十六 エントリー

 愛知県俵市(渥美半島)の椰子の実ハウス株式会社は、プロバイダー事業で成長した印刷会社である。

 社長の矢口淳は、地元の老舗印刷会社に就職して仕事を覚え、独立して椰子の実ハウスを設立した。

 勝算をもって意気揚々と開業した矢口だが、パソコンの普及期と重なり、企業の印刷需要が減少する荒波の洗礼を受けた。

 食い扶持を繫いだのが、プロバイダー事業だ。

 インターネットへの接続とホームページ作成。

 どちらも黎明期は随分と利益を出せ、印刷事業の赤字を補填でした。

 プロバイダー事業の需要が一巡して伸び悩んだ頃、幸いにも印刷事業が利益をだせるまでに成長した。

 プロバイダー事業の成功体験が忘れられない矢口は、インターネット関連事業に手を出すのだが、収益源にはならなかった。


 儲かる仕事を取ってきて、は最近の専務の口癖だ。

 口癖の矛先は矢口だ。

 そんな矢口の目に留まったのが、あかば屋が始めるという聖地巡礼の新聞記事だ。

 あかば屋に納める、キャラクターをあしらった印刷物、土産物の包装紙や幟、プリントTシャツでは儲けにならない。

 だが、地域全体のムーブメントにすれば、薄利の印刷ビジネスにとって久々の付加価値の高い仕事だ。

「渚のカッカブ、ウチで作れないかなぁ?

