人娘でお嬢さん育ちの学生が根拠のない自信だけで……、彩智は蹴りたい衝動を抑えるので精一杯だった。
「ウチの娘、何とか頼めんかね」
「先生のお嬢様がここに居ていただいて宜しいのでしょうか?
私はあまりオフィスにいませんので、平野の世話を頼んでしまうことになりますし、入居人は修士や博士の学位を持っていますが、何と言いましょうか、技術バカのオタクで、むさ苦しい野郎ばかりですし…」
短時間での印象は、はきはきした感じの娘だ。
世間知らずではないだろうが……。彩智は断る理由を考えあぐねていた。
タイミング良く、仁と祥馬が入ってきた。
ここ数日徹夜続きで無精ひげを生やしていて、弁当とお菓子の入ったレジ袋を持っている。
二人とも草食系の優男なのだが、徹夜疲れで感情のコントロールが効かず、ハイテンションだ。
彩智一人だけと思ったのだろう。チョット危ない、そんな感じを醸し出している。
後日、娘から断りの連絡が入った。
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