 大石君ならできそうじゃないか?」

 矢口の食指が動くことを専務は予想していた。

「社長、彼が抜けたら(印刷データ)制作は回らなくなる。

 駄目に決まっているじゃないか」

 専務に言われるまでもなく、百も承知の矢口だ。

 だが、金の臭いを嗅ぎつけると、いても立ってもいられない。

 その日、残業を終えて帰ろうとする大石に矢口は声を掛けた。

「君はアニメを作れるんじゃないか?」

「そういう学校を出てるんで、実習で結構作りました」

「今でもやりたいか?」

「そういう仕事あるっていうから、この会社に入ったんじゃないですか!」

「そうだっけ?」

 大石は、多角経営する大手・中堅の印刷会社や広告代理店に入ってもおかしくない人材だ。

 地元志向の彼は、かつて矢口が勤めていた印刷会社への就職を考えていた。

 商工会が開催した合同会社説明会で、業界研究のつもりで椰子の実ハウスの話を聞きに来たのが大石の運命の分かれ道だ。

 矢口の、アニメ制作にも携われるという、はったりの勧誘に喜び勇んで入社を決めた。

 ちなみに、第一志望だった印刷会社では、アニメ制作は外注しているとの説明だった。

 そういって勧誘したことを矢口は忘れているのだが、大石は欺されたと思って根に持っている。

 専務に懐いているが自分とは距離を置く大石の態度に合点がいった。

「じゃあ、いいチャンスが来たというわけだ。

 渚のカッカブ、知っているかい?」

「いいえ」

 矢口は無地の白封筒を大石に渡した。


 彩智からのメールを受け取った佐藤瞬(しゅん)は、リンク先の渚のカッカブのエントリーページを開いた。

「とうとう始まったんだ」

 かつての仲間にメールを転送した。


『トライアローと下町キャンパスは別物ですか?』

 彩智(さち)に送られたメールの差出人は大輝商会の輝本紀夫からだ。

「渥美半島の聖地巡礼ねぇ」

 彩智が大輝照会を訪問した際、説明した臥龍プロジェクトに輝本は懐疑的な表情を浮かべた。

「権利関係は押さえているの?」

「知財のことですか?」

「そう。アニメはヒットしたけど、キャラクターの商標権や使用権が他の会社に奪われていた、ではただ働きに等しいからね」

「トライアローの神取はそういったことに詳しいので」

「そういえば、マーケッターだそうだね」


 名古屋市在住の戸田梨花がコンペの存在を知ったのは、何人もの拡散行為によって自分のウォールに表示された記事によってだった。

 彼氏との待ち合わせの空き時間にSNS、フレンドブックを開いたら、友だちの友だちが拡散したその投稿が、三回目のスクロールで目に飛び込んできた。

「待たせたね」

 コンペのページを夢中で読んでいる梨花に彼氏の声は届かなかった。

「梨花、そんなに面白いことが書いてあるのか?」

 やっと彼氏の到着に気がついた。

「すっごいチャンスが来たの!」

 つきあい始めて三カ月だが、獲物を狙う雌豹のような目つきの梨花を始めて見た。

 ベッドの上でもこんな表情を見せない。

 急に梨花が大人びて見えた。

「そんなすごいチャンスなら、モノにしろよ!」

 彼は自分の懐の広さを誇示した。

「応援してくれる?」

「当たり前だろ!」

 この一言で、梨花との関係がずるずると続くことを後悔することになる。

 戸田梨花はデザインの専門学校を卒業して、現実的な選択としてサイン制作会社に就職する。

 社員六人の看板屋に、久々の新入社員だ。

 進学するときに夢見たのはアニメーターだった。

 アニメーションの制作は好きなのだが、職業としての現実と家庭の事情を天秤で量り、屋外看板も手がけるサイン制作会社にした。

 学園祭で看板や大道具の製作を経験して、体を動かす現場が意外と性に合っていると気付いた。

 印刷会社のデザイン関係の職種も魅力だが、手取りの給料では今の会社の方がよかった。

 看板設置の屋外作業で夏場の大変さは想像外だった。

 現場を幾つも掛け持ちすると、汗だくになった作業服を着替える間もなく、次の現場で顧客と会うのは、消えてしまいたいくらい恥ずかしかった。

 それでも、時々舞い込んでくるイベント用の看板制作は楽しい仕事の一つだ。

 デザインのセンスでは、先輩社員の足下にも及ばないが、社内コンペで評価がどんどん高くなることにやり甲斐を感じた。

 女性専用施設でのサインの設置や現場での補修作業は、紅一点の現場作業者、梨花の独壇場だ。

 トイレや更衣室では男性作業者の場合、作業時間中は使用休止にしなければならないが、梨花ならその必要がない。

 女性専科の顧客から重宝がられる。

 だが、仕事では自分が主体でデザインはまださせてもらえない。

 しかし、このコンペならそれが叶う。

 その夜、梨花はスケッチブックを開いた。

 イベント看板でつかうキャラクターの素材集だ。

 実写やアニメのヒーロー、ヒロインの模写や梨花のオリジナルデザインもある。


「南君、店番、頼む」

 フルタイムに近いアルバイト南欣哉(きんや)は、日に二回、店長に頼まれる。

 工場を取り囲むように開発された岡崎市内の住宅街。

 その工場の一角が売却されてショッピングモールが開業したのが二十年前。

 テナントの一つ、写真屋が欣哉の職場だ。

 店長はこの店舗と他のショッピングモールの店舗の二つを見ている。

 だが、店長が店を離れるのはもう一つの店に行くためでない。

 半年前から始めたコインランドリーの状況を確認するためだ。

「コインランドリーで一番大事なことは何か、分かる?」

「きれいに洗濯できることですか?」

「そうだけど、今どき、どのフランチャイズでも洗濯の仕上がりに大きな違いはないんだよ」

「じゃあ、何ですか?」

「ヒントは、女性だ」

「女性?香り?ですか?」

「それは家庭での洗濯だね」

「お店の雰囲気!外観とか、内装とか。あと小さい子供が喜ぶようなキャラクターがガラスや壁に描いてあること!」

「僕が絶対に守ること、それはフランチャイズの社長から教えられたことだけど、清潔感だ」

「清潔感?やっぱり危ないんですか?コインランドリーって。

 皆が使うから、汚れだけじゃなく、ばい菌みたいなのが残ってしまうんですか?」

「今どき、それはないよ。

 どんなに消毒しても、たった一つのことで信頼を失うんだ」

「何ですか?」

「髪の毛や体毛だよ。

 洗濯槽に髪の毛一本残っていても、ものすごく不潔に感じるんだ。

 そして客は逃げていく」


 コインランドリーの管理もアルバイトを雇っているのだが、清潔感を重視する店長は洗濯槽内に髪の毛一本も残っていることを許さない。

 欣哉が勤務中に二回、一人で店番を頼まれるのは、こういったメンテナンスをアルバイトの管理人がきちんとやっているか監督するためだ。

 父親の口利きで借りた居抜きの店舗は、岡崎市内で二度と手に入らないような好立地で、格安の賃料。

 神経質なまでの清潔感で客の入りは良好だ。

 プリペイドカードでも最高額のカードが一番売れているのが、それを物語っている。

 フランチャイザー(フランチャイズの本部会社)の社長も、最高額プリペイドカードの販売額はフランチャイジー(フランチャイズ加盟店)中トップと褒めてくれる。

 父親の資金援助で始めたランドリーがこんなに儲かるとは思わなかった、と聞かされる。

 だから、欣哉は時々、店長から誘われる。

「南君、本気ならいつでもお店(写真屋)を任せるよ」

 当然、時給は上がる。業績に応じた成果給も出してくれる。

「いえ、遠慮しておきます」

 いつもの欣哉の返事だ。

 だからといって店長は残念そうな顔をしない。

 ポーカーフェースかもしれない。

「もう一つ、二つ、コインランドリーを作ったら、写真屋を辞めるつもりだ」

 その後釜として、欣哉を据えたいのだ。

 欣哉なら教える事は何もないし、客のウケも悪くない。

「でもねぇ、いい物件、見つからないんだ」

 心当たりがあったら教えてと欣哉に囁く。


 欣哉の目の前にいるのは、プチ・ブルジョアジーなのだ。

 ブルジョアジー(有産階級)?

 ちょっと流行ったプロレタリア文学の影響かも知れないと自分で苦笑する。

 ネットで飛び交っている。ブルジョアジーとプロレタリアートが。

 南欣哉はフリーターだ。

 フリーランスのCGアニメクリエイターになる夢を追い続けている。

 実際、様々なコンテストに応募しながら、番組制作会社にCG効果の売り込みや企画を持ち込んだりしているが、ハードルは高い。

 動画投稿サイトで公開したが、無名のクリエイターのオリジナル作品だけに、再生回数は期待の一割程度だ。

 やはり、テレビ放送されたアニメには遠く及ばない。

 漸く、地元CATVが採用してくれたが、文字どおり雀の涙の対価しか支払われない。 テロップに南欣哉と表示されるだけでも感謝しろといわんばかり。


 アルバイトを掛け持ちしているが、写真店は一番の収入源だ。

 学生時代のアルバイトは学費に消えた。

 写真店で働いているのは、応募作品を作る時間を確保しつつ渡米資金を貯めるためだ。

 夢を叶えるためにはハリウッド映画のCG制作会社に就職することが重要なキャリアと考えている。

 CGクリエイターのドキュメンタリー番組を見た輩から、さっさと渡米してチャンスを摑め、と上から目線でアドバイスされるが、そういう奴に限って、ビジネスパーソン気取りの社畜だったりする。

 特定の業界を特集した、一時間に満たないドキュメンタリー番組を観て、その業界を知った気になる、おめでたい奴だが、始末が悪い。

 学生時代、専門学校で特別授業があった。

 第一線で活躍しているOBやOGとの座談会だ。

「お客さんから直接お金をもらうことがどんなに大変か、分かる?」

 すかさず、学生の一人が答えた。

「いい仕事して、お金をもらうんですよねぇ」

 別のOBがお金儲け大歓迎といいつつ、釘を刺した。 第227話 **2016.2.1

「これからクリエイターになる皆さんに、これだけは脳みそに刻んでおいてください。最大限の努力をしても、いい仕事になる訳じゃないってことを!」

 学生の誰かが指摘した。

「それは才能がないから、じゃないですか?」

「才能は磨かなければ開花しません。つまりは努力です。でも才能が開花しても評価されるとは限りません」

「コネがないからですか?」

「それをまったく否定、はしませんが、アニメはポップカルチャーとかサブカルチャーとか分類されますが、要は大衆文化です。受け手の若者のちょっと先を行く感性というさじ加減が、運命を分けるというのは大袈裟かな?」

 分かるような、分からないような、欣哉にとってとらえどころのない話だった。

 多分、他の学生も同じなのだろう。

「話が抽象的だったかな」

 そのOBは頭を搔きながら隣のOGに振った。


「私はヒットしたコミックのアニメ制作をしていますが」

 学生の間から、おお、と響めきが漏れた。

 憧れの仕事だからだ。

「時々、インディーズ系がテレビ番組で取りあげられることがありますよね。

 スポンサーがついてないから公共放送が紹介しやすいという事情もあるのでしょうけど。

 ああいう作品、見てしまえば、なあんだって思いますが、ごくありふれた日常から想像を膨らませる、創造性の一つの手法です。

 今、私が言ったことは、彼の、少し先を行くとは逆の、世間の人が見落とした今をクローズアップするということですね」

 手の届きそうな内容に、どの学生も目を輝かせた。

「皆さんは学生だから、与えられた課題をこなすので精一杯ですが、課題を通して技術を磨いてください。技術なくして表現はできません」


 フリーランスの卵だが、アニメでお金を得ることの厳しさを身に染みている欣哉だ。

 徒手空拳で渡米しても、きっかけすら摑めないとの不安が欣哉にある。

 だから日本で箔をつけたい。

 世間では自分のような存在を夢追い型フリーターというそうだ。

 フリーターの中では少数派、希少種なのだ。

 このコンペこそ。

 渚のカッカブに賭けてみた。

 奇しくも梨花と同じデザイン学校を卒業したが、梨花とは面識がない。

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